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【オープンレター】表現の自由などない問題を共有したい

こんばんは、いつもラーメンを食べているだけの人間、著述家、エンジニア、元東京大学非常勤講師のとつげき東北です。年中酒を飲んでいる私が、6日間禁酒しているので、逆にシラフ状態で変にハイになっている状態でお届けいたします!

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著者近影。100%酔っていませんね!


※普段からの読者のみなさま、申し訳ありません。
※今回、内容が真面目なため、普段のようなギャグを一切入れません。ご容赦ください。公益性のある情報ですので、全文無料とします。

前回、自由主義至上原理に基づく「自主規制」が、表現にもたらす萎縮効果や市場に与える悪影響についてシミュレーションしました。

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その後、手嶋海嶺さんとやり取りをしたので、共有できる情報を書き留めておきます。

オープンレターについて手嶋さんとお話しました

先日、手嶋さんのnote記事がアップロードされました。

内容(今回の問題)については、時系列その他詳細を把握していないため判断できませんが、手嶋さんが高いリスクに対して覚悟をもって「表現する」行為を選択されたこと、表現に付随する各種不確実性をご理解いただいたうえで決意されたことに対して、心から敬意を表する次第です。

記事公開前に手嶋さんから相談を受けましてコメントさせていただき、以下のとおり記事内に掲載されました。

【とつげき東北さんからのコメント】

 私は著書(麻雀研究の本や論理思想の本)を複数出版し、またエンジニアとして活動し、大学で講義等をしている表現の「当事者」です。当事者としての危機意識を共有したく、「自主規制の進行と表現の衰退モデル」を作ってみました。試みとして、「規制が曖昧であるほど、同程度の厳密な規制に比べて自主規制が進むこと」「規制を破った場合のリスクが巨大な場合、自主規制は速やかに進行していくこと」等を透明化することができました。

 表現に関する活動の一環として、私は「アラートループ事件」という、エンジニアの世界における「表現の自由」問題に、発起人の一人として関わりました。司法・警察権力と半ば対立する形で行動するにあたり、「規制される表現の限界」が表現者側から見て「ほぼランダム」なので、自分自身が書類送検される具体的な恐怖を感じ、無料公開していた人気のフリーソフトを削除せざるを得ませんでした。失うものが大きすぎるので、損失回避行動を取るのは当然です。

 昨今、いわゆる旧来のポルノどころか、ライトノベルでの「〇〇は私の右腕だ」というだけの表現が「腕のない方に失礼だ、と炎上する可能性がある」という理由で、出版社側から自主規制される事態を迎えつつあります。これをいわば他人事のように、半分冗談みたいに評論・批判されている「良識ある市民」の正常性バイアスはいかほどのものでしょうか。ニーメラーの警句にあるように、弾圧が進み、やがてはTwitterで「ラーメン美味しかった~」と発言することが、謎の燃やし職人に「食事ができない方に失礼だ」と取り沙汰され、発言者の社会的地位や各種権利を喪失させ、あるいは喪失されることを懸念して不可能になる世界が間近に迫りつつあることに、どうして鈍感でいられましょうか。

 「こんなことで規制するのはあり得ない!」ではなく、もう既にあらゆる部分でそれが生じています。「SNSは一切禁止」という社内規定を持つ企業も増えています。日本人から、「ラーメン」と表現する自由が、奪われつつあります。加えて、社会的地位の高い人ほどリスクが大きく、そういった意味で質の良い表現ほど消えていくのです。

コメントは手嶋さんの本文の邪魔にならないよう、最小限に抑えました。

通話でかなり意見交換をさせていただきました。
私からは、表現規制全体に関する現状や司法の運用の問題、不確実性、出版社などの関係を体験・経験を踏まえてお話させていただきました(表現規制を喰らったことのある表現者側視点)。
手嶋さんからは、私が存じ上げない「フェミニスト関連」に関する昨今の事情について、具体的で貴重な情報を数多く得ることができました(「界隈」での観察者視点)。

せっかくですので、手嶋さんと情報交換した事柄を皆様にも共有しようと思います(コメントの内容と被っている部分があります。すみません)。
「表現する」ことの現状について、ご参考になりましたら幸いです。

