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【小説】灰色の海に揺蕩う④

 転校生・セキグチアザミへの風向きが変わったのは、転入の次の日だった。
 スマートフォンを片手に、深刻ぶった顔で女子生徒たちが情報を交換している。
 澄華は餌場の鯉を思い出す。口を開けて、物欲しげに餌を貪る――色とりどりの魚。
 幻の新婚生活に備えて、ままごとのように家事を始めた澄華の母親並に醜悪だ。
 玲の家で吐き出した心の澱は、家に帰って現実を目の当たりにさせられると、再び心の中に降って積もる。ああ、嫌だ。
「アニキがクスリで捕まっちゃったから、こっちにやられたんだって」
「マジ?」
「LINEの友だちに聞いた」
「あたしも」
「え? じゃあ、一緒に住んでるのって、やっぱり親じゃないんだ?」
「親戚だって」
「げー。ドラッグとかヤバいじゃん」
「ねぇ」
「――ってかさぁ、あの子も怪しくない?」
「ねー。家族って言うか、兄弟がヤってたんでしょ?」
「絶対、関係なくないよねー」
 教室のど真ん中でする話じゃねーだろ、他人のプライバシー。
 自分たちの影響力を分かっているくせに、それを敢えて分かっていないフリで押し切るところに嫌らしさを感じる。
 巧妙で不愉快だ。
 机から頭を上げて、澄華は少女たちを睨みつける。ミニチュア版の母親、もしくは過去の母親を見せられているようで神経に障る。
 ――黙ってくれないかな、頼むから。
 思っていると、ぴたりと話し声が止まった。
 澄華の願いが通じた訳ではない。噂の張本人が登校して来たからだ。
 相変わらず、前の学校の制服に身を包んで口を堅く引き結んだ少女。
 タカサキとクラミチの二人が、素早く視線を見交わしたのが視界に入る。撒き餌に群がる魚の群。女子生徒たちがセキグチアザミを取り囲む姿が今から見えるようだった。
 ねぇねぇ、セキグチさんのお兄ちゃんってさぁ――。
 甘ったるい声と共に、人の傷口に塩を塗り込むやり口。
 ――無邪気だったら、いや無邪気なフリをしていれば、何をしても良いと思うなよ。
 気が付いた時には、イスを蹴るようにして立ち上げって澄華は教室を横断していた。
 これだから嫌なのだ。
 心の澱のせいで、身軽ではいられない。
 浮かんだままでいられない。
 何もかも、母親のせいだ。
 思いながら、タカサキとクラミチのグループが、転校生の席にたどり着くよりも先に、澄華はセキグチアザミの机の前に立った。
 セキグチアザミが怪訝な表情をして顔を上げる。
 それはそうだろう、澄華はセキグチアザミと会話をしたことなど一度も無い。長谷川澄華と言う人間が、この教室に存在していたことを認識していたかどうかも怪しい。それは澄華だってそうなのだから、お互い様だ。
 そのまま、澄華は口を開いた。
「おはよう、セキグチさん」
「あ……、おはよう?」
「ちょっと話あるから。付き合って」
 反論は許さずに、澄華はセキグチアザミの腕を掴んだ。引きずられるようになりながら、それでもセキグチアザミが戸惑ったように付いてくる。
 教室から舌打ちが聞こえた。
「――なに、あれ」
「ハセガワって、口利けたんだ?」
「邪魔してんじゃねーよ」
「ビッチ」
 ビッチの意味も知らねぇくせに、口に出して使ってるんじゃねぇぞ、クソが。
 巻き込まれないように気を付けたら、と言う玲の声を思い出したが、後の祭りだ。渦潮の中へ自分から身を投げた自覚はある。けれど、やってしまったことは取り消せないのだから仕方がない。
 澄華がセキグチアザミの腕を放したのは、特別教室が固まっている別棟の階段の踊り場でだった。周囲に人影がないことを素早く確認して、改めてセキグチアザミに向き直る。
 突然の澄華の暴挙に、相手は明らかに困惑していた。
「えっと……?」
 気まずそうな顔で、首を傾げられたのに構わずに、澄華は視線を逸らしたまま用件を切り出した。
「お兄ちゃん、クスリで警察に捕まってんの?」
 ビクッと、少女の体が跳ねる。
 強ばった硬い表情が、澄華のことを睨みつけてくる。
 警戒する瞳に、澄華はぞんざいに片手を振った。
「タカサキとクラミチが朝からデカい声で話してたから、教室中知ってる。LINEとかで、前の学校の子に聞いたらしいよ。たぶん、今日中に学校に広まると思う。小さいからさ、田舎だし。根ほり葉ほり聞かれまくるだろうから、覚悟しておいた方が良いと思うよ。それか陰で色々言われまくるか」
