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広告宣伝と私の複雑なるせめぎあい

 こんにちは。銀野塔です。広告宣伝についての私的雑考です。
 
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 広告宣伝が苦手である。する方もされる方も苦手だが、まずされる方の話をする。
 たとえばネットの検索連動型広告だ。私が何らかの物事を検索すると、それ自体、あるいはそれに関連する商品の広告がその後も何らかのネット上の広告欄に出たりする。
 大きなお世話である。
 別にそれを購入したいと思って検索したわけではない場合もあるし、すでに買った後だよ、という場合もあるし、調べてはみたけれどやっぱり買わないことにした場合もある。そんなときに検索連動型広告はうざいったらありゃしない。そして仮に、私がそういった商品について検討中で、検索連動型広告が私の望みにぴったりだ、というものを出してきたとしよう(まずないが)。それでもそのことによって、私の「探す楽しみ」が奪われているわけである。本当に大きなお世話である。そういう意味で「あなたへのおすすめ」とかも苦手である。わかったような口きくんじゃねーよ、と思う。まあそれなりにスルーするようにはしているけれど、でもうざい。
 そういうふうに直接私を狙ったものでなくても、ネット上には何かと広告があふれていて、広告は人の注意を引きつけてなんぼだから、わりと見た目のインパクト強めのものとか、人の感情をいたずらに煽る感じのものとか、人の不安やコンプレックスにつけ込む感じのものとかがありがち。ついでに云うと、ネット記事のタイトルなども、それを読ませることによって結局は広告収入につなげたいという意図があるからそういう意味では広告宣伝につながっているため、やはりいたずらに人の感情を煽ったりするような感じのものも多い。内容の良し悪しや信憑性はともかく読ませられればなんでもいいという感じ。
 そういう広告だの記事タイトルだのがなるべく目に入らないネットの使い方をしたいと思っているが、やはりある程度ネットに接していると、完全に避けることは難しい。意地でもそういう広告や記事を踏んでやるもんかと思っているが。
 あと、サービスによっては「有料プランなら広告なしで快適に」というようなのもある。つまり「広告が出る状態は不快」って向こうもわかってるわけで、不快な状態を避けたいなら金払え、ってそれもなんか納得いかない。
 
 なぜかくも世の中に刺激強めの広告があふれていて、なぜかくも私がうんざりするのかについて『内向型人間のすごい力 -静かな人が世界を変える-』(講談社α文庫)の内容にヒントがあった。
 すごく雑に云えば、歴史の中では比較的最近、工業化商業化都市化が進んだ、そのことによって「セールス」の重要度が増し、それが今の社会に見られるような、外向型人間をもてはやす風潮につながっている面があるのではということだった。人当たりがよく、いわゆるコミュ力があって、人にアピールするのが上手な外向型の人間は、セールスにうってつけだというわけだ。著者はアメリカ人だが、この本にはハーバードビジネススクールが外向型人間だらけだという話も出てくる。アメリカに比べて、東洋はまだしも内向型の価値観が重んじられる面があるようだというような話も出てくるが、アメリカほど極端ではないにせよ今の日本でもやっぱりセールスは重要で、コミュ力重視みたいな傾向は多々あるよなあ、と思う。
 そして人が外向型か内向型かという話になると、100%外向の人も100%内向の人もいない、それなりにグラデーションしているものだが、私はその中でもかなり内向の極に近いところにいるのは間違いないところである。刺激の多さとか強い刺激とかは苦手なので、外向型価値観がもてはやされ、刺激の強さや多さで勝負するような「セールス」があふれている状況にはなるほどうんざりするはずである。
 いくら商品やサービスを売りたくても、たとえばどんなにお金を持っている人でも1日24時間以上の時間は持ってないので、その限られた時間の中での、商品やサービスを買いたいと思う意欲や関心リソースの熾烈な奪い合い、という状況が、もちろん以前からあるが、こと近年のネットではその度合いが増してきたような気がする。とにかく現状の経済はそういう広告収入というものが大きな位置を占めていて、そのことによる弊害もいろいろ見えてきている面はあるものの、その状況を一朝一夕に変えることは難しいだろう。が、なんとかならないもんかなあ、と内向型の極に近いところでちょっと疲弊しているのである。『内向型人間のすごい力 -静かな人が世界を変える-』には、内向型人間には外向型にはないよさがあり、それを活かしてゆくことができる(世界に大きな影響力を持った内向型人間もさまざまいる)話がいろいろ載っているのだが、それはそれとして。ていうかこの『内向型人間のすごい力 -静かな人が世界を変える-』という邦訳タイトルもちょっとセールス的なインパクトを狙いすぎているような気がする(原題は“Quiet -The Power of Introverts in a World That Can’t Stop Talking-”である。直訳すると「静かさ -喋りやめられない世界での内向型人間の力-」といった感じか)。別に私は内向型人間として「すごい力で世界を変えたい」みたいには思わないし。
 
 だから、私は広告宣伝をする方も苦手である。されるのが苦手なことを人にしたくないという理由で。
 とはいえ、私が広告宣伝をしていないかというと、しているわけである。自分や仲間の創作活動関連において。このnoteにもちゃっかり自分のネットショップのリンクを表示したりもしているわけだ。
 そして創作関連においては、他の人の宣伝ももちろん多々目にする。ただ、それらに対しては不快に感じるということがまずほぼない。それは多分それらの宣伝が、だいたいにおいて商売っ気がなく(多分)、採算を取ろうとしてない(多分)、できれば自分の作品を読んだり見たりしてほしいなあという願いの方がメインだと感じるからだろう。
 自分のする広告宣伝も、そんな感じで受け取ってもらえたらいいなあと思っている(はなから採算が取れると思ってないし実際取れてない)。それでもやっぱり、何か広告宣伝をするときにはちょっと後ろめたさが常にあるのだが。
 自分の作品が、自分の作品が好きだと思うような人に届くといいなあと思う。ただ、自分の作品が好まれる率というのは正直低いと思っている。その低い確率に届くようにするためには、ある程度広く広告宣伝をした方がいいというのは理屈ではわかる、わかるけれどやっぱりあんまり気が進まない。
 栢瑚五行歌部でも活動していて、この活動には明確に「今はまだ知名度がそれほどではない五行歌という詩型をできるだけ人に知ってもらえる機会を作ろう」という目標があるのだが、私はたとえば「五行歌って誰でもできるし、作ったら楽しかったり毎日が充実したりするからぜひやってみて!」みたいに人を巻き込もうとすることにはやっぱり抵抗がある。自分がそういうノリで来られるのが苦手だから。「私こんなんやってますけどよかったら見てみてね。で、もし気が向いたらやってみてね」ぐらいのスタンスでやるのが精一杯である。
 そういう内向型人間なりの広告宣伝だから届く可能性も、あるかもしれないと、ごく消極的に思っておく。
 
 あ、あと、いわゆる自分の好きな有名人が出ている広告のツイート(X)にはやっぱりよく反応してしまうしリツイートしてしまうことも多々ある。これは好きな有名人を人質にとられてつい広告システムに乗せられているということではないか、という敗北感(?)もなくはない。が、有名人の活動も現状そういった広告をする企業に支えられている面があることも事実なのでいささか複雑である(もっとも、それらの広告の作り自体が私を苛立たせるような刺激の強さとかが比較的ないことが多いとは思う)。まあ実際に私がそれらの商品やサービスを買うかどうかは、お財布事情と私の好みや必要性などを考えてそれなりにシビアに選別せざるを得ないのであるが。

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