3点程度の論点と、そこから言えることをいくつか。

1点目。表現者/読者という構図の認識の問題

多くの方は、自分が「一般的な読者」的なポジションに位置づけられていると、無自覚的に錯覚しているかもしれません。

つまり、自分とは全く別の、何か特別な、絵を描いたり歌を歌ったりする職業人的なプレイヤーが存在するような認識です。

・自分たち「一般的な読者」
・表現者(クリエイター、雑誌社やテレビ局なども含む)
・一部のクレーマー


がいる、という程度の粗い解像度で俯瞰する構図が浮かびます。
この構図においては、プレイヤーはほとんど3つくらいしか出てきません。

・公権力

を入れてもせいぜい4つでしょうか。
このようなイメージでは、表現規制の事態を正確に捉えられないだろうというお話をしました。

というのも、恐らく「一般的な読者」だった誰かが、ひとたび上記構図で想像される「表現者」側に実際に立つと、その人にとって様相は一変するからです。
プレイヤーの数はかなり増えます。
例えば表現者がほぼ無名・新人のイラストレーターだとしましょう。
イラストレーターがどこかの雑誌(なり広告でも良いですが)に1枚のイラストを描く機会があったとして、

・記事を担当する編集者
・別の先輩編集者
・編集長
・出版社(会社全体)


といったプレイヤーが見えます。
イラストを描く場合、最終的には社会と言いますか、世間一般に作品を出すことになります。そうすると、

・一般的な読者
・アンチの人
・クレーマー


などもがいるはずです。もちろん、

・公権力
・世論


といったものも存在します。

この対比からわかることは、表現規制の問題は、「一般的な読者」から見ると、
「一部のクレーマーが表現を炎上させてクリエイターをつぶしている問題」
として単純化して考慮されがちなのに対して、立場を変えて表現者側からすれば、

・社会風潮等でたやすく判断が揺らぐ公権力による規制
・「炎上」を恐れた出版社からかかる自主規制
・実際に表現物を取り下げるよう求める圧力団体


などによる、
「表現規制だらけの世の中どうしたら良いかわからない問題」
に変貌するのです。

ちなみに、表現規制の主体が誰であれ、結局は全部同じようなものです。
表現者にとって、「表現が規制される」とは、表現者本人が当初表現しようとしていたもの(しばしば当初「それで大丈夫だ」とされていたもの)を、公にできない状態にされること以外を表さないものだからです。

表現規制の問題に何かしら関係するのならば、
「クレーマーは最悪だ(例:「キャンセルカルチャーはよくない」)」
と整理して浅い観点から言葉を紡いだとしても(これまでのところ)成果は上がっていませんし、今後上がる見通しも絶望的です。
大局的には、曖昧な司法運用で個々人の人権侵害をすることが簡単にまかりとおる「社会」も問題とせねばなりません。そうでなくとも最低でも、評判や炎上を極度に恐れて萎縮する出版社等の「組織、風潮」を解決すべき課題の一つと位置付け、「自主規制」によって表現者が表現を奪われた場合には、「自主規制を行った側」の責任や表現者への補償について検討しなければ薄っぺらになります。
真に表現者の立場からすれば、「クレームをつける者」も最悪ですが、クレームに対して萎縮して「表現者1人を切って謝罪しておけば丸く収まる」といった対応も最悪なのです。

よほどの売れっ子でもない限り、イラストレーター等表現者が抱えている今日的危機の根源は、大勢の「規制するプレイヤーたち」が、息を合わせたように自分の表現を止めにかかってくる状況全体に由来するものに思えます。

2点目。「表現」という言葉の範囲の問題

たまたま今回事案となっているものがそうだからか、表現関係の問題が「イラストやアニメなどの狭い分野の問題」「フェミニストとの対立」的な論点に矮小化されているように感じられます。
いうまでもなく、漫才をすることも表現ですし、文章を書いて公開することも、Twitterで「おはようございます」と書くのも表現です。歩くことも、歩かないことも表現です。
イラストなどがクレーマーによって表現規制を食らうのは問題だ、いや違う、というのももちろん重要な話ですが、もっと広く表現の現状を実感してほしいと考えました。

少なくとも私個人のレベルですら、実際に自分が開発したフリーソフトウェアを一般公開することが、公的な表現規制によって実質不可能になってしまっていたり(書類送検され、起訴され、人生の大部分に打撃を与えるおそれがある)、著書に書きたいことが「自主規制」させられたりもするし、ある種の発言がタブーとなっていたりする(年収のほとんどを投げ捨てれば大丈夫だから自由だろう、と言われても普通は無理です。というかそんなこと言うなら金くれ……)からです。

