職人であり続けるために、新しい職人になる|大澤康二
フランス語で「職人」を意味する「artisan」と、芸術家を意味する「artiste」とよばれる存在は、1793年と1806年の法律で身分が定義されて以来、近代フランスでは分けて考えられるようになった。しかし、中世で両者は「arts(技術)」をもつ技術者として同様に扱われており、近代の階級社会が崩れた現代では、職人のなかにも芸術性が存在することが主張されるようになった。
本来「技術者」を意味するArtisanの姿は、時代に合わせて変っていくとしたら、現代はどんな姿なのか。Restaurant TOYOで活躍するアルチザンたちの話から、新しい職人(Nouvelle Artisan)の姿を浮かび上がらせようとするシリーズの記念すべき第1回は、パティシエの大澤康二が登場する。
二人の偉大なパティシエの元で20代を過ごす
Restaurant TOYO Tokyoのパティシエ、大澤にとってスフレは特別なフランス菓子である。大澤が最初に勤めた西麻布のスフレ専門店「ル・スフレ」のスペシャリテであり、フランス菓子の魅力にどっぷり浸かるきっかけにもなった大切なもの。それは、自身のブランド「スフレ・コウジオオサワ」がスフレ専門にしていることや、TOYO onlineでのスフレ商品の開発にも現れている。
大澤が「ル・スフレ」に入ったのは、後に勤めることになる尾山台のパティスリー「オーヴォンヴュータン」との縁による。エコール 辻 東京の在学中に同店のオーナーパティシエ、河田勝彦氏の講習を受けたことがきっかけで、卒業後は、オーヴォンヴュータンで働きたいと考えていた。
「流行に左右されず無骨な菓子を作る河田シェフにすごく衝撃を受けたんです。とくにお酒をしっかり利かせたフランス菓子の『ババ』の味は、今でも強く印象に残っています。ただ残念なことに、そのときにオーヴォンヴュータンに人員の空きがなくて入ることができなかったんです」
残念ながら入社はできなかったが、河田氏から就職先の紹介を大澤は受けた。河田氏と交友がある永井春男氏がオーナーパティシエを務める「ル・スフレ」だった。
「卒業後、永井シェフの元で3年間働きました。僕にとって現場の基礎を学んだお店ですし、なにより『スフレ』というお菓子に特化して探求し続けている永井シェフの姿勢に、今もとても影響を受けています。『引き出しがないと長く続けていけないよ』という永井シェフの言葉が、このあといたるところで思い浮かぶことにもなります」
ル・スフレで学んだ後は、念願のオーヴォンヴュータンへ。
「フランス語が飛び交う厨房のなかでとても苦労しました。その頃のオーヴォンヴュータンには、最初の2年間は販売をしてから製造に入る決まりがあったんですが、僕はそれを免除されて製造から入ったんです。だけど、河田シェフに怒られてばかり。完全にフランス菓子について『勉強不足』だったんです。毎日必死でその日にやったことをノートにまとめて復習をしたり、終業後に自主的に実習をしたり。今、思い返すと一番勉強した時間だったんじゃないかと思います」
旬の食材を使った「アシェットデセール」のおもしろさ
オーヴォンヴュータンでは、毎日15時半に仕事を終わらせるというルールがあった。それに向けてそれぞれの持ち場を超えて協力しながら仕事を行っていたのが印象的だったと大澤は、振り返る。
「『それで15時半に終わるのか⁉』という感じで、全員が時間内に仕事をし終えることを考えながら毎日動いていました。つまり『効率よく仕事をする』ということなわけですが、かといって『手を抜いている』わけでもないんです。たとえば、アーモンドペーストは、既製品を使うお店もあるんですが、自分たちで作っていましたから。理論に基づいて、その仕事をどう効率化していくか。その意識が大事なことを学びました」
オーヴォンヴュータンで5年ほど働いた大澤は、28歳になっていた。東京・大井町の「レ・サンク・エピス」の立ち上げに参加した後、かねてから本場フランスで菓子を学びたいと希望を実現すべく、ワーキングホリデーの年齢制限(30歳未満)直前にフランス・パリに旅立つ。
2013年にパリに降り立った大澤は、1766年創業でパリ最古のレストランの一つとされる「ラペルーズ」に入った。同店のシェフパティシエは、日本人の佐藤亮太郎氏。佐藤氏は、フランスを代表するグランメゾン「メゾンブランシュ」や「ギー・サヴォワ」でパティシエとして働いた経験を持ち、多数のレストランのデセール(デザート)監修や商品開発などを手掛けるパリを代表する日本人パティシエだった。
