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続・「教養としての〇〇」って本への違和感

以前書いた記事の続きということで。

今回の結論(先に書いておく)

「教養としての〇〇」に対する嫌悪感は、100円ショップで買ったものを全身に纏って、それっぽく振る舞おうとしている、そしてそうさせていることへの軽蔑からきている。

こんな本をありがたがって読んでなんかいないで、
見ろ!聴け!読め!
そうする中で、自分の心に起きた変化を感じろ!
そしてそれを書き留めて、できるだけ具体化しろ!
これを繰り返すことで、自分の言葉や感覚で捕まえて表現できる幅がどんどん広がっていくその楽しさを味わえ!

これが大切なのだ。これこそが、人間を内から充実させていく鍛錬なのだ。
この過程を楽しみながらできたら、幸せと言えるでしょう。


内容(違和感を浮き彫りにする)

「ピカソは何年に生まれ、代表作は〜〜で・・・」
「ベートーベンはウィーン古典派を代表する作曲家で・・・」

???「これくらいのことを覚えておかなければ、国際的な交流なんてできませんよ?」
こんな煽りをする本に占領される本棚がかわいそうである。
一つの書店としての品格も疑われるべきだ。

だいたい、「教養としての〇〇」なんて本を意気揚々と読んで、知った気になったような人間は、いつまで経っても大学受験の暗記科目として学んでいるのと同じで、ただただ薄い。
芸術が内包しているその「肉感性」なんてものを感じたこともなく、というよりもその存在の認識すらない。

美術館に出掛けたとしても、
「ああ、これが有名な〇〇かあ〜。へえ〜自分には描けないなあ。」
これで終わる。本当に終わる。

芸術を表現することも、それを鑑賞することも、他の動物はしない。
数ある生き物のうち、人間のみが行うし、行っていることだ。

動物的に生きることに対して、否定はできない。
しかし、人間として芸術に対峙する経験を持たなかったり、あるいはその価値を理解できない人が「教養としての〇〇」を読んでそれを分かった気になった上で、ああだこうだを論じているその姿勢を全く肯定できない。
ましてやこれを促している出版社や著者の本はくたばっちまえと思う。


「教養としての〇〇」本 ≒  100円ショップのモノ

いったい、どれだけの知識が身につくのだろう。
あまりに、あまりに表面的なもの。
100円ショップで買うモノはすぐに壊れるとバカにするけれど、こうした本で身につくものも同じ種類だと考えないのか。

100円ショップのメリット
・安く
・早く
・たくさん  手に入れることができる。

100円ショップのデメリット
・すぐに壊れる
・資産価値は到底ない
・安っぽい(当たり前だが。)

「教養としての〇〇」で身に付けた知識で、いかにも教養人のように振る舞う人のメッキは、100円ショップの商品のようにすぐに剥がれる。壊れる。
金ピカの技巧ですらない。

どうしたって、時間をかけて本物を見たり聴いたりする必要がある。
・・・と、言うよりも、

「本当に教養を身に付けた人は、教養を求めて絵を見たり音楽を聴いたりなんてしていない。」

そう思わないか?
何かのきっかけで眼や耳が開いて、自然と良い作品を求めるようになる。
そしてその肉感性を感じるようになる。
そうして、周囲から見れば”教養のある人”と映るようになる。

追いかけるべきは教養なんかじゃないし、教養をゴールとして追いかけている時点ですでにおかしい。終わっている。

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