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幸せとは

「幸せ」とは、自分が直接的であれ間接的であれ関わってきた他人の不幸を思わずにいられる、そんな状況であることが大前提としてある。と思う。


例えば、過去に交通事故で人を怪我させたり死亡させてしまったとして、その後の人生において自分や自分の家族だけ幸せを感じていいのか?という話。

休日に家族と公園で遊んでいて、「ああ、幸せだなあ。」と思うその瞬間、

「あの家族は今頃どうしているだろうか・・」

後ろめたさがよぎる。冷や汗と二人三脚。
自分なりに償いはしたと思っている。
しかし、仮にこの光景を見られたとしたら?


SNSに幸せの風景を投稿できるのは、限られた人だけだと思う。
(特に実名では)
・過去に事件や事故を持たない人
・無神経なエイプ

他人の目なんか気にして生きることは滑稽なことだけれども、他人との関わりの中でしか生きられないのだ。
だから、自分の中に生まれる感情に、特に負の側面に関しては、他人のことがスッと入ってきてしまう。
この申し訳なさや償いの気持ちは、きっと捨て去ることはできない。
けれどだからこそ、私たちは自分の周囲だけでなく他人の人生までも労わることができるようになる。


「そんなの考えすぎだ」
「小さいな。そして繊細すぎる」
色々な意見があるだろうが、こうした感情こそ”人間的な”特別なものだとも思っている。
ロボットが持つことはないような感情。
この感情からしか生み出せないようなものがあるとすれば、それもまた”人間的な”ものとなる。


”幸せな状態”はいくらだって定義することができる。
「毎日ビールを(発泡酒ではなく)飲めれば幸せ!」な人もいる。
民度の差はあれど、質の良し悪しはないのかなとは思う。
ただ最後に残るのは、

”幸せを受け取っている自分を全力で肯定できるかどうか”

昨日の夜に彼女とラーメンを食べに出掛けて、こんなことを考えたのだった。

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