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夕暮れの飛行機雲②(小説

記憶障害、ってほどでもないけれど、ときどき自分がどこにいるのかわからなくなる。
 立ち止まったときに、自分がどこへ行こうとしていたのかわからなくなったり、なぜ自分がこれをやり始めたのかわからなくなったり。まるで八〇才過ぎのおばあさんみたいだ。
 病院の先生は「一時的なものですよ。だんだんそんな症状は出なくなっていくので大丈夫。」と言っていたけど、一向によくなる様子はない。でも、どうでもいいや。未来なんかないのだから。
 つい外へ出てしまったのも、そんな症状のせいだ。
 だから、祐樹と顔を合わせないように、外へ出るのはやめようと思ったことをつい忘れてしまったのだ。
 散歩禁止にしたのを思い出したのは、川べりにあるベンチに座った時だ。
 ああ、そうだった。外に出ちゃいけなかったんだ。自分が忘れていたことにまた落ち込む。
 結構な幅のある川はゆったりと流れ、その向こうには田んぼ、さらには山々が連なっている。景色は初夏へと向かっていた。
 川面は太陽の光を受けてキラキラしている。
 毎日のルーティングだったし、仕方ないよね。落ち込みながらそう思って自分を立て直そうとした。そう思わなければ自分が保てない気がした。  ま、ここで祐樹に会うなんてありえるはずもないし。ドラマじゃないんだから、と自分に言い聞かせる。
 しかし、そのドラマのようなことが起こってしまった。
「よ、久しぶり」
 私がぼんやり川を眺めていると、背後で声がした。私はビクッとして振り返ると祐樹が笑顔で立っていた。
「わっ」
 思わず大声を上げてしまった。私の声に祐樹も驚き、ちょっと後ずさった。
「人を見てお化けみたいに驚くなよ。何ぼんやりしてるの」
「ああ、ちょっと散歩に来て、休憩中」
 祐樹は私の事情を家の人に聞いているかもしれない。気まずい。早く帰りたい。素足によれよれのサンダル姿も嫌だ。
「帰省してるんだね。母の日だから?」
「うん。毎年この日にしか帰らないけどね」
「親孝行息子じゃん」
 私は母にカーネーションを買ってなかったことを思い出した。
「まあね。でも、一年ぶりに親を見ると年々老けていくのがわかって悲しいというか」
「そんなことないよ。おばさん今でもきれいだし」
 隣のおばさんはうちの母と仲がよく、ときどきお茶をしに家に来ていた。
「さすがにきれいっていうのはアレだけど、笑顔がますますよくなったと思う。ほら、七福神に出ている神様で、大黒様?」
 私は噴出した。女性を大黒様に例えるなんてかわいそうな気もするけど、でも笑顔はそんな気がする。
「優しいもんね、おばさん」
 私は笑顔になる。笑ったのはいつの日以来だろう。
「うん、すごくね」
 祐樹はなぜかしんみりと言う。
「おばさん、今でもアップルパイとか焼いてね、ときどきおすそ分けしてくれるんだ」
「そうか。今は兄さんたち二人とも家にいないから、食べてくれる人がいて嬉しいかもよ」
