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【自主規制は損!】いかにダメかを、数理科学的に証明してみた(表現規制版)

※2022/07/11 早稲田大学教育学部の学生さんが、本稿での研究を応用して『道徳教育の効果に関する数理的アプローチによる一考察』を卒業論文として作成したいとのことで、指導を行いました。大変優れた方で、パラメータ設定等の合理性等の説明もよくご理解いただけました。

こんにちは、エンジニア、著述家、統計学の専門家、元東京大学非常勤講師のとつげきとうほきゅです。
……いや待って! これタイピングミスではありませんよ?
間違いなくとつげきとうほきゅですから。
ご安心ください! 大丈夫ですから!!!

ぱちぇはぱちぇよ!!
(私はぱちぇではないので無関係ですが
。)

更新履歴:
※22/1/12 21:03 プログラムのソースコードを追記しました
※22/1/16 18:18 時間経過とともに自主規制がどのような影響を与えていくのか、ひとまずの一考察を論文風に仕上げました。

さて、気を取り直して、こんばんは、とつげき東北です。
最近、割と真面目な数理科学的研究を15時間くらいしておりまして、いわゆる「自主規制」(例えば、アニメや漫画などの表現、コロナでの飲食店の営業など)が、得策ではないだろうという1つの示唆が得られました。
汎用性を持たせたので多数の分野に応用が利くのですが、主に今回はちょうど興味を持っていた「表現規制」と絡めた形にまとめてみます。

この知見を活かすことにより、みなさまも1日で30個のニンニクを食べることが可能になりますよ!

さて最近、Twitterでは「表現の自由」に関する議論が割とさかんなようです。
私のnoteにも寄稿してくれている大学時代からの親友、ヒトシンカなどが、その界隈でよく暴れまわっているのを見かけます。ちなみにあいつデブです。

このネタは、ヒトシンカ本人から許可を得て言っています(注釈めんどうくせえ……)。

私はアニメとかにほとんど興味がなくて申し訳ないのですが、少しその世界のやり取りを覗いてみたところ、ヒトシンカは例外として、議論のレベルが驚異的に低いな、という素朴な印象を抱きました。
議論をするのに、なぜ出せるはずの数値なり厳密な根拠が出てこないのか意味が分かりません。
まるで私が登場する以前の麻雀界のように、文学的で曖昧蒙昧な議論にただただ終始している界隈だという認識を持ってしまいました。

ちょっとした好奇心から、最近、ヒトシンカからのリツイートでその「表現の自由」界隈的なところにいるらしい、手嶋海嶺さんのnote記事を読みました。

あれれ、なかなか明晰。今まであんまりなかった。
ちゃんとした人がいたわ。なんかごめんなさい。

※手嶋さまへ。今回、突然記事に書かせていただいて申し訳ございません。大変興味深く拝読いたしました。このnote記事に対してご不明点等ありましたら、こちらへご連絡ください。誠実に対応させていただきます。

賛同できる点が多々あったのですが、違和感を覚えた部分・不足していると感じた部分もありました。

以前、青識さんという方への批判めいた記事を書いたのですが、対話に応じていただくことがかないませんでしたので、憂さ晴らしに本文章、書かせていただいております。悪意はありません。マジでありません。ありません。

今回は、手嶋さんという青識さんと違って「将来有望な逸材」に思いを馳せながら、また墨汁を飲みながら、さらに神棚に明太子を飾りながら思いを綴っていきたいと思います。

今回の記事は割と本気で準備していて、「表現の自由」の諸問題について、「文学的な対話」などではなく、ちゃんと数理科学的な研究に基づき状況を例示します

具体的には、自主規制や公的規制の状態が変わった時、人がどう振る舞ってどう得するかといったものを比較的少ないパラメータで表してみた、というものです。私は倫理学や経済学等でも過去に同様のことを行っていて、割とちゃんとした査読付きの論文を通しています。

今回もちゃんとした研究です。

当初は割と自由に研究していましたが、手嶋さんから、「時間の経過とともに、規制がどういう風に変化していくか、といったシミュレーションは何かできますか」という宿題をもらったので、ちょうど大学受験生が共通テストをやっているこの2日間くらい根をつめてやってみました。

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シミュレーションによって得られた示唆・結論をいくつか簡潔に示しておきます。
前半は私の自由研究、後半2つは手嶋さんからの宿題です。

