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【小説】灰色の海に揺蕩う②

 太陽が昇りきって間もない、ひんやりとした空気の中に、爽やかな潮の匂いがする。風の影響だろう。町が海の香りに浸っている。こんな香りを楽しめるのは一年の内で数日だけだ。
 初夏。
 うだるような暑さが襲い掛かって来る前にだけ、この匂いがする。澄華はそれが嫌いでは無い。
 自転車のペダルを踏み込んで、学校へ向かういつもの道を走っている。
 部活動にも委員会活動にも参加していない澄華が、誰よりも早く学校に登校するのは、母親と過ごす時間をなるべく減らしたいからだ。
 築三十五年。1LDKのアパートで、母娘それぞれのプライバシーを遵守しようなんて不可能に近い。
 アルコールの臭いをプンプンさせて朝帰りをした母親は、気持ちが悪いぐらいご機嫌だった。
 この世に、恋で頭が浮かれている母親ほど性質の悪いものは無い。猫撫で声で名前を呼ばれて、澄華の背中を悪寒が走った。中学生の教育に悪いあけすけな惚気話が始まるのは目に見えていたので、慌てて家を飛び出してきたのだ。
 ――今回の『彼氏』は妻子持ちの気がする。
 澄華のこれまでの経験と本能がそう告げる。母は他人のモノに手を出している時こそ、燃え上がるという厄介な性質を持っていた。
 誰もいない校門を潜って、校舎脇の自転車置き場でブレーキを掛けた。中学校のステッカーが貼られた銀色のフレームの自転車は、海風のせいでアチコチが茶色く錆び付いている。指定の通学鞄をカゴから取り上げながら、澄華は小さく溜息を吐いた。
 実家を頼って帰郷したはずの母が、祖父母との同居を解消したのは、澄華が小学校に上がる頃のことだった。
「お父さんたちと暮らしてるとストレスが溜まる」
 そう言い捨てて、今のアパートを借りて実家を出た。
 それから祖父母と母は、完全に没交渉だ。孫である澄華すらロクに顔を会わせたことが無いという有様である。同じ町に住んでいるにも関わらず。推測するに、母との同居がストレスになったのは祖父母の方だったのだろう。
 実家を出てからの母は、恋愛ごとに対していっそう奔放になったと思う。
 澄華が小学校二年生の時だ。
 母が、同級生の父親と関係を持って、その家庭を崩壊させたのは。
 その同級生と澄華は仲が良かった。しかし、ある日を境に彼女は澄華に対して口を利いてくれなくなった。原因も分からず、無視をされ続けたまま――彼女は前触れも無く別の町へと引っ越して行った。
 澄華が事のあらましを知ったのは、母親の『彼氏』として、その子の父親がアパートを訪ねて来た時である。
 思い出しても衝撃的で、吐き気がこみ上げてくる。
 その日、澄華は玲の家に逃げ込んで、さんざん泣き喚いて暴れた。
 ――手近で性欲発散するの、やめてくれないかな。
 あの頃より澄華も成長しているが、母の行動に責任を持てるほど大人になったワケでは無い。というより、母にこそ大人としての責任を持って行動して欲しいものだ。
 大人になるのに、免許があれば良いのに。
 完全に「大人」の意味を履き違えている澄華の母親に、落第の通知を突きつけてやりたい。朝帰りの母親を見る度に、澄華はいつもそう思う。
 一番乗りの教室で、澄華は鞄を投げ出すようにロッカーに放ると、自分の机に腕を組んで突っ伏した。登校する他の生徒たちで校舎が騒がしくなるまでには、まだ時間がある。
 胸の中には、なんとも言えないモヤモヤが詰まっている。気持ちを落ち着かせるように、深呼吸を一度、二度、三度。目を瞑って頭を空っぽにする。そうして、しばらくしている内に、澄華はいつものように浅い眠りに落ちる。
 パタパタ……。
 パタパタ……パタパタ…。
 夢かな、と思った。
 聞き慣れない音がする。
 耳を澄ませば澄ますほど、その音が大きくなって、澄華はがばっと姿勢を起こした。
 瞬きをすれば、パタパタという音は、まだ廊下から聞こえている。
 人のいない廊下にどれほど音が反響するのかを、澄華は良く知っていた。
 足音だ。