 そこで一つ息を吐いて、澄華は言った。
「そんだけ、なんだけどさ。――いきなり、朝からごめんね」
 セキグチアザミが拍子抜けしたような声で言う。
「――それだけ?」
 澄華はあっさりと頷いた。タカサキとクラミチの思うとおりに事が運ぶのが気にくわなかっただけで、澄華自身はそれほどセキグチアザミに興味が無い。
「それだけ。あ、つーか、教室で困ったことになってても助けられないから。そういうの期待しないでね。今回だけの、忠告みたいな?」
「忠告……」
 呆然と言葉を繰り返すセキグチアザミを見て、澄華は首筋を掻いた。
 毒を持つ熱帯魚の群れに、クラゲごときが何をしようと無駄だろうと分かっている。そもそも、どうしてやる気も無いのに、こんなことを言うのだから――自分も大概に人でなしだ。
 本当に、柄に無いことをしてしまった。
 後悔しながら、澄華は更に忠告を重ねる。
「――それから、わたしにも関わり合いにならない方が良いよ」
「え?」
「自分で言うのもなんだけど、浮いてるからさ。クラスで。ボッチだから」
 セキグチアザミが、ポカンとした顔で澄華を見ている。それはそうだろう。いきなり拉致同然に連れてきて、一方的に過酷な現実を突きつけるだけ突きつけてポイなのだ。無責任にもほどがある。
 これでは澄華の母親と同じか。
「――あの、さ」
 教室を飛び出してきた考え無しの勢いに、自己嫌悪を覚える澄華を見据えて、セキグチアザミが言う。
「名前、聞いても良い?」
「……ハセガワスミカ。名字は、長い谷の川。名前は、さんずいに登山の登。それから難しい方の華」
「長谷川さん。えっと、セキグチアザミです。関ヶ原の関に、顔にある口で関口。あざみは、ひらがな」
「ふぅん――」
 そうだったんだ、と思いながら澄華は関口あざみを改めて見やる。
 見た目より、しっかりとした口調で話す子だなと思った。
 べったりとした甘えも、空っぽの押しつけがましい同調も、こちらの意見を伺うばかりの媚びも見られない。それは澄華の中で、かなりの好得点だ。
「あのさ、ありがとう」
「は?」
 あざみの言葉に、澄華は思い切り首を傾げた。
「お礼言われることじゃなくない? 助けないって言ってるからね、わたし。つーか、今の忠告なんてクソの役にも立たないでしょ」
「でも、他の子は忠告もしてくれなかったと思うからさ。――正直、アニキのこと聞かれるのキツいんだよね。こんなに早くバレると思って無かったし」
 あざみが苦い顔で笑って言う。
「だから、ワンクッション入れて貰って助かった。ありがとう」
「――どういたしまして」
 そのまま目を合わせて、互いに沈黙する。
 澄華は足踏みをしてから言った。
「――教室までの帰り方、分かる?」
「うん。大丈夫」
「一緒に帰ると面倒くさいと思うからさ。関口さん、先に帰って貰える?」
「了解。ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
「それじゃ――」
「うん。それじゃ」
 澄華はあざみに背中を向けて、そのまま歩き出した。五分ほど、校舎内をブラツいてから教室に戻る。予想に反して、あざみを取り囲む人の群は見られなかった。
 その代わり、とでも言うように教室のあちこちから澄華に突き刺さるいくつもの視線。
 どうやら、澄華があざみを外に連れ出したことが思わぬ牽制になったらしい。一挙一動を監視するような視線をビシバシと感じながら、澄華は自分の机に腰を下ろしていつもの様に机の上に突っ伏した。
 顔を伏せる直前に、澄華はちらりとあざみの方を窺った。
 唇を堅く引き結んだ少女が、背筋を伸ばして頑なに前を向いているのが、やけに印象に残った。

■■■■■

「スミちゃん、転校生と友だちになったの?」
「いや、違うし。つーか、保護者かアンタは」
 玲の家に着いた途端に、目をキラキラさせた亮が見当違いの質問をぶつけて来たので、澄華は思い切り苦笑した。玲の部屋のシングルベッドに陣取ると、クッションを抱きかかえるようにして言う。
「タカサキとクラミチが性格悪いことやろうとしてるのを邪魔しようとしたら、なんか話すことになっただけ」
 澄華の言葉に、玲が軽く目を見開いて言った。
「邪魔しに動いたんだ? スミが? 自分から?」
