言葉 歴史 実存

言葉には、私たちを幻惑させるような一面があると思う。一面とは言わずに、ほぼ全面的であるとさえ、私は最近思ってしまう。

ある男が発した言葉が一つの事物として、分離されるようなあの言葉は、例えば、「愛してる」と誰かが言ったとしよう。この言葉が、現実味を帯びるような文脈とは如何なるものだろうか。ひとつ、付き合い始めたばかりのカップルの例を

女が「ねえ、私のこと愛してる?」男が「愛してるよ」と言った。これほどに胡散臭い愛情表現があるのだろうか。きっと女は、続けて「ねえ、ほんとにそう思ってるの?」と言って、男はその場しのぎに嘘をついて見せる「ほんとだって、大好きだよ」

ふたつ、結婚して互いを分かり始めた家庭の例を

ふたりの間の子が、無邪気にも「お父さんってお母さんのこと愛してるの?」と聞いてきた。父親は、虚を突かれて動揺したが「愛してるよ」と恥ずかしそうに小さな声で言った。それを聞いた母親が、照れながらもその場を切り返し、ぎこちなくとも少し温かい時間が流れた。

みっつ、死を待つのみの老夫婦の例を

「月がとっても青いなあ」
「そうですね」

私がここまで空想してきたのは、「愛してる」という言葉が持つ意味や解釈を知るためではない。「愛してる」という言葉を使ったときの効果を知りたかったのだ。我々が「愛してる」とわざわざ口にするとき、その背後に愛の不足を予見するような出来事がある。もし愛で満ち足りた生活を送っているのなら、さしたる事情がなければ、「愛」という単語は存在しない。

口内炎ができたときにはじめて、痛みを伴わずにご飯を食べられることに感謝するように、愛している実感、愛されている実感がなければ、当然その不快をどうにかしようと、発話は身体的な反応から来ることはあるのだけれど、皮相的に表現される。

私たちが日常で使わないけれど、文法的には正しい例文がある。例えば、「これはりんごである」私は記憶のある内で、こんな文章を使ったことがない。なぜなら、そんなこと言われなくても分かっているから。派生して、「りんごが存在する」という例題を、このことを表現する必要のある場面を想定しよう。すると、こう言った文章を使える場面というのは、非常に特殊的、限定的だということが分かる。我々は、論理的な整合性もさることながら、リアリティを通して出来事を把握する。

嗜好を変えて「りんごが存在する」という意味を考える上では、「りんご」という単語だけで事足りると言えないだろうか。まず、りんごが存在しなければ、「りんご」という語自体あり得ない。加えて現実味の観点から見ても後者の方が使い勝手がいいように思える。例えば、美術館へ行って、赤い果実の静物画を観覧したとする。そのとき、もしかしたら「りんご」という単語が頭に浮かぶことはあるかもしれない。しかし、「りんごが存在しているなあ」とは滅多にならないだろう。また、スーパーマーケットに行って、今度はみかんを買いたいと思っている。青果コーナーには、みかんがある。しかし、視界にはりんごもある。このとき、りんごがあるという事実とは裏腹に、「りんご」という単語は不在となることがある。ましてや、脈絡もなしに「りんご」と発声するならば、実は脈絡がある(お腹が空いてる、赤い球体が連想させた)か、気が違ったかである。

りんごの不在に関して言えば、空間に絞って話を進めてきたが、時間についても同様である。例えば、スーパーマーケットに食材を買いに来ているのだとしたら、あり得るのは、「りんごはどこかな〜?」「あった!これでよしと、つぎは‥」このとき既にりんごは過去へと追いやられ、視界の外にある対象となる。

ここで重要なのは、欲求の働きである。りんごを食べたいと思うとき、手元には、りんごがない。しかしいざ、りんごを食べ始めれば、「私はりんごを食べている」と言いながら食事することが無いように(「りんごを食べている」と言っている瞬間は手が止まっている。もしくはそんなことを頭に浮かべ続けながら食事をする場合、やはり気狂いだろう)、いつも私はりんごを所有することができない。

時として、私たちは言葉をこのように使用するが、私が「A」と発するときには、欲しいはずの「A」はなく、「A」に到達したなら、既に「A」は浪費されている。当然のことのようだが、愛を求める時代には、「愛」が、徳を求める時代には、「徳」が、正義を求める時代には、「正義」が、真理を求める時代には、「真理」が、そして存在を求める時代には、「存在」が言葉として、実質的になにかあるような気がするものを、一個の事物として、形象する。これは何も、概念的な言葉のみならず、具体的な事物にまで敷衍できる。言葉というものが、本質的に所有したい欲求を下敷きにしていることを鑑みれば、おおおよそこのことは言える。