ここで皆さんに植え付けたかった何かは、「一般的な読者」が、別にイラストレーターでなくとも、小説家でなくとも、エンジニアでも手品師でなくとも、かつ、「所属組織とは無関係の個人」としてであれ、何らかの発言や行動その他一切の表現をすれば、それは既に規制の対象になり得るという強い実感です。
表現規制の問題を、単なる「大好きなイラストレーター」と「いくつかのフェミニストの事案」というような尺度でもって、「他人事だが大事な問題」と捉えないで欲しいと思います。これは皆さんが明日から人権(基本的人権、などとと呼ばれ、あたかもそれが存在するかのようにしばしば信じられている何かのこと)を失うかどうかの問題です。

手嶋さんとの通話の中で伺った話ですが、Twitterで、著作権侵害や肖像権侵害発言のような「違法なのだから消されて当然だ」と「大勢が思って当たり前」のものだけがヤバイという状況ではありません。もっと「大したことのない」表現でも十分ヤバイそうです。どれくらいでしょうか。
とあるフェミニストに対して「おっぱい大きいですね」と書いた結果、侮辱として開示請求が通り、裁判で負けて賠償金を支払ったということもしばしば起きているそうです。

普通の反応として、「それはリプライを直接送ったからだ」「セクハラにあたるからだ」と考え、「その人が『悪いこと』をしたのだ。そういう事をしない自分は大丈夫だ」と整理してしまえば楽でしょうね。しかし、それがまさに「正常性バイアス(すごくいい加減に言うと、「自分だけはこの危機の中でも大丈夫なはずだ、と思い込む心理的なバイアスのこと)」です。
上の例で大事なのは、書き手がその時点においては「まあ、この程度の表現は大丈夫だろう」と考えていたことです。「大丈夫」とは、たとえば「たくさん文句がくるかな」のレベルだったのかもしれませんし、「通報されてアカウントBANされるかもな」かもしれません。しかし、違いました。過去の事例ではありえなかったことが起きたのです。
書き手にとって「大丈夫」だと確信していたラインが、実際の世界で実質的にものすごく手前側に動いたわけです。あなたが今感じてる「ここまでは大丈夫、これ以上やると『悪いこと』に違いない」という思いは、まるであてにならないのです。

また、同様にして「批判は良いが、誹謗中傷は良くない。自分は他人を批判しているが、誹謗中傷はしていないので、大丈夫だ」というように、「勝手に自分でラインを引いて、それを守っていればOK、破った人はダメ」決めたがる人が大勢いますが、本当によろしくないです。批判か誹謗中傷かを決定するのは最終的に司法組織(かもしれませんし、所属する組織だったりもします――法的にセーフでも、組織としてアウトはよくあります)ですが、そのあたりのライン引きもかなりランダムに動きます。「法律の専門家(または人事の専門)だから正しく"客観的に"見分けて、ちゃんと自分をセーフにしてくれるはずだ」と、けっこう多くの人が共有しているようですが、残念ながら全く現実に成立しておりません。

規制、罰則の基準の話になってまいりましたので、次項で具体的に説明します。

3点目。規制の基準や罰則適用への認識

規制に引っかかる基準の曖昧さに対して、規制に引っかかった場合の表現者への処遇の重大さが大きすぎることに関する認識も話し合いました。

ある表現をした場合に、それが違法となると、当然何らかのリスクを負います。先ほど記載しましたが、
「違法行為をしたのだから、それは表現者が悪いのだろう」
と生ぬるいことを言っている人がいたならば、その方は表現規制の問題に関する議論の場から、ぜひとも即時にご退場ください。

警察組織や司法組織の判断は極めて曖昧です。
今まで違法ではなかったものが、1地方警察署の内部的な「〇〇防止強化キャンペーン」によって違法になります。
急に捕まります(※警察組織の暴走について、後に補足します)。
ちなみに都道府県の条例違反も地方自治法違反ですから、刑事罰が下る可能性があります。
「迷惑防止条例」などがそれにあたります。
いったい「どんな表現が社会一般にとって何が迷惑か」「どこまでが迷惑か」。これらは絶対に客観的に示されたりなどしません。
実運用では、せいぜいその時の風潮だの、警察署のキャンペーンだの、マスコミの騒ぎ方だの、世論だの、担当警察官のむしゃくしゃした気分などといった曖昧なものによって決定されます。

それだけではありません。
法令等に何ら触れていなくとも、「著しく良識に欠ける」「TPOとしてどうか」「実在しない少年の人権を奪っているのではないか」といった、おおよそ全く未定義で何の議論もされていない、幻想的で虚妄めいた何かすら、平気で表現者に牙をむいてくるのが実情です。

