見出し画像

黒瀬珂瀾氏歌集『黒耀宮』(泥文庫)とジェンダーと私

 こんにちは。銀野塔です。
 今日は黒瀬珂瀾氏の歌集『黒耀宮』感想とそれに関連して自分のジェンダー観や詩歌のことなどを。

*******

 ジェンダーについていろいろと考える。そもそも性というのは生物学的にも単純に二分されるものではなく、云ってみれば原型は女性で、そしてかなり無理矢理な、あやうい過程を通じて男性が作られる、だから身体的にもその間にグラデーションはあって当然、また精神的な性別(一般にはこれをジェンダーと呼ぶ)は個体の社会的行動様式によって決まる、というようなことを多田富雄氏の『生命の意味論』(新潮社)で以前読んだ。そしてジェンダーを規定する社会的行動様式というのも、その時代や文化によって影響を受けるものでもあり固定的なものではないというようなことも昨今強調されてきている。また俗に云う男脳女脳といったものもあまりにも雑なくくりであり、実際には個人差の方が大きいということも示されている。そういえば比較的最近NHKで、典型的にいわゆる男性的だったり女性的だったりする脳の持ち主は10%ほどしかおらず、残りは皆男女の特徴が入り混じった脳を持っているというようなこともやっていた。
 以前栢瑚五行歌部(仮)のnoteにも少々書いたが、私自身、自分のジェンダー認識に若干のゆらぎがある。自分を女性と認識しているし、たとえばスカートをはくのが苦痛で仕方ないとかいうことはないが、しかし自分が「女性である」ことにあまりしっかり根を下ろしている感じがしない。自分の性質としても「ここはむしろ男性的なんだろうな」と思うようなところもいろいろあるし、そもそも男性だの女性だの意識していない時間の方が圧倒的に長い気もしている。
 ただ、自分が女性であることにあまりしっかり根を下ろしていない、というのは、そうなった、という面もあるけれど、意識的に根を下ろしたくなかった、というのも私の場合ある。
 上記『生命の意味論』で多田富雄氏は「私には、女は「存在」だが、男性は「現象」に過ぎないように思われる」と書いている。もちろん、性別のゆらぎについて上記のようにしっかり述べておられる多田氏だから、これもあくまで「概して云えば」の話なのだと思うが、その「概して、女は存在、男は現象」ということはだいぶ前から私もずっと実感的に思ってきたことであった。ソースは忘れたが、いつかどこかで荒俣宏氏が「女が本体で男はオマケ」といったことを述べていたと思う。これも同一のことを指していると思われる。私も「女は生命、男は機能」だなと思ったことがある。
 で、私は、女でありながらこれもミソジニーの一種なのかもしれないが、その女の「存在」感が苦手なのだ。しっかり大地に根を張っている感じ。現実的でしぶとくてたくましい感じ。もちろんこれはきわめて概括的で雑で乱暴なイメージであるとは思うが「女性であること」の中にそのようなイメージが横たわっているという感覚が私の中に抜きがたくあった。それに比べて男性は「現象」だから、しっかり根を下ろしておらず、はかない。そのはかなさ、あやうさに憧れた。ただ、現実問題としてはリアルに「男性になりたい」とはあまり思わず「男性は男性で大変そうだしなあ」と(ある意味女性らしく“現実的”に)思ったりしていたのだが、概念的に男性というものが「現象」であるということ自体はうらやましいなあ、と思っているのである。
 多分こういう憧れは意識的にせよ無意識にせよ、思春期あたりの女子にはある程度あることだと思う。けれどどこかで多くの場合自分の女性性を受け容れてゆくのだろう。半世紀以上生きながらいまだにそこに留まっている自分はたちが悪いなあとも思う。おかげで、自らの女性性とある程度直面せざるを得ないような、いわゆる一般的な恋愛や結婚や出産といったことからは遠ざかったままだ。しかし無理矢理そこから脱却するのもなんか違う気がするのでまあこのままでいようと思う。
 男性という現象のはかなさに憧れて、でも現実的な性は女性である私が、詩歌を書くときに日常感や生活感や現実味というものを意図的に排除するのは、その世界の中だけでも「現象」でありたいという願望のあらわれなのだろうと最近あらためて思っている。

 さて二年くらい前になぜか突然短歌スイッチが入ってしまい、現在どんな歌人の方が活躍されているのだろうということもろくに知らずに『ねむらない樹』(書肆侃侃房)などを読み始めて、vol.4のジェンダー特集で知ったのが黒瀬珂瀾氏だった。上記引用した栢瑚五行歌部(仮)のnoteでも述べているが、ジェンダーをめぐる座談会での黒瀬氏の発言が私のジェンダー観と一致していたので印象に残ったわけである。ちなみにこの座談会には川野芽生氏も参加しており、また私が川野氏の名前をあらためて印象づけられたのが、これも以前栢瑚五行歌部(仮)のnoteの別記事に書いているのだが、水原紫苑氏が川野氏について「まだ全貌はわからないが、おそらくは恋という制度自体の否定というラディカルな次元にまで詩想が及んでいる」と述べたことだった。黒瀬氏と川野氏とが、作品としても特に私の気になる歌人であるのはこのへんのこととおそらく無関係ではない。
 そんなわけで、黒瀬氏の第一歌集『黒耀宮』、読みたいなあと思ったものの古書は高いなあと思っていたら、最近泥文庫で復刊されたので喜び勇んで買って読んだわけである。そして打ちのめされたわけである。
 なんというか、もともと男性という「現象」である人が、その「現象」であることを存分にあらわし切った歌集だと感じたのだ。大胆に、そして繊細に。男性という現象の中でも最も「現象的」と思われる「少年」がたびたび出現し、また古今東西のさまざまな事物がその現象を華麗に彩る。歌としての完成度の高さも合わせて、その「現象」としての残酷な彫り深さに打ちのめされるしかなかった。私が詩歌の中で続けてきた「現象ごっこ」はあっけなく粉微塵にされたというか。
 以下引用。

 吾(あ)はかつて少年にしてほの熱きアムネジア、また死ぬまで男
 月を刺すビル群のはて名を持たぬ青年王の国ありといふ
 天与といふおそろしきもの纏はせて少年座せり真冬の居間に
 わがために塔を、天を突く塔を、白き光の降る廃園を

 「塔」や「宮」のイメージが好きで詩歌の中に使ったり筆名や詩歌集のタイトルにも持ち込んだりしている私がこの歌集を好きにならないわけはないのであった。打ちのめされるのもまた楽し、粉微塵になった欠片を拾い集めて、私はまた私の「現象ごっこ」を続行しようと思うのだった。現象そのものには敵わないけれど、ごっこにはごっこにしか出せない何かがあるはずだろうなどと云い訳しながら。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?