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北朝鮮は、本来独裁国家ではなかった

 かつて日本の植民地であった朝鮮半島は、日本の敗戦にともなってアメリカとソ連に分割占領されます。1948年、南に大韓民国、北に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立しました。

 現在、北朝鮮は独裁国家として知られていますが、建国当初は多くの政治派閥が存在しました。金日成首相は、そのうちのリーダーの一人に過ぎませんでした。

金日成が抹殺したライバルとは

 北朝鮮の指導者となった金日成は、幼いころに満州に移住し、中国共産党の抗日ゲリラ戦に参加した人物です。1941年ごろソ連に逃亡し、日本からの解放時にソ連軍とともに帰国しました。金日成の率いる政治勢力は「満州派」と呼ばれます。他にも、解放直後の南朝鮮で共産主義活動を行い、アメリカの弾圧を逃れて北部にやってきた勢力もいました。彼らは「南労党(南朝鮮労働党)系」と呼ばれ、朴憲永(パク・ホニョン)が有力な地位を占めていました。


 朝鮮戦争の開戦は、首相である金日成の意志はもちろん、南朝鮮に基盤を持つ朴憲永の意向も強かったと考えられています。しかし、結果として「南部の解放と統一」という目標は達成できず、国土の荒廃をもたらしました。1955年、朴憲永は米国のスパイ容疑をかけられ、国家転覆の罪状により処刑されました。金日成は朝鮮戦争における失敗の責任を朴及び南労党系に負わせ、同時に政敵を抹殺することに成功したのです。


 1956年のスターリン批判は、他の社会主義国にも影響を与えます。特にソ連が自ら個人崇拝を批判したため、権力集中を強める金日成の立場は苦しくなりました。しかし、同年に起きたハンガリー事件が奇しくも金日成への追い風になります。東欧のハンガリーでは、スターリン批判の影響で急進的な自由化が進みますが、ソ連の軍事介入で挫折。社会主義陣営の動揺により、中ソ両国は東欧に注視し、北朝鮮に過度の介入をする余裕がなくなったのです。金日成はこの隙をついて、敵対する他の派閥を排除。満州派による独裁体制を確立させました。


北朝鮮の国家テロはなぜ起きたか

 1950年代、北朝鮮は重工業重視の政策により、ある程度の経済成長を達成していました。また、1960年前後に中ソ対立が深刻化すると、いずれにも依存しない独自性を追求するようになります。北朝鮮の自立性を強調するため作り出されたイデオロギーが、「主体思想」でした。もとはマルクス・レーニン主義(社会主義革命のもとになった理論)を朝鮮に適用したものであり、「政治の自主・経済の自立・国防の自衛」を重視しました。


 1970年代に入ると、主体思想は金日成の独裁を正当化する思想に変質していきます。人間が主体的に生きるには絶対的な力を持った指導者が必要だとしたため、金日成への個人崇拝が強化され、息子である金正日への世襲も既定路線となりました。

かつては韓国より北朝鮮の方が豊かだった

 韓国に対しては、朝鮮戦争の休戦後も「解放と統一」を目指し、武力挑発やテロ行為を繰り返しました。1960年ごろまで、北朝鮮は経済的に韓国よりも優位に立っていました。しかし、朴正煕政権下の韓国の経済成長と北朝鮮の停滞により、その差は縮まっていきます。1980年代には北朝鮮は韓国に追い越され、その格差は拡大する一方でした。

 この焦りを背景として、北朝鮮は韓国に対するテロ攻撃を激化させたとみられます。ビルマで韓国の要人が襲撃されたラングーン事件(1983年)や、ソウルオリンピックの妨害を目的とした大韓航空機爆破事件(1987年)がこの時期に発生しました。1970~80年代には、北朝鮮による日本人拉致事件も多く発生しています。工作員を日本人に偽装して韓国に入国させるため、日本語や日本文化を教えさせるために拉致したといわれています。

 韓国が経済成長や民主化を背景に国際的地位を高めていく一方で、北朝鮮は独裁や国家テロによって孤立を深めていきました。

※本稿は、拙著「ニュースがわかる 図解東アジアの歴史」(SBビジュアル新書)の内容をもとにしています。


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