 呟く玲の顔に『珍しい』と殴り書きがされている。日向で甲羅干しをする亀並に、教室の中で動いていない自覚はあったが、玲にまで言われるとなんだか情けなくなってくる。ついでに、自分の行動の特異さに頭を抱えたくなって来た。
「ストレスのせいで、ホルモンバランスが崩れてるんだ。今、わたしは普通の精神状態じゃない。いつもより活発になる何かが脳から分泌されてる」
「それ、自分で言う?」
「十年以上も家事を放棄して来た女が、家に帰る度にニコニコしながら台所に立ってるの見せられたらおかしくもなるって。マジで視界の暴力。訴えたら勝てそう」
「あー、怖いよね。そういうの」
 相変わらず浮かれ頭の母を揶揄するように放った言葉に、亮がやけに真剣な顔で頷いた。澄華は首を傾げた。
「亮、どうかしたの?」
「え?」
「なんか今、目が死んだ」
「へ?」
 微かな感情の動きも読み取れるのが、幼なじみの長所であり短所だ。澄華の言葉に、亮の目が分かりやすく泳ぐ。
 澄華と玲は素早く目を見交わすと、前のめりになって亮へと詰め寄った。
「隠し事なんて亮の柄じゃないんだからさ。さっさと吐いちゃえって」
「なに? 家族関係? 妹が何かやった?」
 玲の発した『妹』という単語に、亮が瞬きを速くする。
 澄華は玲の顔を見た。
 今日も憎らしいぐらいの冷静さを発揮して、ピンポイントに正解を突き刺したらしい。
 亮が諦めたような顔で、澄華と玲の顔を順繰りに見て口を開いた。
「――沙樹がさぁ、学校でイジメしたらしいんだよね」
「へぇ?」
「ふぅん?」
 澄華にして見れば、何の意外性も無い出来事だった。それぐらい、してもおかしくないし、むしろするだろうなと思う。
 亮に対する振る舞いは、一家総ぐるみのイジメだ。というか、虐待だ。
 家族という最小単位の中で、一人の存在を無視して、一人の存在ばかりを優遇する。
 日常的にそれを見せつけられて――望む望まざるに関わらず加担させられて、育てられているのだから、それを普通だと思い込んだ亮の妹が、その特性を外で発揮してみせたところで何ら不思議は無い。
「結構、デカい話になってるみたいでさ。PTA懇談会とか開かれちゃったり。それで、母さんが学校から呼び出されて、担任とか教頭先生とかスクールソーシャルワーカーとか……呼び出されて、話聞かされたり、イジメ受けてた方の家族に謝りに行ったりしてる内に……なんつーの。切れちゃって」
「切れる?」
「どんな風に?」
「沙樹にさ。なんでイジメなんてしたの、って頭ごなしに怒る怒る。で、沙樹なんて怒られたこと無いもんだから、ギャン泣き。義父さんも、泣いてないで反省しろって今回ばかりは味方にならないもんだから、もう収集付かない」
「へぇ?」
「放っておけば良いじゃん」
 猫可愛がりしていた娘に思わぬ恥を掻かされて怒っているのだろうが、今までの亮に対する振る舞いを思い出せば自業自得だ。勝手にすれば良いだろうに。
 そんな澄華と玲の反応に、亮が困ったような顔で笑いながら言う。
「それで、なんでか……俺と沙樹のことを比べるようになっちゃったって言うか」
「はぁ?」
「なに、それ」
「『お兄ちゃんは学校で問題なんて起こしたことが無い』ってさ。母さんが言い出して」
 亮が深い溜息を吐き出した。
「なんか妙に、沙樹に対して厳しくなったって言うか……。食器の片づけとか、洗濯物を畳むのとか、今まで母さんが俺の分だけやってくれなかったから、自分で覚えなきゃならなかっただけなんだけど。それも、どうして自分でやらないの? とか、言い出して。いや、沙樹だって自分でやれって言われてたらやってたと思うよ? でもさぁ、しなくて良いって育てたの母さんじゃん。いきなりただやれって言われても、上手く出来るわけないじゃんか。まだ小学生だし。なのに、沙樹にこんなことも出来ないのかって怒るし――。手伝おうとしたら、甘やかさなくて良いとか言われて。今まで放置されてたのに、妙に褒められるんだよね。しかも、沙樹に対して当てこすりみたいな感じで。気持ち悪いし、なんか沙樹も段々部屋から出なくなって来ちゃって。もう、なんか、どうしようかなって」
 一気に語り終えて、疲れたように首を折る亮に対して、澄華は率直に抱いた感想をぶつけた。
「相変わらず、クソだね。あんたンち」
 へら、と力無く亮が笑う。
 亮の母親は、澄華の母親と違った方向で厄介だ。母としての勤めを果たそうという意識はあるが、そのせいで最悪の結果を招いている。
 多分、事故死した――亮の父親である――前夫と、再婚した今の夫――沙樹の父親――への感情の整理が本人に付いていないのだろう。
