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ボスニア紛争と知られざるPR作戦⑩(最終回)~PR作戦が残したもの

前回はこちら。

 ボスニア政府は、アメリカのPR企業に協力させるという先見の明により、国際世論を味方につけた。その意味では、情報戦はボスニア政府の圧勝と言って良い。


 しかし、ボスニア政府が仕掛けたPR作戦は、この長い紛争のほんの一局面にすぎない。1992年の年末、報酬の支払いをめぐってシライジッチ外相とジム・ハーフは決裂し、ルーダー・フィン社による協力は終わってしまったのである。


 また、情報戦での勝利は、現実での流血を防ぐ役には立たなかった。一方的に「悪者」に仕立て上げられたセルビア人およびユーゴスラビアの世論は硬化し、民族間の感情的な対立は激化の一途をたどる。


 欧州や国連による4度の和平案も実らないまま紛争は続き、凄惨な虐殺や強姦が繰り返された。1995年7月には、セルビア人勢力がモスレム人を虐殺する「スレブレニツァの虐殺」が発生している。この事件では、10代~成人の男性を中心に8000人以上が犠牲になった。

※トップ画像は、「スレブレニツァの虐殺」の犠牲者の墓地である。


 NATO軍の介入の末、和平合意が成立したのは1995年11月のことである。約20万人の死者と約200万人の難民。これが、ルーダー・フィン社による鮮やかなPR戦略の残したものである。

【主要参考文献】
高木徹「戦争広告代理店」講談社文庫
高木徹「国際メディア情報戦」講談社現代新書

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