五行歌とジェンダーと私

 こんにちは。南野薔子です。
 新型コロナウィルスの影響で今いろいろと大変な状況ですが、ここをごらんの皆様はいかがお過ごしでしょうか。感染された方、影響で困難の中にある方が少しでも早くよい状況に向かうことを祈ります。またそのために有効な対策が行われますように願っております。生活や医療や福祉の現場を支えるために働いてくださっている皆様に感謝の意を表します。

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 以前「五行歌と多様性と私」という記事を書いた。多様性が認められる世の中になればいい、五行歌もその多様性の一環として貢献できればいい、というようなことを思っているわけだが、その多様性の一つとしてジェンダー、LGBTQ+といった概念が近年着目されているかと思う。実のところ、栢瑚では私より白夜さんの方がこういったことについては詳しいのではないかと思う。が、現段階の私の認識として思うところを書いてみたい。
 折しも、短歌のムック『ねむらない樹』(書肆侃侃房)のvol.4で「短歌とジェンダー」が特集されていて、興味深く読んだ。書く側、読む側の性にまつわる意識の持ち方のあれこれについて考えさせられる。
 私の考え方は、この特集の中の座談会で黒瀬珂瀾氏が述べていることとほぼ一致している。すなわち性とはグラデーションしているものであり、はっきり男女にきれいに分かれるものでもなく、個人によってグラデーションのどこに位置しているかは異なり、また個人内でも、時と場合等によって異なり得るということである。
 私はLGBの当事者ではないが、TもしくはQに関しては若干その傾向があると思う。一応性自認は女で、それに違和感があって仕方ないとか、スカートをはくのが苦痛だとかということはないのだが、しかしその一方で、自分が「女である」ということにしっかりと根をおろしている感覚がない。それには、女性としての自分をあまり評価されてこなかった(あからさまに否定的な評価をされたこともある)ことも影響している可能性はある。だが、そういう評価をされるような自分になろうという努力も、若い頃は少しは試したが、そういう努力をすること自体に結局は違和感があった。だからといって自分がすごく男っぽいかというとそうとも思わない。自分のこんなところは(いわゆる)男っぽいな、自分のこんなところは(いわゆる)女っぽいな、と思うところがそれぞれにあるし、それこそ時と場合によって変化もする。また特に男っぽいだの女っぽいだの意識していない時間の方が圧倒的に長い気がする。
 そういう意味で、五行歌集『硝子離宮』(市井社)に入れた次の五行歌は、私にしては珍しいくらいストレートに自分のありようを書いていると云える。

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 ところで「男女」という概念は強い。まあ生物としての繁殖というきわめて重要なことが生物学的な雌雄に関与しているから無理もないのだが、男女という概念は強力だし、多くの人にある程度の共通したイメージが共有されているものである。だから「男とはこういうもの」「女とはこういうもの」というある程度の共有理解の上に立った文学が、五行歌も含めていろいろと書かれてきたと思うし、今後も書かれてゆくだろう。それらが実感的な共感を伴って支持されてゆくことも多いだろう。
 ただ、私は「女ってこういうものよね」という内容の歌を読んで「ああ、だいたいそうなのかもしれないけれど私は違うな」と思うこともあり、その「女」という概念の強力さに時にたじろいでしまうような感じがすることもある。
 そういう歌の持つ力強さを否定はしないけれど、ただ、これからは「そうでない」感覚を持つ書き手や読み手の存在を、より意識する人が増えてくれると嬉しい。
 五行歌の中にも性のグラデーションを反映したものが増えてゆくといいなと思っている。また、読む人も一般的な男女のイメージにとらわれない読みをする人も増えてきたらいいなと思っている。
 印象に残っている五行歌がある。『恋の五行歌』(講談社文庫)掲載のもの(作者名表記は掲載当時のまま)。

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 それから、最近の月刊『五行歌』誌にこんな歌も。

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 そして栢瑚五行歌部(仮)の白夜さんにはこんな歌がある。白夜さんの五行歌集『抱月』(市井社)掲載の歌。

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 私は多分ジェンダーといったことを直接的に歌にすることはないような気はするが、一般的なジェンダー概念に規定されないような歌を書きたいという意識は以前より強くなっている。また、誰かの歌を読む場合も、一般的なジェンダー概念にもたれかかった読み方(作者名から想像される作者の性別に規定される読み方)以外の読み方を意識したいと思っている。

もしお気が向かれましたらサポートをよろしくお願いいたします。栢瑚五行歌部(仮)の活動資金としてたいせつに使わせていただきます。