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人間である私には、凡ゆる人間が見える

 黄昏時の彼の感情はこうである。街を覆ってしまう圧倒的な脅威に絶望する。彼は部屋の中にひとり臥していた。彼を宵寝に誘うもの、ひどく疲れてしまったその精神には、夕焼けの恩讐とも言える情熱を、直截に見ることはできないような気さえするはずだ。
「さて、この夕日を君は美しいと言うのかね。」
「美しいと思います。」
「少なくともその瞬間はあったように思います。」
夕日の美しさの一面、太陽が海の彼方に沈んでいく時に、持てる昂揚の全てを発揮する。線香花火が終局の間際に放つ、クライマックスのような演出を私は見ていた。耽美的な表現の、奇怪な物珍しさに宿る美しさ、それは確かに生命の内奥から来るものであるが。ムンクの絵を、それも最晩年のあの太陽を私は見ていた。そこには生命の歓びがあるのだろう?

ムンク『太陽』

「私にも彼の絵が美しいものだって思える。線香花火の美しさも分かる。さらに言えば、夕日の美しさだって私は知っている。」
「だけど、夕日が怖いんだ。」

 夜明け前の朝、彼はまたしても朝日を怖がった。陽光がカーテンを透いて部屋を僅かに照らした。その部屋の中で、彼は布団に横たわっていた。彼は明晰さを欠いていたが、夢遊しているような状態ではなかった。
「いっそのこと、夜がそのまま蓋をしてくれればいいのに。」
彼はただ絶望する。彼は暗い所に居座り続けたために夜行性の生物になっていた。というのも、彼は見えないものを進んで見るようになってから、見えるものが見えなくなってしまった。
「一日の始まりじゃありませんか。何を辛気臭くしているのですか。」
「朝は嫌いだ。それも夜が明けようとする瞬間は特にだ。」
彼は私に事情を説明した。彼が言うには、夜というのは、精神の墓場であると、同時にそれは、復讐のような場所であるとも。太陽と月との私の関係は、こうである。老ぼれの魂が、ある限界を仰ぎ見る。それは、まさしく月の回転運動のように、本当なら運動を倍加して行けるような心持ちとは裏腹に、その外部的な事情によって、月も太陽と同じ方角に沈んでいってしまう。そして新たなる命は、自身がこの月と同じ悲劇を全うするであろうことは、全然知らずに、純粋な顔をして昇ってくる。彼らは、少なくとも絶望している。希望は、つまるところ絶望の表れである。私はその交代をうんざりするほど見てしまった。さらに言えば、私の自己も生死の交代を迫られたのだと彼は言う。

しばらく経って、私たちは部屋の外へと出た。静かな朝の街を散歩していた。未だ生命が秘めている可能性のようなものが、幾重の薄い青い膜となって、独特の凛々しさを印象している。彼は、この時間は嫌いではないらしい。それどころか最も居心地の良い頃合いだと言った。
「清々しくて良いですね。」
「ああ、」
彼は少なくとも同調した様子で、世界の様々な可能性の視界へと視線を向けていた。あるカルガモの親子、川の流れる様子、そしてその音も、さらには、青い空、大きな雲が形を変えながら移動していくのを、またある時は、風に揺られる雑草たちの移り変わっていく色彩を眺めて、彼は時々、静止する。そして気になる花を、じっと見つめている。
「なぜこの花はここに産まれたと思う?」
「さあ、私には分かりませんね。」
「では、なぜこの花の葉っぱは緑色をしている?」
「なぜこの花の花びらはこんなに綺麗な朱色になるのだ?」
私には、分からなかった。その問いの内容も、彼がなぜそんな質問をしてきたのかも。ただ、彼の少年を刺激するこのテーマは、私にとっては興味深く思えた。その後も彼は純真さながらで私に質問を繰り返した。ときに尤もらしい仮説を私に教えようと試みながら。