所有とは、その性質により、時間性と無時間性を必要とする。家に住むというのは、つまり定住するというのは、ある期間を、ここからここまでの区画は私のものということにしなければならない。この持続性も虚しく、狼に住処を破壊されるようなことはあってはならない。途端に私のもののはずだったその区画は、もはや区画ですらなくなる。貨幣に関しても、物と貨幣が交換できる担保によって、お金を大事にしようという動機が働く、もし市場に流通する貨幣が極端に増えれば、それを財布の中で誰にも取られないように仕舞わせていることになんの意味があろうか。さらに具体的なイメージを、りんごを店で買った。それをあなたは食べるまで保存しておく、ここに所有の時間的な側面、もし木の枝から直接取って食べるのだとしたら、りんごはすぐに跡形無くなる。そして無時間的な側面、保有しているりんごが腐ってしまった場合には、私たちはそれを食べることはしない。ゆえに多くの場面で、りんごは捨てられてしまう。ここで私たちは思うのだ「腐る前に食べればよかった」と。であるから、所有の極端な本質は、何も腐ることなく、変化することなく、ただ、その時間が数直線のように進むことを欲求することなのだ。

歴史を俯瞰して見ること、これは歴史を一つの数直線としてある範囲を操作することである。しかし、私たちが生きている時代も、先の時代では歴史になっているというのに、何故こんなにも喧騒としていて、霧に隠れたように、人々は悩み、苦しみ、憂い、時に喜ぶのか。いつの時代も前の時代を愚かそうに見ている。であるなら私もきっと愚かなのだろう。私が思うに、これが理性主義の限界である。もし一個の時代が終わったときに歴史が分かるというのならば、過去の時代に生きた人々は不在であり、新しい時代の者たちは、新たな欲求(その新しい時代が終わったときにようやく判然とするイデオロギー)に縋って生きる。

ひとりの人間について語るとき、同様のことが言える。例えば、私が「私」と言うことを考えてみてほしい。私を自己と同一的なものとして見るのならば、私は「私」を所有していることになる。このとき、やはり一過の歴史のような人間として見る訳だけれども、私は常に変化し続け、やがて腐り果てていくものだ。これを所有するときに、私はどのような感情になるだろうか。やはり、無時間的に不老不死を願うだろうか。それとも変化し、進歩し続ける「私」というアイデンティティを確保したいと願うのだろうか。

資本主義というのは、人々、つまりはひとりの人間を、経済活動に還元してしまった。人々の権力への意志は、所有ということに詰まるのだ。もちろんそれは、大きな豪邸を持っていることに始まり、文化資本(理性の成熟、インテリジェンス、性格等を含む人間の精神的活動)までもに及ぶ。人々の聖性は、この俗化する運動によって、翳りを潜め(性表現規制、暴力表現規制、合理主義)、ゆえに、家に帰ってから獣のように、マスターベーションをする。

牢獄に収監されている囚人が各部屋でオナニーしていることを想像してみてほしい。これが健全な姿だと言えるだろうか。人々は、所有しているものしか使えずに(他の人が所有しているものを傷つけてしまえば、法律によって裁かれるから)、さらに言えば、商品が非常に多いので、カタログの中から、選ぶ方式の限りで生活している。おそらく先の時代で馬鹿にされるのはこのことだろう。

私たちはどう生きるか。しかし実際には、いくら言葉が幻影であって、所有することが阿呆らしく思えたとしても、人間それ自体が、既に虚構的なあり方を実在的な領域に組み込んでしまった。我々は、時間に逆らうように、過去を渡って歩き、猿の姿にまで戻ることはできない。我々の生活には、安全な住処が必要で、当面の食糧も必要で、裸になって街に繰り出すわけにもいかない。では、蜂がただ巣の中で弱っていくように死ぬだけか?

私は賭けをするのだ。勝負から降りることもせずに、その度に高まるリスクを負い続け、不在は賭ける恐怖と悦びの歯車となる。私は、賭けに勝つたびに生き、その生でもって再びギャンブルに投じる。

好運よ!この決意が不在とならんことを!

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