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マジック感想 「第17回 Untitled Concert 一筋の虹」—学生マジックから考える魔法の制限―

はじめに

数年ぶりにアンタイを見に行くことができたので、感想を残しておきます。

まずはこのコロナ禍の中、生でマジックを観る機会を作り、守り通して頂いた運営の方々、ゲスト含む演者のみなさんには感謝、感謝という気持ちです。ありがとうございました。

感想は、個々の演者についてというよりは、久しぶりに学生マジックや世界で活躍されているゲストの方々の演技を拝見して、マジック自体について思ったこと少しを書こうと思います。

エンタメとしての学生マジック

数年前までいわゆる学生マジックに触れていた私でしたが、
舞台やライブ、映画、ゲームなど様々なエンタメに浸ったのちに
改めて触れると、学生マジックって文化なんだなぁ、と思いました。

学生マジックは、代々受け継がれるマジックの基本を踏まえたうえでの型なんだと改めて捉えられました。
これはステージマジックを学んでいく上では基礎になるもので、
演者としては学んでおくべきものだと思う。
個人的にこの舞台の立ち振る舞いは好きだったし。

ただ、エンタメのジャンルごとに様々な文化や型はきっとあるんだろうけど、学生マジックは一般の人が触れるには少し壁があるというか、独特さがあるというか…。

仮に非マジシャンの一般の友達に何か遊びの提案をするとき、
演劇や音楽ライブなど他の選択肢と学生マジックを並べたときに、
素直に違和感なく楽しめるか、という視点で学生マジックを捉えると…。

この感覚をもってマジックを観ることができたという点で、
良い機会になりました。

第二部のゲストの方々は、学生マジックの型から離れた自由さの中で
演技をされているように感じられ、素直に友達にも見てほしいなぁ、と思えるエンタメでした。

目的から手段へ変わる(?)学生たちのマジック

奇術部やマジックサークルに入るときって、きっと多くがマジックをしたいと思っていたんだと思う。当初マジックは目的だったはず。

ただ、仲間内で切磋琢磨したり、外部の舞台や活躍するステージマジシャンを見ていると、マジックをすることは前提として、どんどんマジックを使ってほかの何か(物語やテーマ)などを表現しようとしていく。
(実際にそうした演技ができる人が評価をされているように感じるけど、どうなんだろう)

こうなったとき、マジックはいつしか手段になっている。

仮に何かを表現する手段としてマジックを考えたとき、
マジックにはかなりの制約があるように思う。

仮に失恋の物語をマジックで表現するとしたとき、
マジシャンの武器は、一般的にはカードやボールや手紙になりそう。
カードでハートを作ったり、手紙が紙吹雪に風化してしまったり。

ただし、物語の場面を作る現象を思いつくのも難しいし、それを具現化するスライやギミックの力はかなり要求されると思う。
実際のところ、自分の手持ちのギミック知識やスライの範囲からどうするかを考えるところが大部分な気がする。
そして仮にその現象が実現しても、実際の機能については要検討…。

時間も10分以内の作品になると思うし、必然的に構成できる展開は短くなる。
(一時間を超える長編公演をしてもいいけれど、真に物語を語ろうとする場合、それは演劇のジャンルになってしまう気がする)

数ある制約の中でも、個人的に最も難しい問題だと思うのは、
物語を語ることを目的とした場合、マジックでそれを語ってしまうと、不思議な現象が起こるたびに物語の没入から抜け出してしまうということ。

物語を語るマジックをするとき、仮に拍手が入ったとすると、それは観客が物語から抜け出して「マジック」を楽しんでいるサインと解釈できてしまうかもしれない。

もしマジック以外の方法で失恋を表現するなら、切ないコード進行とアレンジを施した音楽を作ってもいいし、500ページ以上の大長編小説を書いてもいい。ほかのジャンルもそれなりに制限はあると思うけど、マジックで物語を表現する苦しさはきっと大きんじゃないかなぁ。

以上のことから、マジックを見せることを目的にしないマジックの場合、
マジックは手段として非常に厳しい制約があるんじゃないか
、と思いました。

そういう意味では、(解釈や感動は観客それぞれのものだけれども)、
Lukas先生の演技はやはり「マジックのためのマジック」を極限まで研ぎ澄ました点で価値があったのかなぁ、と思いました。
やはり、マジックで最も効果的に伝えられるのは、不思議なんだろうなぁ。

そして、Cheol-seung Choiさんの演技は、手段としてのマジックを違和感なくテーマに溶け込ませていた点で、素晴らしかったなぁ、としみじみ。

実際、マジシャンの多くはマジックが好きだし、物語の表現を目的にマジックをやっているわけではないと思うけど、「手段としてのマジック」をことばにして捉えておくメモでした。

学生マジックは、マジックのためのマジックなんだけど、
何を表現するか選択する段階ではない、たまごの段階なのかなぁ。

複数公演できないマジックというエンタメ

大人になってしまったので、お金のことを考えてしまいました。
コロナ対策で座席数が半分になるとして、複数回公演をして収益を得ることは可能なんだろうか、と。
(追加予算や人員、準備などは全て度外視して、です)

ステージマジシャンが選びたい放題で、マジシャンたちみんなが複数のアクトを持っているなら別だけれど、
少ない演者でアクトを1つか持っていないマジシャンたちで複数回公演すると、かの有名なサーストンの三原則に違反してしまう。
(サーストンの三原則は出典が…という方はこちら↓)

同じマジックを複数見せることの是非については改めて考えたいけど、
観客がタネを追おうとすることは、マジックの核に迫られるリスクになる。

マジック自体が本質的にもつ不思議を失うリスクを背負ってまで、
同じ演技をするのかと考えると、マジシャンはどう動くんだろう。


収益面ではリピーターは必要になっていくけれど、
マジックの本質からしてリピーターができてしまうことは、
リスクなんじゃないかなぁ。
ビジネスってムズカシイ…。

おわりに

生でマジックを観ると、毎回考えることができて楽しい。
マジックの複雑な事情が絡むこの構造が、考える対象としてずっと魅力的。

考えることはもちろんだけど、それはそれとして生で見る演技は良かったなぁ。

ありがとう、アンタイ!






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