・表現の自由を守るために行う「自主規制」は非常に損(同じ程度の規制になる点においては、公的規制が良い)
・「自主規制」が行われている環境では、「全員が公平に自主規制に従う」よりも、「自分が他に課する規制を、自分だけ抜け駆けする」方が、表現の自由を守ることに寄与する
・「自主規制」よりも、厳格な線引きの方が表現の自由に寄与する
・厳格な線引きができない条件下では、「萎縮」と表現規制が加速する

・時間経過によって、規制は最悪の状態に収束する
・自由主義に基づく表現規制は必然的に失敗する

有料部分では、本格的に研究をしており、以下画像のような明快な結論が得られています。

【以下画像】

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画像23

【以上画像】

ゆっくりしていってね!画像12

※手嶋さんのイメージ画像です(めちゃくちゃかわいらしい!)

まずは、手嶋さんのnote記事について、いくつか述べたいことがありましたので、そこからお話します。
(シミュレーションの詳細は有料部分に記載しております)
手嶋さんは、次のような5つのテーマを立ててそれぞれ検討・批判されたようです。

① 「自主規制」はあくまでも「民間企業の(経済的)自由」だから、憲法上問題なく、むしろ権利として保障されるべきでは?
② 「自主規制」は民間主体で行われているから、法令的規制より安心! むしろやるべき!
③ 気に入らない「自主規制」をしている企業があるなら、そうではない他の企業を選べばいい。
④ 「自主規制」なんだから、企業の自由に任せていればいい。
⑤ 妥当でない「自主規制」がもしあっても、市場原理によって淘汰されるはずだから大丈夫!(神の見えざる手で「良い自主規制」が生き残る)

手嶋海嶺『「表現の自主規制」の危険性とGAFA憲法』

手嶋さんは①~⑤をいずれも否定して、その結論に関してはおおむね同意なのですが、しかし、あくまでも「自然言語のやり取り」のレベルに留まっています。
そういうことを語るということだったら、私ならコンピュータシミュレーションで数値を出し、1日で結論を確定させます。
「表現の自由」界隈にいる人たちは、どうしてきちんと定量的な議論をしないのかは、(ちゃんとコンピュータシミュレーションしない限り)永遠の謎です。

また、大変申し訳ないですが、「言葉のやり取り」で対応するような憲法論に関しても、手嶋さんの表現では不十分な点もあるな、と感じました。

手嶋さんはプラットフォーム事業者の自主規制について、表現の自由を侵害する憲法問題だとし、論文を引用したうえで次のように書かれています。

プラットフォーム事業者による「自主規制」は、単なる民間企業の自由として全面的に許容できるものではないわ。(全面的に拒否できるものでもないけど。)
だからこそ、しっかり民間企業が主体となる問題であっても憲法上の問題として扱われているわね。

ここには利用者の表現の自由を損なうという大問題が含まれているからよ。

手嶋海嶺『「表現の自主規制」の危険性とGAFA憲法』

この部分の憲法理解は私と異なりますので、ここで「自主規制とは何か」からご説明させていただきます。

自主規制とは何か

自主規制、といっても色々ありますよね。
コロナ禍における「外出自粛」だとか、過激なアニメ絵や番組の規制、他にも細かいところでは「こういうマナーを守りましょう」というのも、広い意味では自主規制です。だって、マナーを守らなくても、法令違反ではないので、逮捕されたりしないわけですからね。
でも、日本社会はけっこうムラ社会的な側面があって、「自主規制」とか言いながら、その規制を守らなければ疎外されたりします。
一番ひどい例の一つは、東京都において、コロナによって
「飲食店に対する自粛要請」
がかけられた際に、自粛しなかった企業が罰せられた、という事案です。
いやいや、罰則があるなら「要請」じゃないでしょ、「命令」だろ、と感じますよね。

表現についての自主規制

「表現」についての自主規制を取り上げます。
「表現」って何かというと、一番に思いつくのは「絵を描くこと」とか「文章や言葉を綴ること」とかでしょうね。もっと広く捉えれば、人間がスポーツをすることから始まり、テストを受けること、旅行をすること……そして存在すること、存在しないことなどを含めて「表現」と言えます。
大きく捉えると、「表現」とは人間の活動そのものですね。
そして、それは日本国憲法において「表現の自由」として、国民の権利として保障されているものです。