ラペルーズで初めてレストランデセールを作ることになった大澤は、ア・ラ・ミニッツ(出来たて)のデザートの奥深さを知ったと同時に、本場でなければ知れないフランス菓子のエスプリを学ぶことができたと振り返る。さらに2014年には、佐藤氏が手掛けたパリ郊外のラボのシェフパティシエとして菓子作りに励んだ。
帰国後は、佐藤氏の紹介で武田健志氏がオーナーシェフを務める麻布十番のフレンチレストランで、当時「ミシュランガイド」の一つ星を獲得していた「リベルテ・ア・ターブル・ド・タケダ」にパティシエとして参画する。
「佐藤シェフからは、パティシエの働き方の幅広さを、武田シェフからは旬の食材の扱い方を学んだと思います。とくに武田シェフとは、コースのデセールのイメージをもらって、それを形にしていったのですが、とくに和の食材を使うアイディアが多く、初めて作るような組み合わせばかりで勉強になりました」
リベルテ・ア・ターブル・ド・タケダでは、現在TOYOの統括支配人兼統括ソムリエを務める成澤亨太と出会うことにもなった。
青年時代は野球とお菓子の“二刀流”
茨城県北部の北茨城市に3人兄弟の真ん中に生まれた大澤は、幼少期から野球少年だった。ポジションはピッチャー。中堅クラスの野球部がある高校に入学したこともあって、部活に明け暮れる日々だった。
しかし、将来の夢はというと、中学2年生頃にはすでに「パティシエになる」と決めていたという。
「母方の叔母が料理やお菓子作りが好きな人で、親戚が集まるとたくさん作ってくれたんです。僕は、その手伝いを小学生の頃から好きでやっていたんですね。中学生になったら自分でも作って家族に食べさせたりもしていました」
さらにテレビ番組「TVチャンピオン」の企画で、人気パティシエたちが真剣勝負を繰り広げていた「全国ケーキ職人選手権」を観て「パティシエ」の存在も知った。
野球も本気でやっていたが、「プロになって食べていくのは難しい」と冷静に考えていたと同時に、「茨城から早く出たかったというのもあります」と大澤は、パティシエを目指そうとした当時の気持ちを正直に打ち明ける。
手に職をつけて自立するためにも「菓子職人」に憧れを抱いた大澤は、卒業後は一人暮らしをすることを決め、パティシエを目指しエコール 辻 東京に通い始めた。
自分で作ったものを自分で売れるのが新しい職人
「僕の夢は、『ル・スフレ』で出会って以来魅了され続けているスフレ専門店を開くこと。リベルテ・ア・ターブル・ド・タケダの後は、独立しようと計画していたのですが、その矢先にコロナ禍で、断念せざるを得なくなってしまったんです」
そんななか、元同僚の成澤から声がかかり、大澤はRestaurant TOYOに入った。
その後は、冒頭に記した通り、自身のスフレブランドの立ち上げや、EC商品の開発など、これまで大澤自身が学んできたことを活かせる取り組みができていることに感謝しているという。そして、この業界に入ったときに河田氏にいわれた「引き出しがないと長く続けていけないよ」という言葉の意味が改めてわかってきたともいう。
「パリの中山豊光シェフをはじめ、前シェフの大森雄哉さんや、新しいシェフの丸山(和孝)ともに働く仲間は、みんな職人の手仕事に誇りをもっています。僕自身もお菓子を作ることが好きでこの仕事に就きました。だからおもいっきり料理や菓子を作っていたい。しかし、ただ作っているだけではその仕事が続けられないことは、今回のコロナ禍で痛感しました。職人が職人の仕事をし続けるためにも、僕たち自身が新しい職人にならなければいけないのだと思います」
大澤が考える新しい職人とは、「自分で作ったものを自分たちで売って、きちんと利益を出せる存在」だ。そのためには、売り上げの管理やプロモーション戦略などもする必要があるという。
「『スフレ・コウジオオサワ』を立ち上げてみて、おいしいスフレを作るのと同じくらい、ブランドのことを知ってもらうことの大切さを学べました。そのためにはSNSを活用したきっかけ作りが必要です。そのあたりはまだ自分にできていないところでもあって、Instagramで1万人以上のフォロワーをもつ成澤に教えてもらわないといけない。そういったSNSの利用は、いずれ自分の店をもつときにも役立ってくることだとおもい思います」
2022年4月からは、「スフレ・コウジオオサワ」を伊勢丹新宿店の人気催事「2022伊勢丹フランス展」に出店する。ポップアップイベントとしては4度目になる今回は、スフレを旬の食材とともに皿に盛り付ける“レストランデセール仕立て”に挑戦する。
大澤パティシエが監修したTOYO onlineの商品
取材・文・撮影=江六前一郎