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2018/9/18-19 気仙沼線の旅

久しぶりの過去旅の記録。今回は初めて東北に行った半年後の東北再訪の記録です。

初めて行ったときの記録はこちら↓

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大学1年の夏休み最終日。

宮城県の沿岸部をBRTに乗って、気仙沼市に行ってきた。

気仙沼というとサンドウィッチマンの二人がロケ中に被災したところ。海が燃えていたとか言っていて、何言ってんだと思ったけど…

youtubeなどで見ることはできるけど、実際に現地に行って見てほしい。

こんな穏やかな海が火の海になったとは信じられないから…

今回も例によって当時書いていたブログから引用します。文章が変かもしれないけど、まあ18歳の当時の感情の記憶ということで大目に見てください。


***2018年9月18・19日***

 夏休み最終日の二日間で気仙沼に行ってきて記録を書いてみました。

 旅をしてから二か月経ちましたが、今でも色々なことを思い出して感じることができる、とても考えさせる旅でした。

9/18 …大宮742→(東北新幹線)→仙台857-946→(東北本線)→小牛田1029-40→(石巻・気仙沼線)→柳津1121-1136→(気仙沼線BRT)→南気仙沼1320-(徒歩散策)-気仙沼1609→(大船渡線BRT)→奇跡の一本松1635-(徒歩散策)-陸前高田1757→(大船渡線BRT)→気仙沼1827-45→(気仙沼線BRT)→陸前階上1908
9/19 (気仙沼・大谷海岸を散策)→大谷海岸1143→(気仙沼線BRT)→志津川1328→(気仙沼線BRT)→ 陸前横山1348-1453→(気仙沼線BRT)→前谷地1536-1557→(石巻線)→小牛田1612-18→(東北本線)→仙台1705-1821→(東北新幹線)→大宮1930…

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 新幹線や普通列車を乗り継いで大宮から3時間半で柳津に到着。

 いや~遠かった…というかこれからが本番。

 バスの本数自体は増えて、列車との乗り換えも考慮されていますが、BRTという文字や隠された陸前横山の文字が何となく悲しげです。

 列車やBRTに乗っていた人の多くは地元のご老人や旅行中っぽい方で、柳津行き列車に乗っていた人は一桁台、柳津からBRTに乗車したのは確か片手で数えるほどでした。

 そうそう、車内で本読んでたら陸前豊里で降りるおばあさんに「良い旅を」と言っていただきました。この場を借りてありがとうございました…!

 ちなみに志津川あたりから乗客は自分ひとりという状況が続きましたが、本吉で大勢の高校生が乗ってきたのでとても気まずかったですw

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 どう見てもバスだけど、これはBRTといって、かつての鉄道路線をバスが走っています。鉄道廃止後にバスが同じ区間を代わりに走る感じです。

 長くなるので詳しくは割愛しますが、ここはかつて線路だった区間で、長い直線で他の車は走らない区間です。

 BRTは実質バスなので鉄道会社からすると経費は安い。利用者的にはたくさん本数を走らせたり、バス停を簡単に設置できるのでわき道にそれて病院や市街地のど真ん中にバスが運行させたりと(駅だと新たに作るのは難しいし、線路のルート変更も難しい)、地域密着型の公共交通機関となりました。

 一方で一般道路を走るため渋滞にはまったり、鉄道よりスピードは遅いため速達性に劣る、またかつては気仙沼から仙台まで鉄道1本で行くことができていたのですがそれがなくなり鉄道の遠距離移動が難しく、公共交通機関での地域外との遠距離移動は難しくなってしまいました。

 一応BRT専用道路を建設して渋滞を避けようとしてはいますが、鉄道もBRTも一長一短というわけです。

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 見づらいですが、震災の時に台湾から多額の復興義援金を受け取った際の感謝の碑です。南三陸の病院だったかな、台湾に感謝を忘れないために石碑がたっていました。

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 沿線ではまだまだ工事をしていました…

 防波堤って津波が○mまで来たからそれ以上に高くすればいいじゃんって感じで作ってるんですけど、その分海が見づらくて逃げ遅れの恐れもある。絶対安全なんてないから本当に高い防波堤は必要なのかという声もあるそうです。

 (ちなみに当時は逃げ遅れたというよりも、そこまで強くなかった第1波の後に油断して高台から降りちゃったら大津波が来てしまったことも原因のひとつでしょう…)


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 南気仙沼で下車。街道沿いで車や人通りも多く、飲食店や販売店など建物も多くかなり栄えてるなあと思いました。

 後ほどその理由を知り衝撃を受けてしまいますが…

 ちなみに少し海沿いへ歩いたらこのありさまです。更地でいまだに復興のための工事をしていました。

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 少し歩いたところに、当時の鉄道の鉄橋がぽつんと残されていました。

 これを見るからに鉄路復活はもう絶望的といってもいいでしょう。2年後の今でも、BRT転換した選択が正しかったのか間違っていたのかは、よそ者の私にはわかりません。

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  リアスシャークミュージアムと氷の水族館に行ってきました。