 その結果が、兄妹に対する露骨な取り扱いの差だったのだ。
 問題なのは、偏向していた愛情がクルリと矛先を変えたことだ。妹の沙樹にしてみれば、今まで当然だった世界がひっくり返るぐらいの大事件だろう。当たり前に享受していた愛情が、突然に貰えなくなったのだ。おまけにロクな説明も無く一方的に自分が悪いと責め立てられる。亮にしてみれば、望んでもいない愛情を突然に押しつけられて、余計に居心地が悪いだろう。
 大人って、なんなんだろう。
 澄華はいつも、そう思う。
 澄華の母親も、亮の家族も、玲の両親も。
 大人のくせに、何をやっているのだろう。
「まぁ、亮が良い子過ぎたのも問題だよな」
 淡々とした口調で玲が言うのに、澄華と亮は顔を見合わせた。
「それ、玲ちゃんが言う?」
「そうそう。優等生のくせに」
「優等生?」
 亮が放った言葉を、玲が鼻先で笑った。
 冷笑、冷静、冷徹。
 玲の名前の漢字の〝へん〟が、にすいで無いことが澄華はいつも不思議でならない。
 ちょっと抜けてるお調子者、的な立場で教室の居場所を得ている亮と、玲のスタンスはまるで逆だ。
 がり勉で無いのに勉強が出来る。スポーツマンで無いけど運動神経が良い。無愛想だけれど優しい。何事に付けても冷静な態度を崩さない一貫性も、「デキる奴」という評価に対して拍車をかけている。
 階級制度の立ち位置を決めるのは、いつだってクラスの中にある不確かな世論だ。平均的な中学生男子に一目置かれる存在として、玲はクラスの中での地位は盤石の地位を築いている。意図して出来ることでは無いのだから、これはもう本人が持っている資質だろう。
 そんな優等生は、冷笑的な口調を崩さないままに言った。
「だって、お前ら。問題起こしてまで、親の気とか引きたいと思う? 学校に保護者に来て欲しい? わざわざ」
「全然」
「全く」
 澄華と亮の声は綺麗に揃った。
 澄華の場合、母親の方が先に家庭にトラブルを持ち込むのが常で、その対応に追われて気力が根こそぎ奪い取られている。とてもで無いが、自分でまで問題を引き起こしていられない。
 亮は困ったように笑いながら言った。
「大体、問題なんて起こしたら家に置いておいて貰えなくなると思ってたし」
 今は平気そうだけど、と言う亮の言葉は、あまりにも実感が篭もり過ぎている。
「食べ物は大事だよね」
 澄華は肩を竦めるようにして頷く。
「眠る場所も、着る服も必要だし」
 澄華の言葉を、玲が手慣れた様子で引き継いだ。
 三人とも目を見交わして、誰とも無く小さく笑う。
 どうすれば家を出て行けるか。生活をして行く上では何が必要か。それは小学校低学年の頃の三人にとって、話し合いの重要なテーマだった。
 家出の計画を、何度真剣に検討したことか。数え切れない。
 まず、屋外で生活することは不可能だという結論に達した。北海道にホームレスがいないのは伊達では無い。マイナス二十度に達する野外で、吹き荒れる雪に包まれながら無事に春を迎える術を、三人は誰も思いつくことが出来なかった。
 屋外で生活することが出来ないなやら、屋内のどこかに潜むことは出来ないかと、書籍を片手に何度も夢想した。
 『クロウディアの秘密』。
 幼い姉弟がメトロポリタン美術館に潜んで家出生活をするというアメリカの児童文学は、あの頃の三人にとってバイブルだった。所詮、物語は物語だという結論に到達したのだけれど。
 三人とも、嫌と言うほど理解している。
 ここから出て行くには、大人になるしか無いのだ。それも精神的な意味では無く、法的に成年に達さなければ意味がない。
 十代の子どもが、合法的に家を出て働いてく手段はどこにも存在していなかった。自分で自分の塒を用意して生きて行くのには、無鉄砲な若さなど何の役にも立たない。
「後、二千百九十日」
 玲がボソリと呟くのに、亮が笑った。
「なんか久しぶりだね、それ聞くの」
 澄華は目を細めた。
 二十歳になるまで、後六年。たった二千日とちょっとが過ぎるまでの辛抱。
 その頃に自分たちがどうなっているのか、どう変わっているのか。想像も付かない未来に、澄華はクッションを抱えたままゴロリとベッドの上に転がった。

続く

※この作品はエブリスタでも掲載しています。

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