エネルギーの流れを見てみてほしい。恐らく根っこは大地に張って、その無限のエネルギーを吸い取ろうとして発達するだろう?そしたらその表れとして芽が出てくる。その時、芽はまた大いなる太陽のエネルギーを受けようとして、それを最大限、吸収しようとして、こんな丸っぽい形になるのだ。そして正中線に対称にこれらの受容体を発達させていくと、上に向かってだんだん伸びていくのだ。だけどもある時、無限的である世界に対して、己の有限性を自覚する。このまま何時迄も倍々に伸びていたら、風に折れてしまう、虫が私を食うかもしれない。彼は何らかの攻略を立てなければいけなくなる。そこで未来への可能性として花を咲かすのだ。きっとこの先どうなるかなんて分かってもいないのに可能性に賭けるのだ。冬が来ればきっとこの花は死んでしまう。悲しいけども死んでしまう。これが必然的な限界なのだ。だけども私の目に映った。この花は可能性を託して私の心に残った。だから私はこの花の可能性をさらなる可能性に仕立てあげなければならない。それがまた私の可能性なのだ。

彼は、その後もいくつも、可能性の話をした。その度に私は自分の無慈悲さを反省するようになった。

彼はどうも疲れていたようである。散歩から帰ってきたものの、彼の陰鬱さが顔に出ていたし、部屋の中が微妙に暗いのも、彼の堅物を印象させた。さっきの話を聞いて分かったことだが、彼の絶望は、可能性に開かれているが故の絶望なのだと、きっと彼は感受性が高い。他人の罪悪感をも自らにも感じてしまう。やはり、彼は虚空を見つめて、さっきまでの花のことや、広すぎる世界のことについて考えている風であった。

 別の日の午後、彼は本棚を整理していた。雑多に置かれた数々の小説や理論書も、彼にとっては体系的に記憶されていて、作業は思いにもよらず、順調に進行していた。さて、彼は一冊の本が何処にあるのか見当がつかなくなった。ここに来て、初めての躓きに彼は苛つきを隠せなかった。
「キルケゴールがない。」
「さあ、あっちの山かも」
彼は素直に探し始めた。しばらくは粘っていたが、長い時間は持たなかった。小休止とばかりに、たった今整理したばかりの本から気になるものをいくつか掬い上げた。

しばらくの間、彼は色々な本の目次に目を通したり、昔読んだ気になる箇所を洗いざらいに読み直したりしていた。ある瞬間、彼は高校の頃の倫理用語集を読んでいたのだが、止まってしまった。
「不思議だ。」
「一体何が不思議なんです?」
「なぜ青年なんだ?」
「青年?」
私が分からない素振りをしていると、彼はそのまま話し出した。
「なぜ、第一章から青年を扱うんだ?」
「私たちは青年か?」
彼は何か大事なことを言いたげにしていた。しかし、彼には肝心の大事な何かが分からない。分からないうちに、夜が来てしまった。彼の口を噤ませたもの、それは睡魔だった。頭上にのしかかる星辰の運動は、彼の瞼までも深く閉ざした。

 しばらくすると彼は目醒めた。長い間、宵寝に慣れていたために、彼は目醒めながらも、意識は夢幻のような場所にいた。そしてある時点で布団に体が触れる感触、または暗闇の中だけれども見覚えのあるような感覚を頼りにして、我に帰った。

虫の声が聞こえる。遠い遠いノスタルジアのようなこの静かな音は、起き抜けの体のなまりには心地よく染み渡った。
「秋の声だ。」
「ええ、」
「まだ、蝉の声も聞こえる。」
「ええ、ほんとです。」
「少し外に出てみませんか?」

晩夏の涼しくなった夜風に、彼は嬉しそうな素振りをした。彼の体が猫のしなやかさのように伸びると、また猫のようなあくびをした。
「さっきは何を考えていたのです?」
「ああ、それか、」
「私は不思議なものを見た。」
「だけども、それは人間の全体だ。私は人間の一生を見ていたよ。」
「人間ですか。」
しばらくふたりは、夜の美しさを堪能しながら歩いた。彼は時々眠い目を擦りながら。