 水族館といってもただ単に魚が氷漬けされてライトアップされているだけでしたw そして寒かった。。防寒着借りたとはいえマイナス20度ですからね。

 ここは日本で唯一のサメの博物館だそう。なかなか興味深かったです。

 サメの展示だけではなく、東日本大震災の気仙沼の展示もありました。

 

 被災時の気仙沼の動画がシアターで流れていたので見てみましたが、感想としては胸が苦しくなるというか息が詰まるというか…

 百聞は一見に如かずなので伝わらないかもしれませんが、動画を見て私が思ったことは

 「町が消えた」

 だったんですよね。

 

 大津波警報が鳴り響き、建物や大きな船が津波で流され、逃げ遅れて家とともに津波に流される人たち、火災で海が燃えて(船から燃料が漏れてしまった)火の海となった港、でも何もできず呆然と立ち尽くす住民の人たち。被害情報も伝わらずいつまでも続く余震。

 こんなのはっきり言って絶望ですよ、きっと…

 

 それでも、諦めずに前を向き復興のため現実に立ち向かって少しずつ活気を取り戻していったといいます。

 「1000年に1度津波が来るならほかの999年頑張ればいい」

 詳しい言葉は失念しましたが、そう言った地元の漁師さんの言葉が展示室にありました。

 今でも辛くなったときはその言葉を思い出して頑張っています。

 改めて東北の復興を応援したいと思いました。


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 気仙沼駅って、線路とBRT道路が駅構内にあるんですよね。(岩手県内陸部の一ノ関~気仙沼は鉄道が残っているが、沿岸部の柳津~気仙沼~盛はBRT)

 車社会で人口減少している、しかし高齢者や高校生など公共交通機関が必要な人も多い。BRTも合理的に思えるけどどちらがいいのかはわかりません。(これは書くと長くなりそうなのでまた別の機会に)

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 で、BRTに乗って半年ぶりに奇跡の一本松へ。

 駆け足での訪問でしたが、驚いたのが何もなかった3月に比べて建物の土台が建設されていて砂浜を再生する工事が始まっていました。

 いままでは地盤を固めていただけかもしれませんが、少しずつ復興へ向けて整備と建設が進められていることがはっきりと見えました。

 実際に被災地に行って状況を見てほしい。

 震災のことを忘れないでほしい。

 復興まで見届けてほしい。

 熊本にボランティアに行った時も(写真があまりないのでブログでの紹介は省略しますが)、のちに気仙沼に住む地元の方とお話しした時も、皆さん口をそろえてこの言葉を言っていますが、今はその理由がわかる気がします。

 明らかに復興しているんですよね。でも、このことは記憶から抜けていき、風化していく。はっきり言って仕方ないことだとは思います。毎年3月11日にふとこんなことがあったよな、悲しい日だったな、と同情するほうが悲惨だと思います。

 実際、自分の目で現状を見ることで改めて震災のことを実感できるし、復興に向けて尽力している方を見ると、より被災地を応援しようという気持ちになります。

 

 何が起こったかを将来忘れさせないために、将来の世代の教訓のために。

 微力どころかお金や時間がある時しか行くことが出来ないですが、これからも実際に現地に行き続けたいと思います。

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 陸前高田駅までやってきました。このころはバスターミナルみたいになってなかったんだっけ…

 駅の周りには明らかに新しくできた感のある道路や施設。そして何より明るい。ここら辺は人の気配が多くありました。


 宿はゲストハウス「架け橋」さん。

 まったくの偶然でしたが、地元の方の夕食会的な集まりがあり、地元の方たちといろいろと話をさせていただきました。

 安さだけで選びましたが、楽しいひと時でした。

 リンク→ https://www.kakehashi0311.com/

 

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 翌日、気仙沼を発つ前にまちあるき(別途2000円)で気仙沼を巡らせていただくことに。

 まちあるきといっても完全に車に乗せていってもらいましたし、基本的にスケジュールなども考慮してくれるそうです。

 ※リンクを見たら、今はこの「まちあるき」はやっていないみたいです。

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 気仙沼から徒歩30分と比較的近くにある安波山に来ました。標高239mで、途中まで車で行けます。

 見づらくて恐縮ですが、写真の一番左(東側)が海で、仕事場の漁港があるので早い段階で復旧したそうです。実際に新しい雰囲気でした。

 そこから西に向かうと更地があり、工事中。

 さらに西には国道があり、不動の沢(と南気仙沼)駅。震災以前は南気仙沼の方が町の中心駅としての機能があったそうです。

 実際、国道沿いはわりと栄えていました。

 しかし中心部や国道沿いは津波でがれきに覆われたり浸水したり壊滅したため、建物のほとんどを新しくしたそうで。建物が綺麗で活気があるのは、かつてその周辺で津波の被害を受けたからでした。何とも皮肉な…

 で、右端というかさらに西が気仙沼駅。終着駅なのですが 中心市街地から外れていて山に近いので、あまり津波の被害がなかったそうで、周辺の建物は割と古い感じでした。

 実際、大船渡線一ノ関~気仙沼は被害が少なかったことが幸いして約1か月後の4月1日に復旧しています。

 ターミナル駅が市街地から離れていることは全国でもよくありますけど、それで被害の命運が変わってしまったようです。しかも津波被害を大きく受けた町の方が、新しくなって活気が戻るという皮肉… 