ところが、私が観測する範囲内で、割と多くの人が「表現の自由」について、思いっきり間違った判断をしているように思います。
たとえば、
「どの程度まで表現の自由が認められるかについて、十分に話し合う必要がある」
などと言っているおかしな人たちがいます。
ちゃんと日本国憲法に戻ってみましょう。

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表現の自由は基本的人権であり、憲法学的には、他者の人権を侵害したり、公共の利益を乱さない限りにおいて、保障される(とされている)ものです。
にもかかわらず、一部の人は、「気分を害する表現はやめろ」と言ったり、「TPOを考えた表現をしよう」などと主張しています。
いやお前ら誰やねん、と思いますが、実際にその結果として本当に芸術作品の展示が取りやめになったりした例が多数あります。

私は執筆をしたりしている「実際の表現者(当事者)」なので、とても身近な問題に感じ、表現規制の行動を取られる前にできれば話し合いたいし、それができずに実際に表現規制が行われる時にはただただ辛い思いをしています。

ところで、日本国憲法で保障されている「表現の自由」とは、特定の表現をする自由のみならず、表現を見る(知る、観るなど)権利も含んでいます。誰かの表現が規制されたら、それは表現者への人権侵害のみならず、視聴者への人権侵害にもなるのですね。

国家等の権力と憲法

憲法とは、国や地方政府など「権力者側」の暴走をさせないために制定されるもので、「権力者側」は、憲法を守る義務があります。日本の法律等が日本国民等の行動を制限するのに対して、憲法は日本の「権力者側」の行動をしっかりと制限するために存在するのです。
そういった「そもそも論」から考えたところ、手嶋さんのnote記事に色々と書いてあったものに、若干おかしな点を見てしまいます

例えば「複数のクレジットカード会社が、特定のポルノサイトへの決済を禁止した」話が出てきます。
これについて、

プラットフォーム事業者による「自主規制」は、単なる民間企業の自由として全面的に許容できるものではないわ。(全面的に拒否できるものでもないけど。)
だからこそ、しっかり民間企業が主体となる問題であっても憲法上の問題として扱われているわね。

手嶋海嶺『「表現の自主規制」の危険性とGAFA憲法』

とおっしゃられていますが、もっと深堀りして考えたら、次のようにまとめられます。

憲法によって「表現の自由」が基本的人権として定められています。
先に述べたとおり、「表現の自由」には、単に何か(この場合はポルノ)を表現する自由だけでなく、国民の「観る権利」も含まれています。

したがって、仮に民間企業たるクレジットカード発行会社の多くが決済手段を禁じることによって、国民の基本的人権である「観る権利」が侵害されるような状況に陥るのならば、国家等(地方政府も含む。以下同様)は、「観る権利」を保障する義務があります
民間企業が「それぞれ独自に規制した」のだとしても、国家等は、権利を守るために、例えば、
・個々の民間企業に対して、規制を解除するよう勧告等を行う
・国家が民間企業と同等の決済手段を用意し、規制されたサイトで決済ができるような仕組み(国家発行ポルノサイト用クレジットカードの発行とか!)を作る

などの対応が求められます。
冗談じゃない。当然のことです。

手嶋さんは、「表現の自由を守るための法律が必要だ」と次のように論じていらっしゃいますが、最高法規たる憲法にこの内容はすでに含まれていますので、冗長です。

さて。厳しい中でどう対処していくか、自主規制にどう抵抗していくかは難しい問題ね。いちばん良いのはビッグテック企業になってお金の力ですべてを蹂躙することなんだけど、とりあえず日本で起業しても無理ね。時価総額トップのトヨタですら、GAFAと同じ行為はやろうと思っても出来ないから。

第一、GAFAより成功した企業を作らないと「表現の自由」が享受できないなんて、人権思想としては完全にメチャクチャだしね。

出来ることは限られているけれど、GAFAクラスの権力については、国家権力しか頼みの綱がないのも現実。
ぱちぇは、こうした脅威に対し、表現の自由を守るための法律が必要だと思ってるわ。

