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孤独について

最近はyoutubeで小林秀雄先生の肉声を聞き、たくさんの刺激をもらっている。
生きた歴史として、僕の心に入ってくる。
すると、何かを書いて表現する意欲が湧いてくる。
孤独については大学時代からずっと考えてきたことなんだけれど、ようやく言葉にすることができそうなものだから、書いてみる。

孤独について

「孤独」というものが、どうにも誤解されているように思えてならない。
だいたいこんなイメージで思われているように感じる。

・ひとりぼっちで可哀想なもの
・友達がいなくて悲しいもの
・みんなと同じことをしない、変なもの

けれど、じゃあ「孤独」じゃない人たちはどうであるのか、何なのかとなれば、

・付和雷同するもの

じゃないか。

・みんなが、してるから(言ってるから)
・みんなで、しようよ
・みんなと、しようよ

ここにこそ価値があって、これに加われない人、加えてもらえない人を「孤独」と指している。

「おれはそうは思わないな。おれは嫌だよ。あちらの方が正しいと思うからね。」

こんな意見が出てくることはない。
こんな意見に対しては「ワガママな人」というレッテルを貼り付け、同時に「子供」だと決めつける。
自分の意見を抑えて、みんなが決めたことに素直に従うことが大人であり、仲間であるのだ。

でも、いったいそんな仲間意識がどれほど高級で、どれほど大切なんだろうか。

「群れる」ということ

「群れる」ということに敏感である。
何をするにも、他人と一緒でないと気が済まなかったり、そうでしか生きられない人がいる。
そうして、自分の個性の色がみんなの、大勢の色に吸収されたことに恐さを感じず、かえって非常に大きな喜びを感じる人がいる。
僕もかつてはこんな調子だった。

その大勢の色とは果たしてどんなものであるか。
それは、淀んだ沼のような色を見せる。
何の面白みもありはしない。
そこに漂うのは、もうすでに命を終えたもの。
新鮮で輝いているものなんてありはしないんだ。
新しくやってくるものが唯一あるとすれば、終わったものを始末する清掃人と、その道具だ。
たいへんな作業だ。
嫌な色をしていて、ねばっこくて、足を掬われる。
気をつけないと、自分まで沈みかねない。

自分の持つべき、そして大切にすべき個性を殺しておいて、表面の自分はみなに嫌われんとひょうひょうと生きている。
その個性の死骸から集められたものが、大勢の住む沼へと姿を変えているのだ。

僕もかつてはそんな、群れて生きている人間だった。
しかし、体面はそうであっても、心がずっとしんどい思いをしていた。
そんな重さと、引っ掛かりを感じていた。
だから、何とかそこから這い出なければならない、そうでないといけないんじゃないか?と問うことを知った。
そんな問いがあることを知った。
これは僕の人生を変える大きな問いだった。

それで、どうしたか。
まず、自分が独りでやっていけるように自信をつけるために、
むさぼるように読書をした。
そんななかで出会ったのが次に紹介する広告コピーだった。
群れから出て、独り立ちしようとする自分を後押ししてくれた美しい文章。

孤独の辛さをくぐり抜け、価値を知る

メローコヅル エクセレンス
孤独が熟成させた魂の滴

常識に背を向けて私は生を受けた。
群れない。媚びない。急がない。
妥協しない。迎合しない。揺るがない。
あえて樽。あえて米。あえて長期熟成。
1957年に誕生以来、自ら求めて困難な道を歩み
どこにもない旨さへと辿り着いた。
孤独が魂を磨くように、美しい暗闇をくぐり抜け、ときの流れの中で、豊潤な生命を宿らせた。
夜の光の中で輝きを放つ艶やかな花のような
せつなく、あまくひそやかな幸福がここにある。

メローコヅル エクセレンス
広告からの引用。

(2016年〜2017年発行の、男性誌の何か。いろんな切り口でググるも、出典が明らかにならなかった。(すみません))

これらの言葉が、私の立ち直りを支えてくれた。
群れから出るとなると、当然にして反発が起こる。
自分も、周りも。
そりゃあ今まで一緒の時間を過ごした人達と距離を置くわけだから、そうなる。

けれど、”このままではいけない、自分はダメになる”
ということをすでにわかってしまっていた。

・楽に生きようとしている
・自分の意見を意識的に、あるいは無意識に抑えて生きている

自分という人間は、こんなやつなんだと、気付いてしまった。
なんてつまらないやつなんだと。
すべては、みんなと一緒にいるために。
そしてこんな生き方をしていて、
「お前が生きている価値なんてあるのか?」
という問題を作ってしまった。気付いてしまった。
確かに、こんな状態になってちゃあ生きてても死んでてもそう大して変わらないじゃないか。

ただ、そう変わらないのなら別に今すぐに死ぬ必要だってないんだと。
自分にだって何かやらなきゃいけないことがあるんじゃないかと。
そう思った。

しばらく、なかなか辛い思いをしたこともあった。
あたたかな人達のもとから離れて来た分、それは尚更のことだった。


孤独の向こう側

こうして僕はまず、これを意識的にやり始めた。

群れない。媚びない。急がない。
妥協しない。迎合しない。揺るがない。

そうして、今まで塞いでいた自分の意見が育つのを待った。
努めて孤独な時間を作ってきた。
すると、とても長い時間がかかったけれど、ようやく孤独の向こう側が見えてきた。
孤独の時間は、まさに孤独だった。
自分から避けておいてなんだが、人とも大した交わりがなかった。
情緒不安定と思われるようなこともあったと思う。

けれど、僕は屈せずに生き続けた。
そして、孤独の向こう側に来た。
まるで別世界。
孤独であって、孤独でない。
孤独の辛さをくぐり抜け、その価値を知って人間的に自立した、本来の意味での大人同士が協力して生きている世界。
これこそが僕の望んでいた場所であった。

みんながいいと思うもの。
みんなが寄ってたかるもの。
これが本当に良いものであるとは限らない。
というよりも、良いものであるほうが少ないように感じる。

こういうことも、ようやくわかってきた。
自分の目でものを考えて、自分の意見を持つ。

群れから脱出してようやく、
本当に生きたい道を歩いている確かな感覚を持った。

僕は故郷の茨城から出て東京へ行かなかったらきっと、こんな考えは持たなかったろうと、たまに思う。
それはそれでまた幸せなことだったのかもしれない。
東京に行ったことで、高校時代までの僕の世界観は、その薄いガラスの膜で覆われたようなものが一気に壊れた。

ある映画を見たことをきっかけに、東京について書いてみたnote。

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