 軽く、誰かが駆けているようだった。
 見回りの教頭や、校内の点検をしている校務補の足音では無い。
 二人の内のどちらかなら、必ず教室に顔を出して澄華が眠っていようがいまいがお構いなしに『朝の挨拶』を強制して寄越すからだ。
 ――それなら、いったい誰だろう。
 澄華は滅多に抱かない好奇心に突き動かされて椅子から立ち上がった。開けっ放しの教室の出入り口から、首だけを突き出して廊下を覗き見る。
 見えたのは、学校で来客用に使われている派手な黄緑色のスリッパを履いた細い足だった。ひだの付いた制服のスカート。セーラー服の襟。肩口まであるサラリとした黒い髪の毛。
 その後ろ姿が廊下を折れて、吸い込まれるように見えなくなる。
 いつの間にか、足音は聞こえなくなっていた。
 校舎は、早朝特有の静けさに包まれている。
 夢かな――。
 教室の中に首を引っ込めて、自分の机に座ると、澄華は腕を組んで突っ伏した。
 あれは誰だろう。どうして、こんな早朝に、廊下を走り回っていたのだろう。
 考えたところで正解は浮かばない。
 フジコサン。
 その名前が、ごく自然に自分の頭の中を過ぎって、澄華はぎょっとした。
 噂に毒されている自分が忌々しくて仕方が無い。
 ――馬鹿馬鹿しい、有り得ない。
 アレが誰だって別に良いでは無いか。澄華には関係の無いことだ。澄華の母親のことと違って。そこまで考えて、朝帰りの母親の猫撫で声を思い出して、澄華の背中に怖気が走る。
 母のことを考えると、いつもロクなことが起こらない。
 いつもの喧噪に教室が包まれるまで、澄華は貝のように固く目を閉じて、束の間の浅い眠りに就いた。

■■■■■

「何それ、怖い」
 亮が目を丸く見開いて言う。
 その顔を見て、澄華は却って頭が冷えた。
 言葉にしてしまえば何てこと無い。早朝の学校に澄華以外の女子生徒が居ただけの話だ。たまたま来客用のスリッパを履いて。部屋の主である玲は、完全に澄華の話に興味を失っている。宿題である数学のプリントを眺めながら欠伸をしていた。
「玲ちゃん、ちょっと。怖くねぇの?」
「別に。見たの、俺じゃないし」
 その言葉に、思わず澄華は頷いていた。
「だよね」
「話持って来たの、スミちゃんじゃん!?」
 裏切られたと言わんばかりの亮の叫び声に、宿題のプリントを引っ張り出しながら澄華は答えた。
「亮の反応を見てたら冷静になったわ、逆に」
「なんなの、それー」
 意味わからん、とボヤきながら亮も鞄の中を漁り始めた。やがて、しわくちゃにになったプリントを取り出して、丁寧にその皺を伸ばしながら言う。
「タグチ先生のプリントって分かり難くない? なんで手書き?」
 玲がシャープペンを指で回しながら答えた。
「あの先生、パソコン苦手らしいから。しょうがないんじゃない? もうすぐ定年なんだから我慢するしか無いっしょ」
「それより、マイナスにマイナス掛けたらプラスになるって言う説明の方が意味分からんし、分かり難い。どう考えたって、マイナスとマイナスの掛け合わせってマイナスじゃない? 負のサラブレッド的な」
 澄華の愚痴に対して、玲が呟くように答えた。
「紙の上でぐらい人が希望を持てるように、じゃない?」
 痛烈だった。
 時々、玲はこんな風に尖ったことを言う。
 思わず澄華は半眼になった。
 亮がポカンとした顔で言う。
「何それ、哲学?」
 玲は肩を竦めるようにして、澄華のプリントをシャープペンで指した。
「そこ、入れる式違う」
「マジか」
「そういえば、数学って哲学の仲間なんだっけ?」
 連立方程式に関わるいくつかの問題を片付けて、三人はなんとなくテーブルを囲む。
 小遣いを出し合ってストックしておいた菓子の中から、コンソメ味のポテトチップスを選んで広げる。
 玲がふと、思い出したように言った。
「つーかさ。スミ、大丈夫なの?」
「は? 何が?」
 唐突な質問に澄華は首を傾げた。
 特別、玲に心配されるような理由が思い付かない。
 ポテトチップスを一枚摘み上げながら、玲が淡々と言葉を続けた。
「なんかヤバいって聞いたから」
「は?」
 ヤバい?
