夕暮れの飛行機雲 ⑧(小説)
十年前からこの町はほとんど変わらない。
駅前の商店街の店はシャッターを下ろす店が少し増えただけで、新しい居酒屋とカフェがそれぞれ一軒できただけ。それだけだ。
時の流れから取り残されたように、今も人々は穏やかな暮しを守っている。
実家に帰ってから私は、あまりに時の流れが遅く感じ、何度も時計を見る。
なんて太陽はゆっくりと一番高いところまで上っていき、そして沈むのだろう。夜ともなれば、その闇の明けるのが百年先に感じられる。
遠くに日本アルプスの山々が見える平和な田舎町で、私と祐樹は成長した
犯罪はもちろん交通事故が起こるのさえ十年に一度ぐらいだったし、学校には暴力もいじめもなかった。
世の中には様々な不幸があるのはもちろん知っていたけど、それは国外の紛争などと同じくらいの遠くの出来事だった。
もちろん捜したらどこの家庭にも小さないざこざがあり、学校の中にだって秘められた問題が内在してたのかもしれない。しかし、表面上はどこもかしこも平和だった。
そんな街で私は普通の家庭で普通に育った。
祐樹が「親戚に預けられた子」という事実も、私の中では現実的ではなかった。家庭や学校の奥に秘められた不幸と一緒で、日常では私も、ほかの誰も気にしていないことだった。
そんな生活の中で、祐樹の実の母親に会ったことは私にとって大きな衝撃だった。
忘れることもなく忘れていた不幸が目の前に現れた感じだった。
祐樹は
「別に涙の再会だったわけじゃないし、俺にとって両親は育ててくれた父と母だけだ」
なんて言っていたけど、動揺しないわけはない。
これまでもっと祐樹の気持ちをわかってあげるべきだった。
再婚した母親に置いていかれるなんてどんな気持ちだろう。
実の母親から邪魔にされたと思って生きてこなければなかったはずだ。友達と同じように実の両親と暮したかったろう。なぜじぶんだけこんな運命なんだ?と思ったに違いない。
祐樹が隣に来たばかりの頃は、年下に思えたこともあるけど優しく遊んであげた。
でも成長するにつれて、同い年なのに祐樹に私が甘えることが多くなったように思う。
小さな頃はひ弱で泣き虫だったのに、いつしか私より我慢強くて勉強も運動も頑張る子になっていった。
うわべでは寂しさなんて見せなかった。孤独をかかえて大きくなった子は早く大人になるのだろうか。
それに比べて私は、親にも友達にもいいたい放題で、好きなことをつぎつぎに見つけてはすぐにやめていった。勉強も「あまり面白くない」からとあまりやらなかった。
結果、残っているものはないような気がする。
そんな思いが、私を受験勉強に前向きにさせた。
やりたくないこと=勉強を一生に一回ぐらいはやらなくてどうする、という気持ちになったわけだ。
そうしないと祐樹に申し訳ない気がした。
もちろん勉強は祐樹に頼ってはいけない。
命削る覚悟で頑張ろうと思った。
手入れが簡単なように長い髪を切り、楽しみにしていた少女漫画を毎週買うのを止め、テレビもニュースだけと決めた。家庭教師も頼んでもらって毎回宿題をいっぱい出してもらった。
「どういう風の吹き回し?」
と親も友達もびっくりしていた。
祐樹なんか「やばい、大地震でも来るかな」なんて言っていたほどだ。
中の下だった私の成績はだんだんと上がり、もうひと踏ん張りで上位に食い込もうとしていた。
「真理、すごい勉強頑張ってるんだな。目の下のクマが消えてないぞ。しかし、なんでまたそんなにやる気になったんだ?」
私は、日頃忘れていた祐樹の不幸を、本当のお母さんに会って改めて思い出して、祐樹は孤独な境遇に負けないでちゃんと頑張って生きているのに、祐樹のことをあまり思いやれなかったばかりでなく、ダラダラ甘えていた自分が恥ずかしくなったから、一生に一回は嫌な勉強でも頑張ってやろうという気になった、なんて本当のことは言い難いので
「なんとなくね、一生に一回は頑張ることがあってもいいかな、なんてね」
とごまかした。
祐樹は
「あまり無理すんなよ、真理は元気で明るいのが一番だからな」
と心配してくれた。
それだけじゃだめなんだよ、祐樹。人生にはたぶん、不幸や嫌なことや理不尽ながたくさん散らばっていて避けては通れないんだ。元気で明るく楽しいことだけして生きていくことは無理なんだよ。
心の中でそう思ったけど、口には出さなかった。
だって祐樹にはもうわかりきったことだと思ったからだ。
入試間近でやっと合格圏内に入り、そして合格。
後で「三組の奇跡」なんて言われたけど、自分の番号が貼りだされるのを見ても、本当のところあまり感動しなかった。試験の最中、十分に手ごたえがあり受かるような気がした。
でも、「ま、すべり止めの女子高もいい学校だしね」なんて言って、まるで私の合格を信じていなかった両親が泣いて喜んでくれたのを見て感動したぐらいだ。
初めて親孝行をした気がした。
それよりも感動してたのが祐樹だ。
一緒に発表を見に言ってたのだが、
「今までで生きてきた中で一番嬉しい」
と涙目で喜んでいた。明らかに自分の合格より私の合格を喜んでいたみたいだった。
私も祐樹と一緒の高校へ行けることは嬉しかった。
しかし、それは「難関の高校に合格できて嬉しい」と言う気持ちと同レベルであって、もちろん大好きな彼氏と同じ高校に合格出来て嬉しいという気持ちとはぜんぜん違う。
「一緒に通学できるね。嬉しい」
と礼儀上言っておいた。
しかし、その言葉に反応した祐樹の態度が気になった。
ちょっとまずいかも。
これが、そのときの私の率直な感想だ。