「うん、私たち子どもの頃、アップルパイが好きだったよね。クッキーとかドーナツも一緒に作ったの、覚えてる?」
「うん、小さなエプロンしてさ、粉で真っ白になってさ」
「楽しかったよね」
 本当に楽しかった。もう何年も楽しいことなんかなかった気がする。そしてこれからも。
 やばい。涙が出そうになる。祐樹と話していると昔のことを思い出してせつなくなってくる。突然、涙なんか見せるわけにはいかない。
 話し込んだら、今の状況とか言わなきゃだよね、普通。
 無理だと思った。
 「ごめん、もう行かなきゃ。買うものがあるんだ」
 祐樹には悪いけど、今の私は本当に無理なんだ。ここまでの会話だったら何とかセーフだよね。とにかく早く別れなきゃ。ところが祐樹は
「つき合うよ。荷物持ちがいた方が便利だろ。明日までこっちいるし」
 なんて押してくるではないか。
「いいいよ。久しぶりに一人で駅前をプラプラしたいし」
 私はあわてて断る。
「俺、暇なんだけどな。一回帰って、着替えて隣町のショッピングモールに行くのはどう?新しいのができたらしいね」
「暇って・・・。おばさんにといてあげなよ。一年ぶりでしょ」
 物忘れの上にときどき吐き気もくる。こんな姿を祐樹に見せるわけにはいかない。
「そう?」
 私が猛烈に辞退するので、祐樹はもうそれ以上言わなかった。
「私、やっぱりもう少しぼんやりして行くから、先に言って。ジョギングの途中だった?」
 祐樹はサッカーの練習着のような上下とスニーカーだった。
「まぁ、一キロぐらいだけどね」
「うん、頑張って」
「じゃ、行くけど、ほんと大丈夫か? あの、体調とかさ」
「ぜんぜん平気だってば。天気もいいし」
 あまり答えになってないよね。とうより、私は見るからに病人みたいなんだろうかとショックだった。
 できたら、きれいに化粧しておしゃれした姿で祐樹と再会したかったな。でも、もう会うこともないだろう。
「気分が悪くなったら電話していいから。携帯持ってるでしょ」
 ああ、やっぱり私のことを祐樹は知っている。恥ずかしさがこみ上げてきた。
「うん、ありがとう。でも大丈夫だと思う」
「それじゃ、またな」
 心配そうな顔をしつつも祐樹は走って行った。走り慣れているようなしっかりとした足取りだ。そういえば、体つきも筋肉質でしまっていた。あの恰好からすると今でもサッカーを続けているのだろう。
 祐樹はちゃんと国立大学を出て、東京の大手旅行会社で働いていると母が言っていた。順調な人生だ。私とはぜんぜん違う・・・。
 昔の友達とは全部交流を絶った。なのに一番会いたくない人に会うなんて神様はいじわるだ。それに素足にサンダル。除毛もサボり気味だったし、もう死んでしまいたい。
 ズンと気持ちが落ち込む。抜け出せない落ち込みは五月になってさらにひどくなった。子供の頃は一番好きな季節だったのに・・・。何とか駅前の花屋にだけは行ってカーネーションを買い、家に帰って抗うつ剤を飲もう。私はそう思うと、沈んだ気持ちを奮い立たせるようにベンチを立った。
 