 何が? 
 誰が? 
 私が?
 私の母親が?
 露骨に怪訝な顔をする澄華に視線をやって、亮が丁寧な口調で言う。
「3組。女子、揉めてるんだって?」
「へぇ?」
 自分のクラスのことだというのに、初耳だった。
 仕方が無い。澄華は所詮、海面に浮かぶクラゲだ。熱帯魚の群れには混じれないし、混じる気も無い。
 ポテトチップスをバリバリと食べていた亮が、驚いたように手を止めて、澄華を見て言う。
「そうなの?」
「いや、知らないって」
 今日の記憶を巻き戻して見るが、頭の中に浮かぶのは、いつもの潮騒のようなざわめきだけだった。反応の薄い澄華を見ながら、亮が真顔になった。
「澄ちゃん、自分のクラスのことだからね? マジメに大丈夫?」
 大丈夫、と安請け合いするのもはばかられて、澄華は誤魔化すようにポテトチップスを摘んだ。
 クラスで完全に浮いている澄華とは異なり、玲も亮も、教室という社会にキチンと適応している。それが性別の差によるものなのか、性格の違いから来るものなのか、澄華は深く考えないようにしている。
「女子って言ったってさぁ、誰と誰が揉めてんの?」
 自分の『ボッチ』具合を知らしめるような反応をしてしまった気まずさを、誤魔化すように質問を投げた。玲の答えは簡潔だった。
「タカサキとクラミチ」
「うぇ」
 最悪、という言葉が反射的に浮かぶ。
 あの手の女子グループが、一度意見の食い違いを生じさせると、第三者の手に負えない事態が巻き起こるのは常識だ。
 お互いに相手が悪いと言い張って譲らないまま、教室の空気までを荒んだものに変えていく。普段では考えられないぐらいの罵詈雑言で互いを批判しあって、そして、ある日を境に、そんな諍いなど存在していなかったかのごとく、ぴたりと身を寄せ合いながら他愛の無いお喋りに興じて見せるのだ。
 まるで何かの儀式のように一年に一回は発生する、教室内の津波。
 澄華は眉を寄せながら言った。
「キラキラ女子の二大巨頭じゃんか。なんで喧嘩してんの? 好きな男子が被った? 抜け駆けでブランドバック買った? LINEの既読無視でもされた?」
 玲が淡々と答える。
「知らんけど。ヤバいって言うのは聞いたからさ」
「ヤバいって、何が?」
「だから、知らないけど」
 肩を竦める玲は、相変わらず低体温だ。ポテトチップスを口に放り込みながら、眠たげな黒目を澄華に向けて言う。
「とりあえず、巻き込まれないように気を付けたら?」
 次の日から、玲の忠告に従って、澄華は教室の様子に普段よりも気を配ることにした。
 とは言っても、積極的な行動を起こした訳ではない。ただ、机に突っ伏している時に、いつもよりも聞き耳を立てることにしただけだ。
 そもそも、どれだけ津波が大きかろうと、海面を漂うだけのクラゲにダメージなど無いに等しい。ただ、げんなりとさせられるだけだ。
 玲は何を持って「ヤバい」という表現を使ったのか、よく分からない。澄華の対人能力では、不穏な動きの欠片も察知することが出来なかった。
 タカサキとクラミチ。
 タカサキアイは、目鼻立ちがハッキリとした少女で、地毛と言い張る茶色の髪を丁寧にアイロンで巻くことに余念が無い。
 クラミチマイコは吊り目がちで、黒い髪の毛を複雑に編み込んで、片手にリップクリームを手放さない少女だ。
 二人とも、女子の中で独特の存在感を放つことに長けていた。――澄華にとって、それは母親に似ていると言うことと同義で、つまりは忌避の対象だった。
 耳を澄ませなくても聞こえてくる会話の内容は、多岐に渡っていて実に取り留めがない。
 部活動。特定の教師に対する辛辣な評価。同級生に関する噂話。昨日のドラマ。芸能人のプロフィール――そして『フジコさん』。
「また出たよ、フジコさん」
「ヤバいね、呪われてるんじゃない?」
「お祓いしよ、お祓い」
 意味あり気な笑い声と、囁き声。
 澄華は思わず顔を上げた。
 スマートフォンをのぞき込みながら会話を交わす少女たち。飽きっぽい彼女たちが、どうして『フジコさん』の噂話をこれだけ長く続けているのか。
