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【永久保存版】私の写真論

今日も見ていただき感謝でございます。

さて、本日は写真論について自分用に書き留めておこうかと思います。
映画評論画の水野晴郎さんではありませんが写真ってほんとうにいいものですよね。

だって目の前の現実がカメラとかいう機械のボタン一つで画になるんですよ。撮った瞬間からそれはもう過去です。すごくファンタスティック!!

このように当たり前のことを当たり前だと思わないことがアーティストとしての最初のワンステップだと思うのです。

僕ら人間はこの地球において三次元の空間と一定に流れる時間、つまり時空の中を物質的に生きています。

それを二次元の静止画にする写真の不思議さに何か特別なものを感じてしまいます。

ちなみに相対性理論にあるブラックホールの事象の地平面とは、物質がブラックホールの外に吸い込まれる際に生命や物質の持つすべての情報、記憶がこの地平面にメモリーされるのだそうです。
宗教的に表現すると宇宙に存在する無限の叡智というやつが事象の地平面(アカシックレコード)です。

でも、この理屈って物質が二次元の情報として記録されるという意味で、写真を撮ることと何だか似ていませんか?

写真を撮ることって現代としては当たり前すぎる日常ですが、こうやって文明の利器について改めて考察すると楽しいものです。

ところでカメラやスマホを手にする全ての人にとって「いい写真を撮ってみたい」というのは共通の願いですよね。記念写真であれ、何かの記録であれ、あるいは芸術を意識した個人の表現であれ、誰もが満足のいく写真を撮ってみたいものだ!と願うものです。

そのために、ある人は高性能な最新のカメラを買ったり、何十万円とする高級なレンズを買ったり、人気の撮影スポットをネットで調べて出向いたり、流行の写真を追ってみたり、他の人はどうしているのか?調べて真似たり。

・・・もちろん、これはこれで素敵なご趣味だと思います。しかし芸術を少しでも意識して「いい写真」としたいのであれば、これら古臭い固定観念とは勇気をもって決別しようではありませんか。

最新のカメラ云々はあくまで物質、他の人がどうしているか云々は全体主義…もう物質や全体主義が台頭していた時代は終わったのです。

いまは精神性の時代、一個人が輝く時代ですからカメラとか映えスポットなんてもう忘れて自分はどうしたいんだ?という部分に意識を向けよう。

そこが見えてくれば大衆的写真文化と一線を画し、私は一個人の表現者である!というある種の堂々とした覚悟をもつことができます。その先に必ず皆が望む本当の「いい写真」のイメージが見えてくるはずです。

大衆的な写真文化とは日々、大量に撮られ大量に消費されていく画像データの山です。それはそれは少なくとも現時点では退屈なもの(例外的に遠い将来に価値が出るものもあり)ではありますが、多くの人が「つい」やってしまう正解探しの境地なのです。

私たちは暗記教育がいけなかったのか?環境がいけなかったのか?いやいや、自分自身の問題に他ならないのですが、自分のアタマで考える力、自分はどう感じたのか?という個の感受性、自分ならではのやり方、といった本来持っていたはずのオリジナリティをすっかり、人生のどこかに置き忘れているのです。

この辺でまとめたいですが、いい写真を撮る写真家(自称写真家でいいのです)に憧れるなら、まずはどこかに置き忘れた自分のオリジナリティを取り戻し、ひたすら情報を集めて正解探しをする癖をやめるのです。

事前に情報を集めれば確かに大きな失敗はないかもしれません。遠回りして損するのは誰だっていやです。だけど考えてみてください。好きな異性のタイプを貴方はGoogleで調べますか??

どこにもピントを合わせない、というユニークな表現手法

失敗して打ちのめされている自分の姿を勝手に妄想し、それを恐れるなんて愚かです。写真教室をやっていたころ、生徒さんに先生と決定的に違うのは何でしょう?と聞かれたとき、失敗写真を撮った数が違いますと月並みな答えをしたのを今でも覚えています。

失敗は最高の先生です。誰かが書いてくれた地図に頼らず、自分だけの航路を開拓しようではありませんか。それがサイコーに楽しいのですよ。その末に作家性の確立をした未来の貴方の姿がみえてきませんか?

作家性を確立した個人の表現とは?

何人に媚びることなく、徹底して自分の表現世界に没入し、苦しみの果てに作品を産み落とす一個人であること。
それはそれは孤独の創作活動である、と高らかに此処に宣言したい。

あっ・・・今日はちょっとアツく語りすぎたな。
失礼いたしました。
時候不順の折、どうかご自愛専一にお過ごしくださいませ。

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