やがて彼は一匹の猫を見つけた。その猫は街灯の真下で光を受けながら休んでいた。彼は猫を怒らせないようにと、歩調を落とし、無邪気にも手を振っていた。猫は私たちを警戒し、非常に可笑しいのだが、彼と猫は、ずっと目を合わせて歩いていた。
「茶猫だったな」
彼は嬉しそうに振り向いた。

 翌る日の朝、春のような陽気の中で、私たちは眠りについてしまった。タオルケットの肌触りは、その温度のためか、私と彼とを溶け合わせ、ひとつの夢を見させた。私たちは遙か彼方の神秘的な記憶に寄せられていた。

音楽が聴こえる、しかし音の聴こえないような音楽が。小鳥のさえずりのように優しいのは事実だが、尤も巨大な鯨の咆哮のような緊迫感すら感じる。これから始まる壮大なもののアウフタクトだろうか。

時に、私たちはざわざわと生い茂る夏の葉を、ひとつ仔細に観察したことがある。私たちが今見ている夢は、かつて何者も無かった土地に君たちが初めて芽吹いた時のことを、あの麗しい記念的な日のことを、今世紀に甦らせるという素敵な夢である。君たちの枝はいつも段々と伸びてゆき、その太い幹は、芳醇な雰囲気を醸し出している。さて、私たちは、葉脈の影から君たちに侵入し、人間で言うところの血管を通じて、時間をも逆流する。

君たちは何処からやって来たのだ?
種子はある風に吹かれ、たまたまやって来た。良い土と水の湧き出るような土地で、燦々とした太陽の光を浴びて、新鮮に想う君たちの成長は早い。そして時は経ち、私たちは君らが毎年落としていかなけばならなかった、数々の枯葉の走馬灯を見ている。いつだったか秋の日の、私の靴はそんな落ち葉を踏み鳴らしていった。そんなときに数奇な体験に初めて遭遇したのだった。

「今 風 吹き起る…… 生きねばならぬ。」というヴァレリーの有名な一節、彼の場合は、海辺の墓地で経験した出来事が、私にも起こっただろうか。私は何度か通ったことのある道を歩いていた。少し傾斜のある小山沿いに、木々が屹立としてあり、頭上には枝垂れた幾つもの枝葉があった。ある瞬間、やはり風が吹き起った。さっき枝から離れたばかりの枯葉が、舞っていくのを見た。あの厳しい風が、優しい風が、ゼノンの矢のような永遠の時点で彼らを釘付けにし、私の精神もまた、その止まっているはずの矢に貫かれてしまった。だけども私の歩む先には、今もゆっくりと降りてくる枯葉が、さらに全て吹き上がって、景色全体を包み込もうとする。この落ち葉を掻き分けた手の感触が、再び私を貫いていった。

思えば、私と自己であるところの彼は、ある場所で出会っている。それはちょうどある問いの地点で交錯する広場のような場所で。

 夕方、彼は公園のベンチに座っていた。何かと言うわけでもないが、どうしようもなく動きたくなってしまう焦ったさの中で、ぼんやりとした視線を向けていた。
「私もなんだか疲れてきました。」
「暇疲れというやつかね。」
「解りません。なんとなくですかね。」
「そりゃ困ったね。」
彼は真剣には答えてくれなかった。私も何が言いたいのか分からなかった。
「結構なこと居ましたね。」
「そろそろ帰りますか。」
「ああ」
そんな私たちのもとに鳩が数匹現れた。相も変わらず、馬鹿みたいに頭を揺らして歩いている。
「こいつらは何を考えているのですかね?」
「さあ?」
「石、つっついてますね。」
私は変な妄想をしていた。この鳩たちは馬鹿そうに見えて、実は馬鹿じゃないのではとか、その常時そっぽを向けている目は、私たちより果てしなく世界を厳しく見つめているのではないかとか、色々。
「石を食ってるのか?」
可笑しくて、吹き出してしまった。