手嶋海嶺『「表現の自主規制」の危険性とGAFA憲法』

他のたとえを出すなら、国家等は、犯罪者から一般人を守る義務を負っています。
誰かが殺人犯に追いかけられているとして、そこらへんの民間人や、たまたま近くにあったコンビニの店員、ラーメン屋の店主が、その誰かを守る義務など一切ありません。勇敢に立ち向かったらエライのですが、それは偶発的・個人的な活躍でしかありません。
とすると、誰が「殺人被害」を止めるのでしょうか。
もちろん、それは基本的人権たる「生存権」を守ることが日本国憲法で義務付けられた、国家等の役割です。具体的には地方公務員の警察官などが、殺人を防止するために仕事をするわけですね。

実は、「表現の自由」を守ることも、これと同じ枠組みで捉えられるのです。誰かが不当に「表現の自由」を規制したならば、国家等が、その状態を止める義務を負います。
ですから、仮に民間企業(クレジットカード会社)が、特定のポルノサイトの決済をさせないというならば、それに対して迅速に適切な対応をしなければ、国家等が義務を果たしていないことになるのです。
国家等は公権力を持っていますので、こうした「当たり前の義務」を果たさないとなれば、それは権力の暴走に他なりません。
人が殺害されそうになっていても警察官が無視するようでは、それはあまりにもダメですよね。生存権や表現の自由などの基本的人権を守るのは国家等ですから。
構造は同じことです。

もしも民間企業が表現規制をするなら、公権力が守らないといけない。
しかも公務員は「全体の奉仕者」ですから、特定の人や企業だけの利権を守ってはいけないのです。
「税金をたくさん払っている人や法人にだけ権利をあげる」とかは絶対に禁止で、「国家発行ポルノサイト用クレジットカード」は、国民全員に支給しなきゃいけないのです!

公権力は、私企業の独占を禁じることについても、法律上の義務を負っています。
現実的にわかりやすい例でいえば「独占禁止法」などがあって、特定の民間企業が「市場原理だ」と強弁して高値でモノを売ることなどは、しっかりと禁じられています。そこに公権力が介在しなければ、一部の人々のみに富が偏在してしまいますから。

シミュレーション

手嶋さんは「市場原理」について説明したあと、「市場原理任せではまずい」と次のように述べています。

前提として、公平で自由な競争によって、経済的に勝つ人・負ける人が出るのは当然でしょう。それが国の豊かさの維持・発展に繋がっているのも分かる。

例えば、出版社が行う表現の自主規制についても、読者の好みをひどく損なう内容なら不人気となり売上が下落し、そうでない「ゆるい」自主規制の出版社がいずれは売上が伸びて勝利する。

なるほど、こういったストーリーは市場原理の考え方から描けるでしょう。

とはいえ、市場原理によって上記のような「良い」均衡に達するのは、あくまでも「いずれはそうなる」という話よね。じゃあその「いずれ」は何時になったら来るの?

「均衡に達するのにかかる時間」は市場原理論では保障されていないところで、マクロには最終的に「見えざる手」が成立するとしても、ミクロ(個別の事例)に関しては「時間がかかりすぎる」問題が普通に出るわ。

手嶋海嶺『「表現の自主規制」の危険性とGAFA憲法』

こういった「直観」は大切ですし、それ自体は納得できます
ただ、この手の議論では、いささかぼんやりしたやりとりが続く傾向があることを私は知悉しています。
「市場原理に基づけばどうなるか」くらい、自然言語ではなくて人工言語を用いたコンピュータシミュレーションで示せばいいのです。
ちょっとだけできる中学生にも可能です。

特に危ないのが、「良い均衡に達するのに時間がかかる」という結論が出ている点で、その時間が現実的な時間なのか、300年後なのか、1万年後なのかも明らかにされていませんよね。
「それが問題だ」となるなら、計算すればよいはずです。

以下、有料です。
有料部分で、このプログラムのソースコード一部を示します。
(※書き加えました!)

購入者の大学生、大学院生又は研究者に対して卒論・修論・博論へのアドバイス、共同研究等が可能ですので、DMをお待ちしています

シミュレーションしてみた(説明)


ではここから、「表現規制」のシミュレーション例を示してみます。
これは別に「表現規制」に限らず、「選挙制度」「商品の販売」などなど、色々な分野にも転用できるようにモデルを作りました。
シミュレーションの前提など細かい話は後に書くとして、ざっくりとした前提条件を示して、結論から書いていきますね!

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規制の有無と自主規制について

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