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「五感の共有」と「思考・思想の共有」の耐えられない対比

「これいいよ、あなたにもぜひ試して欲しい」
”自分が本当に良いと思ったものだから、大切に思う人にもぜひ伝えたい”

こうした気持ちは僕の中にも常にあって、例えば本当に美味しいコーヒーを出してくれる京都の喫茶店Windyさんのことはたくさんの人に紹介したし、東京から遊びに来てくれた友人たちを連れて行く場所になっている。

彼らはコーヒーの味だけでなく、お店の雰囲気やBGM、マスターとの会話など五感で受け取れるものを体感し、「僕がなぜ薦めたのか」その理由をなんとなくでも理解してくれる。
このWindyを紹介する相手はもともとコーヒー好きな人だということもあり、多くの人が喜んでくれているように感じている。
人生の喜びはこういうものなんだよなあと、しみじみ思う瞬間である。

その一方で、こんなことを考えた。
”自分が本当に良いと思ったものだから、大切に思う人にもぜひ伝えたい”
という気持ちの強さは同じだとしても、それが「思考・思想の共有」となると、これを受け取る側にはかなりのストレスがかかるよな。
「五感の共有」とは圧倒的な差異がある。
なぜか?その理由を考えてみた。


1:「五感」は一時的、「思考・思想」は恒久的

 一般的に「五感」の共有の対象となる食事にしろ、音楽や映画鑑賞にしろ、時間の限定があって一時的なものだ。
「ここ美味しいから行こうよ」と誘われてから解散するまでは短く、終わりが見える。
だから、何があろうと大抵の場合は楽しむことも、耐えることもできるのだ。
“なんか違うな”と感じたら次回以降は自分から提案することもできるし、誘いを断ったっていい。

 一方で「思考・思想」の共有は長期間に渡るものだ。
何をより大切と捉え、物事を考える軸に据えておくか、その考え方は長い時間をかけて培われてきたものであって簡単に変わるものではない。
そういう性質のものをお互いにすでに持っているのだから、思考・思想の一方的な共有はたいへん面倒くさいものになる。

例えば、恋人を必要としない人生を送っているAくんに対して、

「恋人はいいぞ。人生の景色が変わるぞ」

と会うたびに説くBくんのウザさたるや。。
いやいや、彼の名誉のためにも補足しておくと、Bくんは基本的に良い人なのだ。
ちょっとだけ、一足先に経験した世界の良さを、愛すべき友人であるAくんにも知って欲しくて、好意で伝えてくれているに過ぎないのだ。
しかし・・・しかしなのだ。。。。


2:「五感」は肯定が多く、「思考・思想」は否定が多い

「五感の共有」は、肯定から始まり、肯定で終わることが多いと感じる。

A:「最近できたあの居酒屋のもつ鍋が美味しかったんだよねー!
今夜行ってみない?」
・・・
B:「これめっちゃうまい!ハイボールが進む進む~~^^」
A:「でしょー!今度はBのおすすめのお店教えてね^^」


こんな感じで肯定から始まり、肯定で終わるケースが多いんじゃないかな。
一方、「思考・思想」は否定から始まることが多いと感じる。


A:「君のことを思って言うことだからよく聞いて欲しいんだ。
フリーランスになりたいってことだけど、いったいどんな計画をしているんだい?
正直言って君の今の実力で仕事を受注できるとは思えないし、君はまだこの会社で働いていた方が良いんじゃないかな。
ウチで頑張っていれば給与は安泰だし、家族を養うのにだって困らないぞ?」
B:「僕は・・・、僕は!!!」

「思考・思想」の共有をする人の
“で、でた〜〜〜っ!”的発言がこれ。

_人人人人人人人人人人_
> 君のためを思って <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄

この一言で、Bくんの心は掻き乱されることになります。
一度聞いてしまったら忘れられないPPAPのリズムのように脳内をリフレインし、侵食します。

最近の反ワクチン派の論法も似たようなものだと思っていますが、いずれにしても相手の「思考・思想」を低レベルのものとみなし、善意によってアップデートさせてあげようとする意思があるのがこちらじゃないかな、と思っている。


おわりに

「五感」の共有:
大歓迎イェーイ手触りの体験で深く潜り込んでそこでしか見れない景色を楽しもうZE!★

「思考・思想」の共有:
ええ、大丈夫です、お構いなく。大切なことは全て“ジョジョの奇妙な冒険”から教わってます。
大切なことを誰から学ぶか、何を選んで何を選ばないかは自分で決めるんです。

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