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歴史という重箱の隅

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歴史ライターの立場から、一般に知られていない意外な歴史を紹介します。
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#毎日note

ちょっと面倒な西洋人名の「=(ハイフン)」の話

 先日紹介した書籍ですが、ページをめくっていたところ「誤植」を発見しました。 「グリオン…

モーツァルトの妻コンスタンツェは浪費家の悪妻だったのか(後編)

前回はこちら。 モーツァルトの家計を苦しめた意外な事情 モーツァルトの晩年の窮状を説明す…

ベートーヴェン《交響曲第三番》の『英雄』は、 本当にナポレオンを指しているのか(…

前回はこちら。 「運命」の逸話も嘘? ベートーヴェンの劇的な生涯は広く知られていますが、…

ベートーヴェン《交響曲第三番》の『英雄』は、 本当にナポレオンを指しているのか(…

前回はこちら。 ベートーヴェンが怒った記録はない ナポレオンが世襲の皇帝に就く、というフ…

ベートーヴェン《交響曲第三番》の『英雄』は、 本当にナポレオンを指しているのか(…

・本稿の要約 【伝説】 ベートーヴェンはナポレオンをモデルに《交響曲第三番》を書いたが、ナ…

死の床でも書きつづけた正岡子規がたどり着いた境地(後編)

前回はこちら。  死病に侵されながら、子規は死の直前まで明瞭な意識を保ち、随筆を書き続け…

死の床でも書きつづけた正岡子規がたどり着いた境地(前編)

※これはあるメディアへの寄稿用に書いたものの、日の目を見なかった文章です。ここに発表させていただきます。  逃れられない病苦にとらわれ、死に直面した時、あなたはどうするだろうか。いつか必ず訪れる「その時」に、立ち向かうことはできるだろうか。  明治時代の俳人・正岡子規は28歳で結核にかかり、35歳の若さで没した。病魔にむしばまれながら、過酷な運命を直視するように書かれた子規の文章は、時代を超えて私たちに深い感動を与えてくれる。 正岡子規の横顔 1867年(慶応3年)に伊予

本当に「高潔な名君?」~ローマ五賢帝の実像(後編)

※前回はこちら 後編は、五賢帝の3人目ハドリアヌス(トップ画像の人物)の跡継ぎから。 奇…

戦国大名「名字の地」をまとめてみた

 武士の名乗った名字は、多くの場合所領の地名から取られました。名字の由来になった土地(名…

「産業革命」は本当にあったのか

 機械化によって大幅に生産力がアップした繊維工業、鉄鋼業での技術革新、そして蒸気機関の発…

北朝鮮は、本来独裁国家ではなかった

 かつて日本の植民地であった朝鮮半島は、日本の敗戦にともなってアメリカとソ連に分割占領さ…

アヘン戦争は本当に「西洋の衝撃」だったのか(前編)

 中国の近代史は、1840年に始まったアヘン戦争の敗北から始まります。以後、中国は列強に蚕食…

アヘン戦争は本当に「西洋の衝撃」だったのか(後編)

前回はこちら。 イギリスはなぜアヘン貿易に手を染めたか アヘン戦争は、西洋式の主権国家体…