 なんだか奇妙な気がする。
 首の凝りを解すように、ぐるりと頭を振ってから澄華は教室を斜めに見渡した。
 開け放した窓からは温い風が吹き込んできて、一括りにされたカーテンの束をバタバタと揺らしている。壁に貼られた掲示物がはためいて、少女たちのスカートが揺れる。
 可愛いから、という理由で意味もなくスカートを折りたたんで、丈を短くする彼女たち。
 玲が耳にした噂話は古いものだったのでは無かろうか。
 それか澄華のあずかり知らぬ内に、タカサキアイとクラミチマイコの間で何らかの折り合いが付いたのか。
 頬杖を付いて、ぼんやりと考えていると不意に一人の少女が澄華の机の前に立った。
「――あのね、ハセガワさん」
 遠慮がちに声を掛けられて、澄華は視線を上げる。
 キラキラ女子のグループの一人だ。
 名前は――確か、サクラトウコ。
 肩口まで切り揃えた髪を綺麗に梳かした、色白の少女。小学校も違うこともあって、性格だのなんだのは知らない。
 北海道の町はどこもそうだろうが、一口に町と言っても面積が広すぎる。畑、牧場、林、森、山、川。人の住んでいる土地よりも、住んでいない土地の方が広い。そこに点々と人が住んでいるので自然と通学区が広くなる。
 住宅や商店が密集した市街地を抜けた郊外に小学校がいくつも建てられていて、その地域に住む子どもたちと、町場の子どもの交流は殆ど無い。町の子どもたちが一同に介するのは、町の真ん中にある中学校に通うことを余儀なくされてからだ。最近は、教育方針やら少子化対策やらで、郊外にある小学校がどんどん統合されているらしいが――。
 とにかく、サクラトウコも町が出すスクールバスで郊外から中学校まで通っている内の一人であることに間違いは無い。
 オドオドとした口調で、サクラトウコが言う。
「ふるさと学習で、ペアになったでしょ。それで、課題のプリント、提出しないといけないから……」
「あぁ……」
 そう言えば、そんなものもあった。
 郷土学習と言うものの大切さが盛んに叫ばれているらしく、町の歴史や産業について年に一回は必ず学ばされている気がする。何年も同じ様なテーマを与えられている内に、生徒の方はすっかりとやる気を失っている。町のホームページで当たり障りの無い記事を拾い、だらだらと発表するだけの流れ作業。それこそ小学校の頃から何度と無く繰り返されてきた『学び』のせいで、澄華は却って、ふるさとが嫌いになりそうだ。
 机の中にあったプリントを取り出して、転がっていたシャープペンを押しやりながら澄華は言う。
「名前だけ書いておいて。テキトーにやって、出しておくから」
 サクラトウコが瞬きをした。黒目が潤んでいる。やけにオドオドとした雰囲気とも相まって、澄華は目の前の少女がチワワに見えてきた。あるいは金魚。丸い鉢の中を、おどおどと泳ぎ回る赤いデメキン。
「いいの……?」
「いいよ。サクラさん、部活やってるし。忙しいでしょ。時間合わせて調べ物するのも大変だし、出す前に内容だけチェックしてくれれば良いから」
 シャープペンを手にしながら、サクラトウコは口ごもって言う。
「……LINE、教えてくれる? そしたら、一緒に出来るよ?」
「ケータイもスマホも持ってないから。わたしの家、電話も引いてないし」
「あ、そうなんだ……」
 サクラトウコが何かを訴えるように、潤んだ黒目を向けて来た。
「あのね、ハセガワさん…」
「なに?」
 目が合った。そう思った途端に、視線がさっと逸らされる。
「やっぱり何でもない。ごめんね、よろしく……」
 クセのある握り方でシャープペンを掴んで、氏名の欄に小さな文字で署名すると、サクラトウコは小さく頭を下げて澄華の前から立ち去った。
 ついでに自分の名前を書き付けてから、プリントを机の中にしまい込むと、澄華は再び机の上に突っ伏した。
 二、三日そうやって教室の喧噪に耳をそばだてていたが、特別に不穏な気配を感じ取ることは出来なかった。気になったのは『フジコさん』の噂話が、だんだんと過激で悪趣味になってきたことぐらいか。
『呪われる』。
『不幸になる』。
