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戦国時代の村人を守った「禁制(きんぜい)」って何だ?

 戦乱の時代、民衆はただ蹂躙されるだけの存在だったわけではない。自分たちの安全は自分たちの実力で守るという「自力救済」の思想を持って生き抜いていた。

 中世の民衆史を専門とする藤木久志氏らの研究により、戦国時代の農村の自立性が明らかにされている。その事例の一つが「禁制(きんぜい)」だ。

禁制=村の破壊を禁止したもの

 禁制(制札)とは、大名・領主や軍団の司令官が味方と認めた村に対し、略奪・破壊から保護することを約束する文書や木札などのことだ。
 禁制そのものは鎌倉時代からあり、幕府や大名が寺社や民衆に掟や禁止事項を通達していた。

 戦国時代に入ると、戦火を避けるために寺社や村落の側が権力者に禁制の発行を求めるケースが増大し、全国各地で禁制が出されるようになる。多くの場合、軍勢がその村や寺社の境内で乱暴狼藉を働くことを禁ずる内容であった。

 こうした禁制は、戦国初期から安土桃山時代まで広くみられ、発給者も細川氏・北条氏・今川氏・織田氏・豊臣氏と、時の実力者の名がみえる。

禁制を得るにも見返りが必要

 しかし、こうした保護もただで得られたわけではない。1502(文亀2)年、和泉国日根荘の百姓が、銭二万枚を支払って紀州根来衆(ねごろしゅう)から禁制を勝ち取った記録がある。


 費用には禁制の代金のほか、根来寺の首脳部に対する賄賂なども含まれており、村は大きな借金を背負うことになった。しかし、苦労して勝ち取った禁制のおかげで、日根荘の百姓は根来寺の僧兵による乱暴や略奪を免れたのである。逆に言うと、領主の側からは禁制発行の見返りは重要な資金源となった。


 禁制のコストは、大名に支払う銭だけではなかった。1590(天正18)年、豊臣秀吉が北条氏討伐のため相模国に侵攻する。同国箱根の底倉村は、肝煎(村役人)が豊臣方と懸命に交渉して禁制を得たが、翌日には馬の飼料の納入を命ぜられている。禁制を与えられた村に対しては、物資の徴発や兵力の動員が求められ、大きな負担となった。

村人も領主を値踏みしていた

 多大なコストを払って禁制を得ても、もし領主が不利になれば、村はあっさりと領主を見限った。そして敵方に大金を送り、また禁制を手に入れたのである。どちらの勢力につくべきかの判断は、村の長老の大切な役目となった。各地に残る禁制は、当時のその地域の情勢を知る貴重な史料となる。

平和を守るのは「自助」が基本

 注意してほしいのは、禁制が無条件に村の平和を保障したわけではないということだ。戦国時代の禁制は、略奪や暴行を行う兵士を大名が取り締まるわけではない。多くの場合、「もしこの禁制に違反した兵がいたら、村の自力で逮捕・連行せよ」と書かれていた。実際に略奪を受けずに済むかは村の実力次第であり、あくまで自力救済が原則だったのだ。

※本稿は、協力書籍「最新研究が教えてくれる! あなたの知らない戦国史」に寄稿した内容をもとにしています。

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