ゴーギャン『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』

またある時は、体細胞分裂の夢を、受精卵が二、四、八、十六、といった具合で進行していく。母親の胎内で平安に眠りこけ、気づいた時には、私はもう青年になっていた。しかし、どれほどの夥しい細胞が私を構成し、今まで何回もの再生と破壊を繰り返して来たのか、私は知らなかった。

 蒸し暑い夜のこと、私は眠りにつけなかった。何処に寝返りを打っても、熱気が肌に纏わりついて、じわっとした汗が、また肌に纏わりついて、仕舞いには、その水気が蒸発して、私の呼吸を妨げた。彼もまた同様に苦しんでいて、それを見ているのも辛かった。
「暑い、」
ふたりして、ただ嘆いていた。扇風機の羽の音、その風に乗って蚊が耳元をよぎっていく。部屋に充満した二酸化炭素に誘われて、私らの顔の前で、何時迄も音痴な甲高い音をあげている。
「パチン」
深夜の住宅に明かりがひとつ点いた。どうやら彼が耐え切れなくなって点けたらしい。そのことに気づくのにも、しばらく時間がかかった。
「パチン」
次の音がした時には、彼はもう蚊を始末していた。夜行性の蚊にとっては、私よりももっと災害的な明るさだっただろう。成す術なく、張り付いた最寄りの壁で、雷に当たって死んだ。
「痒い、」
私と彼は、その疲労感のまま寝ようとしたのだが、この雷鳴を徴に、長い雨に降られてしまった。

再び細胞の夢を、人体の世界でも自然災害が起きていた。悪夢に魘されながら、皮膚を掻き毟り、引っ掻き回す、神の気まぐれによって、屋根が破壊され、その筒抜けになった天井から雨が入り込み、部屋を水浸しにしていた。ある者は家が流され、そのまま亡くなってしまう不幸に見舞われた。この世界では、いつも何処かで偶然的に、不幸に遭ってしまう。体内の住人は、危機意識が高いので、きっと神様はお怒りなのだと言って、生贄を捧げることで、惨禍を免れた。

 また或る時ふたりは、タイムマシンに乗って、先祖の姿を見に行ってみたこともあった。

ラスコー洞窟の壁画

彼は興味津々そうに、凡ゆる時代を堪能して満足気だった。
「もっと昔に行ってみないか?」
「少し怖いです。」
「何言ってる!この先にはもっと奥ゆかしい神秘があるかもしれないのに!」
「ビッグバンまで行けるんじゃないか?」
摩訶不思議な冒険活劇が始まった。彼の幼さは、より幼くなり、その度に地球が若返り、原人を見て、恐竜を見て、古代魚を見て、何者も無いような土地に辿り着いた。
「地球の誕生を見てみたい。」
「さすがに、これ以上は戻れなくなってしまいそうです。」
「元の場所に帰りませんか?」
彼は、私の制止を振り切って、地球を飛び出してしまった。そこで彼は美しい数々の誕生を見ていた。地球と月との関係、原始太陽の可能性の靄、やがて彼は銀河系をも超越したのだろう。最も潜在的な方へ、彼は嗅覚を光らせていた。果たして彼はビッグバンを見れたのだろうか。また彼は深淵の宇宙を楽しめただろうか。私の目には、彼はブラックホールに飲み込まれ、耐え難い絶望という重力に押し潰されそうになっているようにしか見えなかった。私と彼とは、境界的な場所の関係という鎖によって繋がれて、ついに彼は特異的な地点で私に回収された。つまりは私がブラックホールである。

 私たちはようやく目を覚ました。気づいたら日付が変わっていて、どれだけ長いこと寝ていたのかをふたりは自覚した。
「何かすごい夢を見ていたような気が、」
「ええ、そんな気がします。」
「きっと素晴らしい夢でした。」
朝までは暖かった気温が、深夜には相当落ち込んでいて、少し肌寒いような気もした。やはり、絶望が夜空に覆い被さっているのだが、そこにはまだ早いオリオン座が低く見えて、決して悪く無いような心地がした。