『死ぬ』。
 B級のホラー映画の宣伝文句より陳腐な言葉の羅列に、澄華は注意を払っているのが馬鹿らしくなってきた。
「別に、ヤバい雰囲気も何にも無いから大丈夫だって。仮にヤバくなってても、そもそも関わって無いんだから巻き込まれようがないし」
 いつものように、放課後の時間。
 玲の家を訪れて、心配げな幼なじみ二人を前にそう告げて、澄華はぞんざいに手を振った。
「それもどうかと思うよ、スミちゃん」
 亮の呆れた視線を浴びながら、澄華は肩を竦める。今更クラスメイトの輪に飛び込んで、仲良しごっこが出来るほど神経が図太いわけでも無いし、そんなことに労力を割くつもりは欠片も無い。
 何を考えているのか良く分からない顔で澄華の言葉を聞きながら、首を傾げた玲は淡々と言った。
「それなら、別に良いんだけど」
 その日、いつものように玲の家を出てアパートに帰った澄華は、窓に明かりが灯っているのを見てぎょっとした。自転車が軋んだ音を立てて停まる。
 澄華と母親が暮らすアパートのドアは、ピッキングが簡単に出来そうなほどにボロだが、部屋の中に居るのが泥棒や空き巣ならば悠長に電気を点けて居座ることはしないだろう。
 つまり、もう一人の同居人――母親が、部屋に帰ってきていると言うことだ。
 金曜の夜八時に。
 あり得ない。
 あの女が、この曜日の、この時間帯に、この家に居るだなんて。
 最悪『彼氏』との遭遇を覚悟してドアを開けたが、玄関のタタキには仕事には母が仕事に使っている地味なパンプスが転がっているだけだった。そろそろと居間に上がると、折り畳み式の白いテーブルの上には、食器が伏せられて置かれている。母親は部屋着の上からエプロンを付けて、台所に立っていた。
 澄華は呆然とした。
 一体、何が始まろうとしているのだろう。
 澄華の母が振り返って、明るい声で言った。
「お帰り。また、玲くんの家?」
「そうだけど……。何、これ?」
「ご飯、一緒に食べない?」
 澄華と同じ、茶髪の猫っ毛を後ろで一つ縛りにした母親が、まるで知らない人間に見えて来た。
 異常に朗らかで、穏やかなのだ。
 これが他の人間ならば澄華だって狼狽しない。けれど、目の前にいるのは自分の母――長谷川香苗なのだ。
 あり得ない。
 回れ右をして、家から飛び出したい衝動を何とか堪える。
 私は澄華の母親である前に、長谷川香苗って言う一人の女性なの。
 母が普段から主張してはばからないのは、それに尽きる。
 自分には女としての人生を謳歌する権利があるし、それが娘の有無によって左右されることなどあってはならない。「産んだ」ということに対する責任を都合良く棚上げして、いつもその言葉を繰り返す。
 いい加減に聞き飽きた。
 掃除・洗濯・料理・育児を母親である自分に強制することは性差別だ。自分のことは自分でやりなさい。お母さんは大変なの。
 そう言って全てを放り出すようにして自分の人生を楽しんでいる筈なのに、母はいつも張り詰めていて、常に何かに追われていた。誰にも責められていないのに、常に言い訳ばかりを口にして。余裕が無くピリピリとしていて、もっと幼い頃――澄華はそんな母が怖かった。
 二人暮らしを始めて、最初はレトルトでも作り置かれていた食事が五百円玉一枚に化けて、澄華が身の周りのことをほとんど自分で片付けるようになっても、それは変わらなかった。
 母親の手料理を目にするのが、いつ以来のことなのか。
 澄華には全く思い出せない。
 返事も聞かずに二人分の食卓を整えた母は、歌でも口ずさむように言う。
「ねぇ、澄華は『お父さん』が出来ても、別に気にしないでしょ?」
「――は?」
「お母さんの幸せ、お祝いしてくれるでしょ?」
「は?」
 にこやかに小首を傾げて問いかけてくる母に、澄華の思考は停止した。
 ――なに言ってんの、この女。
 津波は、全く予想していなかった方向からやって来た。

続く

※この作品はエブリスタでも掲載しています。

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