 川べりのベンチに行ったのは、なんとなく真理がいるような気がしたからだ。
 母さんの作った昼食で満腹になったお腹が落ち着くと庭に出て見た。家のまわりを何度も歩いたけど、真理が再び庭に出てくる様子はなかった。
 サッカーのトレーニング着に着替え、「ちょっとその辺を走ってくるよ」と母さんに言って出てきた。食事してからそれほど時間が経ってなかったから、本当は走るのはきつい。でも外へ出る口実が欲しかった。母さんは「若いっていいわねぇ」と言っただけだった。
 真理はやはりあのベンチにいた。
 白いワンピースの真理は、彼女には違いなかった。でも、5年前に最後に会ったときと比べて別人のように痩せてはかなげだった。ときおり吹くそよ風にさえ飛ばされるんじゃないかと錯覚するほどだ。僕は学生時代の明るく健康で、友だちがいっぱいいた真理を思い悲しくなった。
 僕がすぐ後ろに立つってもなかなか気がつかない。魂だけが別の世界にいっているかのようだ。
 僕は仕方なく
「よ、ひさしぶり」
とできるだけ明るく声をかけてみた。
 驚いたように振り向いた真理の瞳に懐かしさはなく、あるのは困惑だけだった。そのおびえたような目を見て、僕は悲しくなる。
 そして自分の鈍感さを恥じた。
 誰だって自分がきついときには昔の友達に会いたくはない。
 まして、僕と真理との関係は友達以上だ。と言っても、恋人未満とかそういうのでもないけど。肉親と友達が混じった感じ? とにかくかけがえのない人だった。たぶん真理の方でもそう思ってくれていたと思う。
 昔は、例えば一緒にベンチに座っていて、何も話さなくても苦にならなかった。一緒の部屋にいて何時間でも別々の本を読んでいられた。
 それが今はどうだ? 一生懸命に言葉を捜すんだけど、どこかギクシャクして、真理を傷つけないように選んだ言葉が空回りするだけだ。
 もっと元気づけたい、辛いことを聞いてあげたい。でも、五年の月日がそれを邪魔した。そして真理も僕の心づかいなど望んでいないことが痛いほどわかった。
 ダメ元で買い物に一緒に行くことを提案したけど案の定断られた。今は何を言っても無理だろう。僕は一旦引くことにして、
「それじゃ、またな」
と走り出したのだ。
 土手を軽く走りながら、「僕にも何かできることがあるはずだ」と一生懸命に考える。
 明日は二時間半かけて東京に戻らなくてはならず、戻ったらまた忙しい勤務が続く。ときには北海道や九州に出張だってある。それでも、きっと僕は何かできる。いやしなくちゃいけないんだ。
 だって真理は僕のために泣いてくれたんだから。それがどれだけ幼い僕の救いになっただろう。
 そうだ、あのベンチだった。
 小学校の二年生だった僕たちは春の遠足が終わって、家に帰るところだった。いつもは集団で並んで帰ることが多かったけど、その日は隣町の動物園のある大きな公園に遠足で、学校にバスは着き、解散となった。
 僕たちはキャラクターのついたリュックと水筒を下げ、体操服という格好だった。
 今年一番の暖かい日だった。
 昼間、公園ではしゃいで遊んだ僕等はかなり疲れていた。そんなわけで土手のベンチで休んでいこうということになったんだ。
 川べりは大きな赤い太陽が今にも沈んでいこうとする時間で、真理と僕の顔は真っ赤だった。
「動物園、楽しかったね」
「うん、でもみんなずっと閉じ込められてちょっとかわいそう」
 ときどき大人みたいなことを言う真理はそんなことを言ってたと思う。
 真理が水の水をコップについでくれた。僕はそれを飲む。
 すると涙がつぎつぎにあふれ出して止まらなくなった。
 その涙のわけは自分でもわかっていた。
 その頃の僕は、体は軟弱だけど幼いながらに「男は弱音をはいちゃいけない」みたいな気持ちがあって、普段は明るく元気にふるまっていた。でも、ときどき普段の我慢とか辛さが一気に押し寄せ、涙が止まらなくなるのだった。
 母さんは僕を預けたまま何故連絡もくれないのだろう。一五歳になれば会えるっていうけどどうしてなんだろう。新しい旦那さんと結婚して子どももいるのかな。学校のみんなは父さんと母さんがいるのに何故僕にはいないんだ?僕は生まれる前に何か悪い事をしたんだろうか。
 ときどき、そんな気持ちが入り混じって誰にも見つからないように僕は泣いた。たぶんいつも、その前に何かきっかけがあったはずだが、よく覚えていない。
 でもその時は、昼間遠足で、一年生の大勢の父兄たちを見たからだったかもしれない。そして夕日が哀しそうに見えたせいかもしれない。
 とにかく、僕は真理の前だったけど、恥ずかしい感情は忘れて思い切り泣くことにしたんだ。
 泣き始めて、僕は驚いた。驚いて泣くことを忘れたほどだ。
 なぜって、隣に座っている真理が僕より大きな声で泣いていたからだ。真理は大きく口を開けて、顔も隠さず大きな声で泣いていた。大きな涙の粒がポロポロと頬を伝っていた。 
 僕はしばらくあっけにとられて真理の顔を見ていたけど、また一緒に泣き出した。
 そのときの感情を今でも覚えている。
 真理と気持ちの奥底でつながったような温かい気持ちだ。そして僕は嬉しかった。何も言わなくても真理が僕の寂しさとか辛さを全部わかってくれたような気がした。
 嬉しくて、僕はまた泣いた。
 すぐに近くでジョギングをしていたおじさんや犬を散歩させていたおばさんがあわてたように走り寄ってきた。きっと迷子だったと思ったんだろう。
 僕たちは何とか家がすぐ近くであること、喧嘩もケガもしてないことを説明し、家に帰った。
もちろん手を繋いで。
 真理の手はいつものように温かだった。
 二人とも、そのときのことを後で話すことはなかった。
 でも、そのときから僕に巣くっていた寂しさは半分になったような気がした。家でも学校でも「親のいない半人前の人間」だったのが、やっと普通の一人の人間になれたような気がした。
 真理が泣いてくれたから僕は生きてこられたと思う。

                       つづく
 
 
 
 

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