そして、「全員にとってもっともバランスのよい、普遍的な規制の度合いw」を決定づける権限を、既に勝手にかなり強く持ってしまっているのが、現代日本のクレーマーです。
何らかの表現が「ふさわしくない」「適切ではない」と感じれば、100人ぐらいの署名を募って(金で買っても良い)、表現者が所属する組織だの表現者が利用する媒体などに抗議を入れれば、抗議を受けた側がいともたやすく、

「社会通念上許されない不適切な表現を行い、多大な迷惑おかけしました」

と取り下げてしまうような場合がほとんど
です。

当然のことながら、「問題作品」を表現してしまったクリエイターが処罰されたり処分されたり社会的地位を奪われたり、それ以降の表現活動の道が実質的に閉ざされたりすることは往々にして起こります。表現者を殺すことなど、簡単なのです。
これは現代の日本の警察・司法の運用の問題でもあり、クリエイターに関わる各種関係団体等の問題でもあります。先進諸外国でここまで酷く表現の自由が守られない例は稀有で、「迷惑をかけないことが大切」とされる島国根性日本における、社会的なバグと断じて良いでしょう。

感じたことと、「当事者意識」

この3点について手嶋さんと色々と話し合いました。
私が手嶋さんの今回書かれた文章を拝見した時に感じた違和感、
「この文章がいかにして何らかの表現規制に巻き込まれないと安心していらっしゃるのか」
を共有した結果、手嶋さんは相当に深刻さを実感されたようでした。

ある種の問題がないと思われる表現をした結果、それが問題であるとして取り上げられ、大量のアンチができたり、表現を奪われたり、ことによると職を失ったり、人に刺されたりする。それが現代日本の在り方です。
当初、手嶋さんがそうした可能性を現実的に織り込んでおらず、頼れる弁護士などのツテも特に用意されていなかったことは、危うく感じられました。
その程度には現代の日本で「表現する」のが困難だという事実、そしてその事実があるからこそ、今回手嶋さんが言及されようとしている問題がまさに生じたのだということ。それを他ならぬ手嶋さんが、私と話すまでは十分に実感なさっていなかったところが、この表現規制の「非-当事者性」「正常性バイアス」「突然降りかかる大炎上&社会的地位の喪失」の性質全体をそのまま映し出しているようにも思えました。そう、まるで「バイトテロ」ですべてを失うコンビニ店長のように、表現者は無力なのです。

※手嶋さんはご理解が速くて深いため、note記事に話し合いの結果が色濃く反映されています。

手嶋さんですらそうだったのだから、多くの読者個人、場合によってはいわゆるクレーマーの方々も、自分が本当に当事者としていつ咎められ、いつ自分の社会的地位を脅かすことになるのかについて、深く考えていないように感じたのです。彼らが「表現者」だと認識している人たちに対して行っている表現行為が可能な状態がいつまで続くのか、そこのところを深刻に捉えられているのか、甚だ疑問になりました。

規制の曖昧さに伴うリスク、「評論家」たちに思うこと

日本には平成28年法律第68号「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」が存在します。いわゆる「ヘイトスピーチ法」と呼ばれ、日本では外国籍の方に対して、ヘイトスピーチ表現をしてはいけないと定めた法律です(日本人に対するヘイトスピーチは合法です)。これは奇妙なことに感じられますが、それはさておくとしても、何をもってヘイトスピーチとするのかについては、定かではありません。この法律が、どういったひねくれた根拠によって違憲でないと正当化されるのかは、「憲法学者」と呼ばれる疑わしい人々の判断によるものを除いては、さほど自明ではありません。だいたい、法律名に「不当な」という文言が使われていますが、「不法な」ではなく「不当な」なんですね。「不当な言動」とは、「誰かが、それはよくないと感じる言動」であり、この上なく恣意的なんです。

手嶋さんは私との通話の中で、当初、「憲法について、いわゆる私人間効力を認めるかどうか議論があり……憲法学者の"通説"では……」というお話をされていました。かなり内容も整理されていらっしゃって、非常に勉強されたのだと感心しましたが、残念ながら「憲法学者の通説」を細々と考えても、無駄です。彼らには何の権限もありません。もし憲法学者がきちんとお仕事をされているなら、現在の憲法改正草案など「国家ゴッコはやめて」の一言で蹴るでしょう。
Twitterにおける「表現の自由界隈」と呼ばれる世界では、何か重要な論点とみなされている「定番のもの」だそうですが(だから真面目な手嶋さんは勉強したのでしょう)、通説通りの判示が出るか出ないかが予測不能である中、「通説ではこうなっているのに」という言葉は、悲しいほど力がありません。裁判例だって刻々と変わります。予想に使えない仰々しい「理論」に、何の意味があるでしょうか。

