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「作品の価値は作品が語ってくれる」と思ってないか?

企画力とは「意思」である。なんの話かと思ったかもしれない。この記事の本旨は創作やデザインやクリエイティブなことに関わることをしていて、「作品の価値は作品が語ってくれる」「自分の作品が良ければ、自然とそれが評価される」と思っている人に伝えたいことをまとめたものだ。そしてこれは、そうしたある種の思い込みを持っていた過去の自分に向けた言葉でもある。

作品の価値1

作品の価値2

作品の価値3

作品の価値4

作品の価値5

作品の価値6

私は前職では広告関係の仕事をしていた。現在では作家のエージェントという、いわゆる出版プロデューサーの仕事をしている。その時に気がついたことをシェアしたい。

どちらの業界もクリエイティブ界隈に近い職種に該当する。最初に広告業界に新入社員として入った頃の話をしよう。今はわからないが当時は研修と称して新人にある課題を与えられ、自分の作品をプレゼンする機会があった。

AD(アートディレクター:広告のビジュアルデザインを担当する専門職のこと)以外の人も採用されているので、必ずしも美術関係の勉強を積んできたり、プレゼンの経験があるわけではない。それでも一生懸命、自分のポスター案や広告の案を考えて披露する。

みんな厳しい入社試験をくぐり抜けてきているので、「ポテンシャルのある新人」であることには間違いない。プレゼン能力も物事を考える力も、ほかの業種の新入社員よりは若干(もちろん若干だけだが)はあるかもしれない。班に分かれて何十時間もかけて自分たちの案を考えて、先輩社員、なかには業界で名の知れたクリエイターに「お披露目」する。大緊張する場だ。

その時に印象的だったのは、お披露目の場になった途端に「喋らなくなる」人たちがいたことだ。「いたことだ」などとさも客観的に書いているが、自分も間違いなく「喋らなくなる」タイプの人種であったことはここに告白しておく。

もちろん、喋るのが苦手とかプレゼン慣れしていないとか、滑舌が悪すぎる(これは本当)とか色んな問題があったから喋らなくなったこともあるのだが、そこにはある「思い込み」が間違いなくあった。「これだけ良いものを作ったのだから、作品をみればわかってもらえるだろう」と思っていたことだ。

だから、話さなくともその背景や思い、ここに至った経緯も「成果物」を見せることでクリアできると思っていたのだ。思えばほとんどの人が「デザイン」「ロジカルシンキング」の勉強もろくすっぽした経験もないくせに、「デザインの力」を過信していたとも言える。

自分たちの案を発表した時、私たちはそれなりに自信満々だった。しかし、実際に先輩社員や著名なクリエイターに手厳しく評価されたり、時には筋違いの批判を得たりした。あれ?それは作品を見ればわかるはずなんだけど…なんで伝わらないかな…なんて、内心ちょっと憤慨しつつ疑問に思っていたりもした。時には「あの人は見る目がない社員なんじゃないかなあ」などと声高に話す社員がいたことも確かだ。まあ、会社に採用されていっぱしのプロデューサーになって浮かれた新入社員の、ただの驕りだったのだと思う。

さて時は巡って、私は作家のエージェントという仕事についた。著者の人と企画を一から作り、企画書に仕上げ、出版社に売り込み、一緒に編集していく…ということをしている。twitterも始めて、幸福なことにクリエイティブな仕事につく人や創作をしている人にもフォローしてもらえたり、お付き合いする機会も増えた。そこで私はあることに気がついた。

あの広告業界に始めてついた新人のような人が、あまりにも多すぎることだ。

クリエイターなのだから、コミュニケーションが得意ではない人が多いのは当然だと思う。一般的に作品を作る能力に長けている人は、喋る言葉を豊富に持たない。コミュニケーションが得意ではないから物作りに集中できた、ということもあるだろうし、物作りの才能にエネルギーが集まりすぎて人と会話することに他の力が向かないこともあるとは思う。営業が苦手、それは理解できる。

また、現代アートのように「鑑賞者の解釈に全て委ねる」タイプの美術や作品もあるだろう。それは今回の話の対象外と考えても良いかも知れない。

しかし、それを除いたとしても、自分の作品という我が子にも等しいような対象に対してさえ、こちらに差し出しはするけれども、特別良さを語ったり売り込んだり、自分はこう考えて作ったと説明する人がまずいない。それに、先に挙げた現代アートだって、対鑑賞者には無言を貫いても良いかも知れないが、ギャラリー担当者や買い手に自分を売り込む必要があるだろう。それなのに買い手や読み手とコミュニケーションを取り合おうとする人も、ひとまず自分の思いを伝えようとする人もほぼいない。エージェントや代理営業してくれる人が付いていない人は、それで大丈夫なのだろうか。

広告業界にいた時のあの新入社員の顔ぶれを思い出す。自分は何かをやり遂げたという誇りで浮かれ上気した顔、しかし案を見せ最低限のことを語るだけで、あとは物を見てくれと言わんばかりの目。少しでも自分の思いが通じないとなぜだと裏で憤慨し、時には陰で恨みもする時のあの顔。

これは作家やクリエイターに限ったことではなく、おそらくエージェント側や編集者にも同じことが言える。作品を通すには会社の会議を通し決算が降りないと企画が前に進まない。もちろん、そこにはマーケティング的な考察や作り込んだ企画書が必要になるのだが、「説明する責任と意思」「コミュニケーションを厭わない姿勢」を持たない人はまず通せない。逆に自分がこの企画をやるんだ、そのためにこう考えたと説明できるのであれば、企画書があやふやだったとしても通せる可能性は高いと思う。

私がお会いしたある高名なデザイナーの方が言っていた。「デザインは事前の根回しとコミュニケーション。それができずに作品一本の力で行こうとするデザイナーはダメだ。デザインはデザインだけで完結しない」。この発言を聞いた時に、真っ先に過去の自分のことを思い出した。そして恥じた。これほど名の知れたデザイナーの人だって、人間関係的な力を利用したり、営業したりして信頼関係を築いて企画を通そうとしていたのに、自分は何をやっていたのか。

思えば、広告業界が飲みニケーションが活発で「交際費」が高くつき、ぶらぶら飲み歩いているのも「良い気になって遊びまわっている」のではなくて、「それも営業の一環」だからだ。対社外でも、対社内でも。

もう一度、最初の言葉に戻ろう。企画力とは意思である。デザイン力も創作力も意思とコミュニケーションなしには完結しない。どんなに拙くとも、うまく話せなくとも、意思のある人に人は集まり、ついていく。企画や作品の出来不出来は、「自分の意思と説明責任を負う力」と同等ぐらい重要だ。

自分の作品の良さを自分の口で語るのは恥ずかしいと思うかも知れない。自画自賛と言われる可能性もある。何よりうまく話せないかも知れない。そんな危険性を避けるために、これまでの日々の全てを作品に込めてきたかも知れない。それでも、作品にその全てを語らせてはいけない。自分の言葉で説明するんだ。そうしないとあなたの全ては伝わらない。

最初は言葉が震えてしまうかも知れない。君の心臓は体の中で激しく鼓動するかも知れない。それでも勇気を出してやってみよう。全てはここから、ここから始まるんだ。物を作って終わりではない。自分で説明し切るまでが作品なんだ。


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