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恋歌をめぐる状況と私

 こんにちは。南野薔子です。
 五行歌の会が先頃行っていた恋の五行歌公募の入選作をまとめた本『恋の五行歌 キュキュン200』(市井社)がまもなく発売です。それについては栢瑚のブログの方に記事を書きましたのでよかったら読んでやってください。栢瑚からは白夜さんと私の作品が載っている本です。お手にとっていただけますと嬉しい限りです。書店やネット書店で予約できると思います。

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 ところで、恋の五行歌公募は今回で六回目なのだが、今回が一番応募数が少なかったらしい。最近はSNSなども発達して、作品を発表して人に読んでもらえる手段が多様化しているから「公募で入選して本に載る」ということが以前よりインセンティヴとしての魅力が下がっているということもあるかもしれない。が、それだけでもないだろう。
 月刊「五行歌」誌の今年の三月号巻頭言で、草壁焔太主宰が、恋の五行歌の応募数が少なかったことに触れている。
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 この応募数の落ち込み方は、異常である。
 最近は、小説のテーマも恋のものが少ないと感じる。
 どうも、文学のテーマはひねくれており、単純に男女が最初の恋に酔いしれるというものではなくなっている。
 私はこの理由は、恋に神秘さがなくなっているからであろうと考える。
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 草壁主宰は恋に神秘さがなくなった理由として、ネット上の性に関わる情報の多さを指摘している。そして「人々は映像で好奇心を満たす方が早いから、文字を読んで空想することに興味を持たなくなったということであろう」と述べている。
 そして最近入手した、岩波新書の『『折々のうた』選 短歌(二)』(水原紫苑編)の水原紫苑氏の解説にも興味深い記述があった。長い日本の詩歌の歴史で恋をうたったものが多いことに触れた上で次のように述べている。
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 しかし、今世紀に入って、恋の歌は翳りを見せている。
 『折々のうた』以後も二十世紀までは、穂村弘も東直子も、後進に大きな影響を与えた歌壇のスターたちは、恋の歌を代表作として登場していた。
 だが、その後の若い歌人たちは違う。(中略)
 そして、川野芽生になると、まだ全貌はわからないが、おそらくは恋という制度自体の否定というラディカルな次元にまで詩想が及んでいるのだ。

 この問題は、短歌にとどまらず、文学全般に共通している。
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 そして、生と性の多様化により、恋と生殖が切り離されたことを指摘し「性愛が宇宙の根本原理と結びつくという幻想は終わった」と述べる。さらにこう続ける。
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 現代の若者たちがあえて恋の歌を詠む時、そこには一度死んで蘇った者のような哀切な切迫感がこもり、肉体を持たない魂同士の交感が求められている、と私は感じる。
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 性に関わる映像へのアクセスが昔と比べて簡単になったこと、恋や性をめぐる価値観の多様化に伴って「恋愛」が以前ほどの確立された存在感を持たなくなったことは、良し悪しの問題はさておき、事実であると云って差し支えないかと思う。
 私の若い頃は、確かに社会全体がもっと恋愛志向だった気がする。バブル期と重なったこともあるが、週末は恋人とおしゃれに過ごす、みたいなのがすごくもてはやされていたし、テレビにはいわゆる「トレンディな恋愛ドラマ」があふれていた。
 だけれども、だんだんと「恋愛(ないしは結婚)をしない自由」が存在感を確立してきたと思う。そういえば子どもの頃わりと聞いた「オールドミス」という言葉をいつからかとんと聞かない。私の若い頃は周りに「三十までに結婚しないと問題があると思われる」と云っている男性や「二十五のうちに結婚できてよかった」と云っている女性などがいたが、そういう感覚もだいぶ薄れてきているのではあるまいか。

 私自身は、そういう、恋愛をめぐる価値観の多様化はありがたいし、よいことだと思っている。私も、二十代初期くらいまでは、周りの雰囲気もあってか、特に疑問もなく恋愛をしたいと思っていたし、また少しはそれらしいこともあった。が、二十代のある日、周りがまだ恋愛重視の雰囲気の中にあった頃、ふと気づいた。多くの人がくっついたり別れたりやがては結婚したり、という大きな流通市場のようなもの、その市場からすでに自分は外れている、と。
 それからも、ある程度「いいな」と思った相手というのは何人か記憶があるが、進展などはないままであり、また結婚ということも具体化したことがないままである(一度だけ頼みもしない話を勝手に持ち込まれてすぐ断った)。そして意外と、それでも平気な自分というのを発見したのだった。「ないならないで大丈夫だな」「ていうかむしろあると面倒くさい」というのが実感である。
 なので、世の中からの「恋愛しなさいよ」「結婚しなさいよ」という圧力が弱まってくれるのは本当にありがたいことなのだった。モテるとかモテないとか以前に、恋愛とか結婚とかに「適性がない」人もいるんですよ皆さん。若い頃少しはしたような恋愛のようなものも、あれ本当に恋愛だったのか?というと今思い返してかなり疑わしいし。

 ただ、そんな私も恋歌を書くわけである。それについては以前栢瑚のブログで「恋の五行歌の作り方 あるいは でき方」という記事にも書いたのだが、要するに、恋をしない私も、恋とは素敵なものだと思っていて、その憧れ、恋というもののイデアを描いているような感じ。恋に対する恋歌だと云ってもいいと思う。
 というか、上記水原紫苑氏が述べている「現代の若者があえて恋の歌を詠む時」の話が私には一番リアルに感じられるのだが。私はすでに若者ではないし、また現代の若者が本当にそんな風に感じながら恋歌を詠むのかはわからないが、私は「恋愛というものの価値を無邪気に信じていた、失われた時代へのノスタルジー」と「肉体を持たない魂同士の交感を求める気持ち」とのミックスで恋歌を書いている気がする。いや、もっと云えば、私の場合厳密に「恋」に限らず「誰かが誰かのことを(あるいは互いに)ものすごく好きな気持ち」を描写したくて書いているような気がする。そして、その描写をするのに肉体的な感覚を持ち込むのが表現として合うと思えばそうするが、本当のところ私は「身体ってめんどくせー」と思っている人である。自分の身体性の稀薄さが自分にとって一つのテーマであると思うがそれについて書いていると長くなるのでやめておく。魂同士の交感の感覚をあらわすのにも、肉体感覚を応用できるし、それが自分でも予期しない普遍性を帯びてしまったりしたら、今回のように賞をいただけたりしてしまうということだろうと思っている。

 ただ、これはもちろんあくまで私個人のスタンスの話であって、昔から続く、恋愛の歌の本流のようなものが、あんまり細くなるのはさびしいなあ、という気持ちは一方ではある。なので、恋愛の実地と、作品の創作の両方が得意な皆様には、ぜひ頑張って、恋歌界を盛り上げていただけたらなあと、恋歌を書きながらも自分は恋愛歌人には絶対ならないことを知っている私は無責任に思うのだった。

もしお気が向かれましたらサポートをよろしくお願いいたします。栢瑚五行歌部(仮)の活動資金としてたいせつに使わせていただきます。