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【小説】灰色の海に揺蕩う③

 休み明けの月曜日、ということを差し引いても教室のざわめきは普段のそれより大きかった。早朝の海辺に響く海鳥たちのさえずり。あれに良く似ている。
 興奮と好奇心と期待が入り交じった囁き声。
「転校生」
「見た?」
「女」
「今、職員室」
「東京から」
「なんで?」
「きょうだい、いる?」
「どこに住んでるの?」
「可愛い? 可愛くない?」
 勿論、それらの囁きは澄華の耳にも届いてはいた。内容も理解出来ていたが、感想を抱く気にはなれなかった。ハッキリ言ってどうでも良かった。
 胸の中に、どんよりとした澱のようなものが溜まっている。机に突っ伏したまま、澄華は誰かれ構わず罵って叫びだしてやりたい衝動と戦っていた。
 土日は、まるで地獄のようだった。
 恋でホルモンバランスと理性を狂わせた母親は、澄華を引き連れて絶縁状態だった祖父母の家へと突撃を仕掛けたのだ。
「なんだ、お前たち――」
 ひょっこりと玄関先に現れた孫と娘に向けて、祖父が放った第一声はそれである。真っ昼間から、暴漢にでも出会したような顔をしていた。
 驚きすぎて二の句が継げなくなっているのだろう祖父を押しのけ、母は手土産を片手にまんまと祖父母の家へと押し入った。
 台所から顔を出した祖母が「あら……」と呟いたきり、顔を白くして絶句した。
 明らかに歓迎されていない雰囲気を察知していないのか、無視しているのか。茶の間に置かれていたソファに腰を下ろした母は、陽気に祖父母に訊ねて見せた。
「元気だった?」
 ――アンタが言うか、それ。
 あまりにも非常識な母親に、澄華は吐き気を覚えた。祖父母も同様だったらしい。二人とも、顔が土気色に変色していた。
 それにしても、祖父母からどんなエッセンスを搾り取れば母みたいな人間が出来上がるのか。DNAの調合に完全に失敗しているとしか言い様がない。
 母からの問いかけを無視して、口を開いたのは祖父だった。賢明だ。さすが父親。娘の取り扱いの仕方を分かっている。まともに話を聞こうとすればするほど、母のペースに巻き込まれて疲れるだけなのだから。
「何をしに来た?」
 簡潔明朗な問いかけに、母が付け睫毛を揺らしながら答える。
「再婚しようと思うの」
 澄華は現実逃避に視線を遠くした。部屋の温度が、確実に下がったのを感じたからだ。
 祖父が怒りで唇を戦慄かせながら言う。
「再婚でも何でも勝手にしろ。父さんも母さんも、お前のことなんて」
「それで二人に相談なんだけど」
 都合良く拒絶の言葉を聞こえなかったことにした母が、悪びれることなく祖父母に言った。
「再婚したら、彼と二人で住むことになると思うんだよね。だから、澄華のこと預かってくれない? 先のことになると思うんだけど」
 ――そこからの大騒ぎを、あまり思い出したくない。
 祖父は怒鳴り散らして、祖母は泣き出し、母は自分の幸せ未来計画のプレゼンテーションを大声でしていた。
 澄華よりよっぽど年を重ねた大人が三人も揃っているのに、誰も互いの話を聞いていないし、建設的な話し合いをする姿勢を見せない。
 素晴らしい状況だった。
 澄華が口を挟んだのは、あまりにも進まない話し合いに対して嫌気が差したのと、実状をより正確に祖父母に知ってもらうためだった。
「って言うかさ、母さん」
 自分で連れて来たくせに、すっかり澄華の存在を忘れていたらしい。母が驚いたような顔で澄華を見るのに、澄華は言葉を続けた。