 たとえがよくないけど、戦争で焼け野原になった東京が戦後復興で大きく発展したのに似ているのでしょうか。

 この界隈だけでも見ていただいたように完全に復興したとは言い難い状況でした…

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 震災遺構となった向洋高校の跡地です。

 見るも無残ですよね。。正直奇跡の一本松のように何もない更地よりこういう破壊されたもののほうがよりリアルで(どっちもリアルだけど)津波の恐ろしさをより伝えている気がします。

 津波が引いたときに車がのっかったそう。建物の上に乗っかるほど大きく強い力の津波だったのでしょう。

 津波に飲まれた方はやはり助からなかったのだろうか… そんな考えたくないことを頭をよぎりました。

 ここでまちあるきが終了し、 大谷海岸駅まで送っていただきました。

 この場を借りて本当にありがとうございました…!

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 大谷海岸駅前には道の駅があります。

 駅の遺構もここだけ無残に残っていて、やはり鉄道での復旧は絶たれてしまったのかと思いました。

 それにしても、いつも思いますがこんな穏やかな海が荒れ狂っただなんて、あの動画を見た今でも想像できません。

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 ちなみに、そのバス停といっても待合室がありました。

 渋滞してもバスがどこを走っているかわかるように、バスの位置情報(到着時刻)も知らせる電光掲示板があり、そのあたりは親切です。

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 志津川で途中下車し、昼食。

 南三陸さんさん商店街という”本設”の商店街へ。

 仮設ではありません。全部は回っていませんが、木造の平屋が30棟ほどありました。

 地元の方も食事されていて活気がありました。

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 ちなみに裏側はこんな感じ。

 防災庁舎跡が今も残っていました。

 津波が近くまで迫るなか、高台への避難を住民に最後まで伝え続けた方もいるそうで。

 命を懸けて一人でも多くの人を救おうとしたその思いを無駄にしてはいけない。そう改めて思いました。

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 時間もだいぶ余ったので陸前横山で寄り道。

 駅からほど近い横山不動尊というところに行ってみました。

 ひっそりしたなか突然現れる立派な門や広い境内の散策、きつい奥の院への山道はなかなか東京で感じることはできないので楽しかったです。

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 海沿いを走るかと思えば山を越えたり内陸部も走ったり。こういう閑散区間は鉄道でもいいのではと思ってしまいますが…


 こうしてBRTや列車内で寝ながら東京へ。熊本の被災地でのボランティアに始まった大学一年目の夏休みは、東北の被災地への旅で幕を閉じました。

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 自分が東北になぜここまで惹かれているのか不思議に思うことがあります。

 単純に復興を応援するからというより、行けば行くほど東北が好きになります。

 なぜ? 正直わかりません。多分皆さんに伝えることもできないでしょう。

 

 だから、皆さんにも実際に行って感じてほしい。

 

 東北の美しさや、人々の温かさを。

 一方で今も復興進まぬ現状と津波の恐ろしさを。

 そして、地元の方々の熱意と努力と底力を。

 

 自分に出来ることはとても限られているのかもしれないけれど、

 その中で少しでも出来ることを考えていきたいです。



引用記事はこちら↓


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長々と書かれた記事を2年後の今見て思ったことは、当時の私が東日本大震災の被害を知らなかったのも無理はない。

自分からこの惨状を知ろうとしていなかったから。

多くの人は、東日本大震災が起きたことは知っていても、被害の状況や町の様子、現地の人々のことなどは知らない。

私だって今完璧に知っているわけじゃないけど、自分から知ろうと思わないと絶対に気づくことはできない。

しかし、である。

だからといって知らないことを責めるわけにはいかない。知ることで苦しみを持つ人だってきっといると思う。

私は被災地に行ったことはとてもよかったと思うが、知ることが本当によかったかは正直わからない。

幸いなことに当時の旅で出会った人はいい人ばかりだったが、悲しいことにそればかりではないはずだ。最近だって、コロナで差別をする人だっていたそうだ。高齢者が感染したら命にかかわるだろうから仕方ないかもしれないが、自分の想像と異なる状況に戸惑っている。


また、わざわざ東北の被災地に引っ越してそこで仕事をしている友人がいる。私よりも年下ながら街の住人という他者のために働いている。

彼らに比べて私は何をしていたというのだろうか。

なおさら部外者感覚で震災のことを知ることが本当にいいのかわからなくなってしまった。単なる旅人で外から見ているだけだった私に被災地を語る資格なんてあるのだろうか。

時々、自分が「復興」「被災地」というひとくくりの言葉にするべきなのかと思うこともある。自分は知ったようで実は何も知れていないし、本当に知ろうとしているのだろうか…

…まあ考えすぎか。

自分の経験なのだから、この答えはゆっくり(それこそコロナと共存しながら)見つけてみたいですね。


ちなみに、この旧向洋高校跡地は気仙沼市の伝承館としてオープンしています。一度行ったことがあるのでまたいつか記事にして紹介します。







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