 それから月日が流れ、布団に覆い被さっても、凍れてしまいそうな冬が来た。彼は懐で温めていた幾つかの仮説で、暖をとっていた。私のことも温めてあげると言って、そのまま話始めた。私も微笑みながら、きっとそれでは私の体が温まることが無いのは分かっていたけれども、大人しく話を聞いた。
「前に青年について話したことを覚えているか?」
「ええ、覚えていますよ。」
「だけども、あの時は答えが、、」
「そうだ、分からなかった。」
「だから、あれからずっと考えていた。」
「それで面白いアイデアを思いついたんだ。」
最初に彼は、時間が大事だ、記憶が大事だ、と滅茶苦茶に話した。しかし彼の熱意は凄まじかった。本当に体がぽかぽかとしてきた気がした。
「人類史自体が人間だったら面白いだろう。」
「そんなことを考えていたのですか。」
「すごいだろう?」
「つまりな、私たちの人類史が青年に差し掛かっているということだよ。」
「やっぱりあの時の直感は正しかった。」
「一つずつ遡るぞ。」
「先の大戦は生殖器の発達と関連している。」
「そして、19世紀ごろに人類は思春期に突入した。」
「体の成長という意味で言えば産業革命も関係がありそうだ。」
「それで、ニーチェの文体というのは、厨二心をくすぐるだろう?」
誰かに翻訳してほしいくらいに彼の主張はとっ散らかっていたが、およそ言いたいことは分かったような気がした。

人類史がまだ精子であったころ、人間なるものの可能性は、卵子を追いかけていた。おそらくアウストラロピテクスやホモ・ハビリス、ホモ・エレクトス、ネアンデルタール人、クロマニョン人は、ホモ・サピエンスが誕生するための潜在的な可能性だった。文明は各器官と関連しており、キリストの誕生は自我との関連である。文明の発達や人口の増加に伴って、人類は成長してきた。西欧的な進歩主義、この明らかに絶望している進歩主義は、老いを知らない子供の成長の為か。さらに産業革命期、第二次性徴と関連して生殖器の発達、欲望は異性の裸体に向けられ、そこで新たに見る他者の存在によって、自己を強烈に意識した。ロマン的な凡ゆる運動は、童貞の悲恋の物語である。芸術の如何なる表れも、人間の所以である。世界大戦が起きた。それぞれ遺伝子情報を持つ細胞、細胞であるところ人間が、減数分裂を起こし、女性とまぐわいをした。人々はある躁状態の中で、私は何者にもなれると思い、たとえそれが神であったとしても、彼らにとって詰まるところ神は女であったから、ある時点で射精をした。だけども躁状態は鬱を招き入れる。次第に全能感は薄れ、人々は成長するか、否かという地点で留まり、片やマルクス主義、もう一方は、保守主義というイデオロギーに表れ、現代では、人類史自体の老いの所為か、革命運動は翳りを見せ、それぞれがシステム的に洗練された消費行動をとることで、生命を維持している。毎年増え続ける自殺者は、肉体的限界からくる精神的限界なのである。それ故に、有頂天から叩き下ろされた我々は青年なのである。

「もうひとつ問いが残っている。」
「我々はどこへ行くのか。」
「私は死に向かっているのですね。」
「そうだ。」
「だけども、私にはたくさんの思い出があります。」
「そうだ。」
彼は先程までの興奮を抑えるように、噛み締めるように優しく相槌を打った。
「青年か。」

 それからしばらく経ったある日、冬は冬と言っても、もうすぐ雪が解けて、近くの用水路にはその水が流れ落ちようかという頃、ふたりは次の春を心待ちにしていた。彼は新たな生命の可能性に向けて、私はそんな彼に応じるように。

山川 倫理用語集 目次

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