「再婚する予定の『彼氏』って、ちゃんと奥さんと別れてくれるの?」

 祖父母が視界の端で絶句している。
 母は澄華の言葉に、けろりと答えた。
「大丈夫。ちゃんと離婚に向けて話し合いを進めてる途中だから」
 ――阿鼻叫喚、再び。
 澄華の言葉は、話し合いを進めるための促進剤としては強力過ぎたらしい。祖父が怒鳴り声を爆発させ、祖母が咽び泣きを始めた。
「お父さんもお母さんも、私のやりたいことに賛成してくれたことなんて一度も無いんだから。昔っからそう」
 母の祖父母に対する不平不満が、耳の底にこびり付いて渦巻いている。
 拗ねてふてくされた口調は中学生の女子生徒そのものなのに、顔は立派なオバサン――本人にその自覚があるかどうかは別として――なのだからゾッとするしか無い。何より、それが自分の母親なのだと言う事実が、ますます背筋を寒くする。
 ――ああ、もう。
 澄華が机の天板に拳を叩きつけたのと、クラス担任が教室に足を踏み入れたのは、ほとんど同時だった。
 教室のざわめきが、波のように引いていく。
「はい、あいさーつ」
 間延びした独特の声で担任のタテイシが言った。野暮ったい黒縁眼鏡をかけて、いつも同じジャケットを着ている国語教師だ。利き手の袖は、チョークの粉で常に真っ白になっている。
 日直の男子生徒が、調子外れの号令を掛ける。
 音にならない空気の囁きが教室の中に満ちている。澄華は、ようやくそれに気付いて教室を見回した。落ち着きの無い視線を交わし合い、廊下からチラチラと見える人影にクラスメイトの意識が奪われている。
 ――なんだっけ。転校生?
 まだ母親の声が耳に響いている気がする。澄華は眉を顰めて、人差し指を耳の穴に突っ込んだ。
 ざわざわ、ひそひそ。
 いつまで経っても静まらない教室に、教壇のタテイシが咳払いをして言う。
「えー、出席の前に、転校生がいるので皆さんに紹介したいと思います」
 タテイシが廊下に向けて顎を引くと、のろのろと一人の少女が教室に入って来た。
 濃紺のブレザーと、チェックのスカート。黒いタイツに、見慣れない校章の入ったスニーカーを履いている。肩口までの髪を垂らして、口を硬く引き結んだ女の子。
「セキグチアザミさん、です。今日から皆さんと一緒に勉強することになりました。――じゃ、挨拶してみようか」
 タテイシが片手で促すのに、黒板の前に立った少女は明らかにたじろいでいる。物凄く嫌そうだ。気持ちは分からないでも無い。そんな少女に、教室中の視線が集中している。無遠慮で容赦の無い集中力。気持ちが悪い。
「――セキグチアザミです。よろしくお願いします」
 感情の籠もらない言葉と共に下げられる頭。
 拍手の音が、どこからともなく巻き起こる。教室中の好奇心が膨れ上がって、今にも破裂しそうだ。皆が息を詰めている。鬱陶しい。それを断ち切るようにタテイシが言った。
「はい、じゃあ、セキグチさんの席は、あそこの空いているところです。えー、授業時間の変更があるので、先生に注目ー」
 わざとらしく手を叩いて告げるタテイシの声に、クラスメイトの何人かが渋々と前を向く。
 いつの間にか増やされていた机とイス。
 それに座る少女の横顔は、いつまで経っても硬いままだった。

