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ら抜き言葉に思いをはせる

昨日日テレで放送された「ワーズハウスへようこそ」の再放送を見た。
2011年に放送された傑作選の再放送だったらしく、すでに亡くなった児玉清さんが出演されていた。児玉さん格好良かったなあ。

この番組は間違った言葉づかいを正しいものにして説明するっていう番組なんだけど、そこで柏餅を「食べることができる」を、「食べれる」といった誤用として紹介されていた。
もちろん正しくは「食べられる」が正解、だと断定してたけど…
およそ10年前だというのもあるけど、考えさせられた。

ら抜き言葉って何ですか?

そもそも、「ら抜き言葉」とは、
本来は可能の意を表す際は「見られる」「食べられる」が正しいはずだが、「見れる」「食べれる」のように「ら」を脱落させた表現形式のこと。
新明解国語辞典では規範を重視する立場からは、誤用とする向きが多い。と書いてあった。

五段活用の動詞やサ行変格活用動詞の場合、未然形+助動詞『れる』。
上一段・下一段動詞、カ行変格動詞、サ行変格動詞「す/さす」の場合は、未然形+助動詞『られる』となる。

とはいえ、「書く」が「書ける」、「飛ぶ」が「飛べる」、「売る」が「売れる」のように結局一般的には五段動詞の可能表現は下一段活用の可能動詞になっている。

ちなみに番組では、否定形にして比較すると簡単に見分けられる。否定形は未然形につくんだけど、
「取らない」「回らない」はらがある。だから「取れる」「回れる」
「見ない」「食べない」はらがない。だから「見られる」「食べられる」
と説明していた。
だからその反対というわけだろうか。
正直よくわからなかった。詳しい方教えてください。
いやー言語学って難しい。

一応このnoteは私が思ったことや考えたことをそのまま誰かに向けて書くというより話すイメージでやってるから、こんな風に話し言葉で言ってるんだけど、
実際の私はこういう誤用を結構気にするタイプなんだよね。

もちろんこういう言葉を使ったところで理解することができる。
主人公・ことはがおじいちゃんにこういう誤用を言って間違っているけど、そこまで気にするほどではないかもしれない。

通じるから別に間違っていてもいいだろ、ということではないと思う。
あくまで私たちは日本語を母語とする日本人。
日本人が日本語を正しく使わないというのは、考えることを失ってしまっているともいえるのではないか。
中国語や英語をぺらぺら話せる大学の先生が、一番難しい言語は日本語で、自分の思ったことを正しく伝えることができているかどうしてもわからないといっていたのを思い出す。

一方で、言葉は進化し変化する。

私も間違ってる文章を書かないように、ちゃんとした文法や敬語を使えるように勉強しようっと。

…「間違ってる」は「間違っている」だろ、ですって?
安心してください、ちゃんとわかっていますよ。
いやあ、説得力ちっとも無いっすね。

たしかに、「ら抜き言葉」など誤用だと思っているが、だからといって普段使いしているのも否めない。絶対私の記事の中でたくさん使っているだろう。
実際友達と話すときにいちいち気にするのも嫌だし、楽だし。

でも考えてみると、「ら抜き言葉」が正しい、間違っていると単純に考えるのはちょっと違うのではないかとも思うようになった。

たとえば、前述した「見られる」は、可能だけでなく受け身、下手したら尊敬表現にとることができる。(さすがに「ご覧になる」との勘違いはおかしいと思うけど…)
でも、「見れる」というと「見ることができる」という意味に限定されるだろう。
もちろん「あの人に見られる」といったように、基本的に文意で意味が分かるだろうけど、ただでさえ難しい日本語文法を少しでも改善するために、便利な区別言葉としてできたのかもしれない。

相手に伝わるかどうかを考えれば、ら抜き言葉でも思いは通じると思う

こう考えると「ら抜き言葉」は間違っているとは言い切れないのかもしれない。

言葉も間違った言葉が通じるようになるなら、それはそれでわれわれ日本人も新しい言葉に適応し、もっといえば進化したといえるのかもしれない。

たとえば「雰囲気」という言葉は「ふんいき」だけど9割以上の人が「ふいんき」と間違って発言しているような気がするが、もうここまで来たらむしろ「ふんいき」のほうが間違っているといえるかもしれない。大衆の意見というものは怖い。

ということで私の結論としては、日常会話で日本語を使うときはその文法は正しいか、何が間違っているかというよりも、どうすれば正しく伝わるかを考えることが一番大切なのではないか。

皆さんも、せっかく話したけど「こういう意味じゃないのに…」と思う経験はあるのではないか。

頑張っていろいろ文法のことを考えたけど、肝心の伝えたいことが伝わらなかったらまったく言葉を使って話した意味がない。だったらわかりやすい言葉を使ったほうがいいんじゃないの?ということ。

たとえば「やばい」といった言葉だって、すごく魅力的・危なくて恐ろしいという意味の若者を中心にかなり広まっているし、めちゃめちゃ悲しいという意味を「ぴえん」とか言って理解できるなら、それはそれで正解といえるだろう。(三省堂の現代新国語辞典欲しい…)

日本語学者じゃないのであまり大きなことは言えないけど。敬語でもない普段使いなら伝わりやすいほうを、それ以外の例えば歴史的な文法などは日本語学者に任せるといったほうがいいのかなと思った。

まあ正直「ら抜き言葉」ばかり使っている人の中には、日本語どころか何も考えていないような人もいるという偏見があるから、やっぱり好きになれないだろうけど…
ってこういう差別はよくないはずなんだけどね…
結局私が保守的で頭でっかちだと自ら証明しただけでしたとさ。

相変わらず最後の最後までグダグダでしたが、お付き合いくださりありがとうございました。

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