規制の予想が困難なのは、表現の現場でもそうです。
たとえば、私は麻雀関係の研究を行って著書にしていることから麻雀関係者とつながりがあります。話を聞くことがあるのですが、いわゆる麻雀荘で「賭け麻雀」が行われているものは違法で、しばしば摘発されています。
ところが、明らかに実態的に賭博であるパチンコ店などは摘発されません(余談。日本にはギャンブル依存症患者が、諸外国と比べて極めて多いです。パチンコは、「本家」の朝鮮半島では違法です)。
「法解釈がうんたらかんたらで、3店方式だから……」
といった御託は必要ありません。
そうやって個々人や個々の裁判官などが、「無理やり整合性をつけられる」ために生ずる規制運用の曖昧さが問題なのです。
もしも私が「3店方式」の何か賭博システムを作ったら、簡単に賭博開帳罪で捕まるでしょう。
麻雀店についても、他の店と同じことをしているのに、警察が踏み込む場合も踏み込まない場合もあると聞きます。

作品も同様で、「特定のエロ(たとえばBL等)」については「かなり過激な表現」がお咎めなしなのに、それが別のジャンルになると、急に強烈な規制がかかったりします。
明日からどの分野にどんな規制がかかるか知れません。
こういったことは、クリエイター側を悩ませる不確実性として、また、突如出現する劇的な危機(ブラックスワン)として立ち現れるのです。

同様に、多くの方々が「何のリスクも感じずに」ブログを書いたり、SNSで何かを発言したりすることは、常に危険を伴います。その度合いは年々強まっており、今やほとんど運次第でリスクが突如顕在化されるといった様相を呈しています。周り皆がやっているから大丈夫ではありません。「皆のうち、誰が捕まるかが運のみで決まる」のが怖いのです。「もしもSNSで発言していると30%の確率で逮捕されて社会的地位を失う」とすれば、大半の人はSNSを「自主規制」、するでしょう?

それがまさに実は、手嶋さんの取り上げられた今回の「事案」でした。
ある種の社会的立場を持った人からすると受け容れがたい――無敵の人でない限り――実質的な人生への大打撃が生じる現状、現在の日本に表現の自由が存在するとは到底思えません。

この期に及んで、クレーマーと何かを「話し合う」だの、クリエイターや出版社が「どういった自主規制をすべきなのかを民主的に考える」だのといった夢物語を語るのはたくさんです。
表現者として、皆さま表現者に、切実な思いを共有したく存じます。


(参考)警察権力の運用は自明でない

いかに警察組織がデタラメか、私の話で具体例を挙げます。
私がある顧客と契約行為を結び私の債務を履行し終えました(コンサルタント業務)。にも関わらず、契約相手方(知的な障害を持っていたことが後にわかりました)が警察に駆け込み、法律の知識も皆無だろう一警察官の判断により、
「振り込め詐欺の可能性がある」
と判断されて、相手方に契約を履行しないよう勧めたという事案があります(私は既に債務を履行し終えている状態なのに、どうすればそこから債務不履行に戻して詐欺をすることができるのでしょうか……)
私は驚いて、その警察署に事情を問い合わせる前に、上部機関となる県警にも連絡し、「そのようなことはあり得ない」(警察法第二条第二項違反ですから当然です)旨の証言を課長レベルから受けていた(録音もしていた)のですが、警察署の対応が後手後手に回ったあげく、
「お金を取り戻したければ相手方に民事で訴えればいい」
だのと気が狂ったことを伝えられ、最後には県警を含めた警察組織同士で、
「今回の件は問題がなかった」
正式に整理され、私の財産権はいともたやすく侵害されたことがあります。
警察権力によって個人の財産権を不当に奪っておいて、財産を取り戻したいなら市民同士で解決しなさい、不祥事など一切なかった、とされるのが日本国です。
仮に本件を司法の場にかけても、日本の司法運用は行政側に超有利ですから、最高裁判決まで費用をかけ続け、何十年待たされて敗訴が確定するのか不明です。


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