■■■■■

「転校生、どうだった?」
 亮の言葉に、澄華は少し沈黙する。それから、簡潔に答えた。
「女」
「へ?」
「女だった」
「スミちゃん……。そりゃ、そうだろうけどさ」
 そうじゃなくて、と呟く亮の顔に浮かんでいるのは紛れもない呆れだった。澄華は頭を振って、投げやりに言う。
「知らんし。だって話して無いから。顔、見ただけだし」
 休み時間の度に、転校生の周囲には人だかりが出来ていた。先頭に立っていたのは、タカサキとクラミチの二人で、あの二人の背中は鉄のカーテンよりも分厚く、ベルリンの壁よりも高く出来ているらしい。転校生は、その他のクラスメイトたちから完全に分断させられていて、特定の女子グループに独占されていた。
 東京のドコに住んでたの? 彼氏いた? 芸能人、見たことある? 渋谷とか行ってた?
 矢継ぎ早な質問に、転校生が何と答えていたのかは知らない。他の女子生徒の声に埋没してしまうぐらい、彼女の声は小さかったからだ。そして、返答も素っ気ないようだった。
 苛々と爪を弾きながら答える澄華に、玲が言った。
「――なんかあったの?」
「は?」
「機嫌悪いから」
 澄華は、玲を睨むように見た。玲がじっと澄華を見つめている。
「いつもより、三割増しぐらい。悪いでしょ、機嫌」
「別に。友達へのプレゼントキャンペーン中だからじゃない? サービスしてるだけ」
 下手くそな澄華の軽口に取り合わず、玲が首を傾げて言った。
「お母さん?」
 ピンポイント。
 しかも、正解。
 玲の言葉に、ブワッと頭の毛穴が開いた気がした。
「――玲ちゃんってさ」
 ギリギリと指先に爪を食い込ませながら、澄華やっとの思いで言葉を吐き出した。
「冷静すぎて、ムカつく」
「ありがと」
 嫌味に対して、やっぱり冷静な声で答える玲に、澄華は白旗を掲げる。そもそも、玲と喧嘩をしたって仕方が無い。頭をかきむしるようにしながら、週末に起こった不愉快な出来事を二人に向けてブチ撒ける。
 話をしている内に感情が昂ぶってきて、涙目になる自分が澄華は心底嫌いだ。
「――え? スミちゃん、どうなるの?」
 亮が戸惑ったような顔で言うのに、澄華はうんざりとした顔で片手を振った。
「知らない。まず、ウチの母親が再婚出来る気がしないんだけどさ。相手のオトコが本当に離婚するのかどうかも分からんし」
 結婚は一人では出来ない。
 勿論、離婚もだ。
 それをあの母親は分かっているのだろうか?
 澄華は思わず手元に視線を落として、爪を弾いた。
 突然、口を利いてくれなくなった同級生の女の子。苦い記憶が蘇ってきて顔が歪む。
 どうして澄華の母親はパブロフの犬より馬鹿なのだろう。
 恋に浮かれての愚行は、もうたくさんだ。
 祖母が泣きながら呟いていた言葉が、ふっと頭に思い浮かんだ。
『情けない』
 ――情けない。
 本当に、その通りだ。
 情けない。
 それ以上、あの母親を表現するのに相応しい言葉が見あたらない。
 泣き叫びたい気もしたが、胸の中にため込んでいたもやもやを吐き出したせいで、気持ちが萎えてしまっている。
 これから家に帰って、浮かれ頭の母親と対峙しなければならないのかと思うと、げんなりした。エネルギーが枯渇している。何も考えずに眠りたい。
 大きく息を吐き出す澄華に、頬杖を付いて玲が言う。
「スミのお母さん、大丈夫だよ。多分」
「――何が?」
「再婚。しないよ、多分」
 その言葉に、澄華は胡乱げに玲を見た。亮も瞬きをして玲を見ている。
 二人分の視線を受け止めた玲は、肩を竦めながら素っ気なく言った。
「分かんないけどさ。きっと、再婚出来ない」
 妙に説得力のある口調だった。澄華は片眉を上げる。亮はテーブルの上に顎を乗せて言った。
「玲ちゃんって時々、予言者みたいになるよね」
 玲が瞬きをして、珍しく皮肉っぽい笑顔を浮かべて言う。
「地球が滅亡する日でも予言してやろうか?」
「なんか怖いから、しなくていいよ」
「うん。洒落にならなそう」
「何それ。二人とも、俺のことなんだと思ってんの」
 澄華と亮の本気の制止に、玲が吹き出した。
 一瞬の沈黙。
 それから三人で視線を見交わすと、誰ともなく笑い声を上げてお菓子の買い置きをいつもより奮発してテーブルの上に広げた。

続く

※この作品はエブリスタでも掲載しています。

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