私たちは一緒に大きくなった半分家族なんだ。小さな頃は一緒にお風呂にも入ったし、本当のお母さんや今の両親への気持ちは誰よりも知っている。 これからも家族であり、仲間でありたい。
もし、恋愛してつき合うみたいなことになったら、別れるか結婚するしかないじゃないか。
今、この年齢でそんなことを決めたくはなかった。
いろんな人を見て、好きになったりして、冷たくされたら、以前のように祐樹に愚痴を聞いてもらいたかった。
そんな思いもあったのだと思う。
クラスの恋愛ブームもあったりして、他のクラスの名前も知らなかった男の子から告白されたときOKしたのだ。
その男の子が悪い感じではなかったっていうのもあるし、「私のことはあまり知らないはず。顔の趣味で選んだな」って思いが、かえって気持ちをラクにしてくれたように思う。
祐樹には言い訳のように
「男の子とつき合うってことを経験してみたくて」
と言い訳のように報告した。
堅物な祐樹に
「そんなの不謹慎。つき合うのは好きになってからでしょ」
と怒られるかと思ったけど何も言われなかった。
それから朝の電車でも祐樹と顔を合わせることはなくなった。
私はあのとき、祐樹を傷つけてしまったのだろうか。
別にその男の子が好きでつき合うわけじゃないし、みんなも、取り敢えずつき合うってことをやっているし、祐樹との仲が変に深まって今までの関係がなくなるのが嫌だと思って、気軽に告白を受け入れた。
しかしそれはすべて私の都合だった。
祐樹の気持ちを軽く考えていたと言われても何も言えない。
人を傷つけたら必ずしっぺ返しがくる。
数年後、私はそれを悟った。
明日の午後、僕は東京へ帰るつもりだ。
一人で暮らす郊外のアパートまで車で三時間。明後日は会社だから、午後に実家を出なければきつい。
なんとか明日の午後までに真理ともう一度会うことはできないだろうか。もし明日会わなければ後悔がずっと続くような気がする。
僕がこの家に預けられたばかりの頃、真理は毎日のように遊びにきてくれた。
お母さんと一緒にクッキー焼いたからと持って来てくれ、桃をもらったからと持って来てくれ、新しい絵本を買ったからと見せにくる始末だった。
それまで東京に住んでいた僕は、「さすが田舎だ」と面食らったけど、どんなに慰められたことだろう。
小学校に入ったばかりの頃はガキ大将から守ってくれ、少し大きくなってからは僕に頼ってくれることが嬉しかった。
高校に入って、何となく二人とも別々の人とつき合うことになって、それでだんだんと疎遠になってしまったけど、東京で仕事をするようになって思い出すのは真理との楽しかった子ども時代だ。
大学や会社でも友達はできたけど、真理のように深くかかわったヤツはいなかった。
いつしか心の奥まで人に見せることを止めてしまっていた。
適当に面白く、誠実で真面目であれば傷つくことはない。
女性に対しても同じだ。
「本多クンは何を考えているのかわからない」と去って行った女性が何人かいた。
全部をさらけださないことが大人になることなんじゃないのか?
と思ったりしたけど、告白してくれたからつき合っただけで、彼女たちを本当に好きにはなれなかったのかもしれない。自覚はなかったけど、心の奥底に真理がいたのかもしれない。
真理と再会して思い出した。
かつての自分は、本当に人と気持ちが通じ合うことができて、認められて、人間らしく生き生きとしていたんだということを。
そんなふうに生きることができたのは真理のおかげた。
その彼女が辛い目に合って、立ち直れないでいるのを放っておくわけにはいかない。
真理ともう一度会う方法がきっとあるはずだ。
過去の果たせなかった約束事? ない。
真理から預かって忘れていたもの? ない。
もちろん五年以上の月日を挟んだ僕等には、僕から真理に伝えるべきものは何もなかった。
電話が通じなければ、偶然の出会いを期待するしかない。
でも、仮に偶然に会えたとしても、また逃げるような目をされたら?
そもそも今の真理に僕にできることなんかあるのか?
いくら考えても答えが出なかった。
ええい! 走りに行こう。
もう十一時過ぎていたが、外に走りに出ることにした。ベッドの上で悩んで答えが出ないことでも、外を走ったり歩いたりすることで答えが出ることがあったからだ。
僕は着ていたTシャツとトレーニングパンツの上に、薄手のパーカーだけを羽織り、足を忍ばせて階段を降りて外へ出た。バラの香りが夜の闇に溶けて、都会にはない夜の空気を作り出していた。
実家で走るコース通りに、川べりへと向かう。まばらに建つ近所の家はどこもシンと寝しずまり、タッタッという足音が思いのほかよく響いた。
やや速めのスピードで走ったので、すぐに川べりの土手の下に着いた。
土手の上の道に続く階段を駆け上がる。
車が走ってない分、川の流れる音がよく聞こえる。向こう岸の町の明かりを見てちょっと安心する。
今度はややスピードを落として、土手の上の道を走る。もちろんこんな夜中に走っている人は他に誰もいない。
ベンチが並んでいる所に着いた。
よく真理と遊んだ所だ。
真理もこの場所を見て、僕を思い出すことがあったろうか? そうだ、もし真理もこの場所を僕との思い出の場所と思ってくれたら、今日、僕に再会してここに来る気になるかもしれない。
それに期待するしかないと思った。
もし、明日がダメでもこの場所は真理の好きな場所なはずだ。
きっとまたここで会える。僕はそう確信した。
つづく
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