noteを始めたただ一つの理由

noteにも少し慣れてきたので照れ臭いが真面目な記事を書いてみたいと思う。

「本音をぶちまけるリハビリ」

それがnoteを始めた最大にして唯一の理由だ。

なぜそう思うに至ったか。
お恥ずかしながら、すこし私の人生の振り返りにお付き合いお願い申し上げます。

部活のキャプテン。委員長。リーダー。
学生時代を振り返ると私は絵に描いたような

「いい子で優等生」

タイプだった。
運動神経も悪いわけでもなく、勉強もそれなりにできる。特に人見知りでもなく、人当たりも自分で言うのは変だが悪くない。
幸か不幸か、「できてしまった」のだ。

「あいつに任せたら大丈夫!信頼してるからな!」
「リーダーとして引っ張ってもらいたい」
「やればできる子なんだから」
「あいついいやつだよな」

ほんとはやりたくない役割でも気づいたらそのポジションにいた。
信頼してる、お前ならできる。
そう言われるとその当時の僕は断ることができなかった。断ると自分の価値がなくなっていくようなそんな気がして。
その名残か今も何かを断わったり、さぼったりということが苦手で謎の罪悪感を感じる。

「これやっとけば親は喜ぶんじゃないか」
「ここ真面目にやっとけば先生に褒められる」
「おれはキャプテンだからしっかりしなきゃ」
など誰かの期待に応えることで自分を保っていた。気づいた頃には自分が何をやりたいか。それがわからなくなっていた。ずっと蓋をしてたら中身がわからなくなってしまっていた。
誰かの期待に応えるため、その役割のイメージから外れないように、窮屈さを感じながらも必死にその役割を演じていたことを今でも思い出す。
そして、そんな生き方をしていると困るのが人生の舵取り、「進路選択」だ。

大学受験、就活など人生は選択の連続。自分にとって最良の道を進むべく皆頭を悩ますところだ。しかし、私にはわからなかった。
自分が何者で、何がしたいのか。わからなかった。そんな不安な気持ちすらだれにも相談できなかった。
弱音を吐く=ダメなこと
何がしたいかわからない=恥ずかしいこと
こんな方程式が自分の中で成立しまっている私は、誰といてもなんか満たされず、どこか孤独だった。
そんな私が岐路に立ち、行った選択。それは「周りを喜ばせるため」の選択である。まわりが期待するであろう道を落胆させないように歩んだいった。

大学はスポーツ推薦で比較的知名度が高い大学に入学。「ここだったらだれも文句ないし、親も鼻が高いだろう」

就職は地元の大手金融。
「ここだったら皆良く思ってくれるだろうし、変に思われることはないだろう」

という選択をした。
自分よりも誰かのために、自分で勝手に思い描いた優等生イメージを守るため、そして自分の薄っぺらいプライドを守るための選択だ。
その選択が何をもたらしたか。
それは「挫折」である。

大学までは大丈夫だった。
ずっと練習してきたハンドボールという競技。周りの期待に自分で描いた理想像に、どうにか答えながら過ごすことができた。

しかし就職は畑違いの金融系。
惰性で就職したため情熱もない。そしてぶち当たる「できない」という壁。
今まではなまじ
“できてきてしまった”ため、できずに怒られて思い描いた自分とはかけ離れてるカッコ悪い自分を正面から突きつけられた時に戸惑いぐらついた。

人はできない壁にぶち当たった時
理想像と現実のギャップに気づく。そしてそのギャップをまず受け入れる、つまり

“ダサいかっこわるい自分”

を許容してそのギャップを埋めるために努力する。それが堅実な成長のプロセスだ。

初めての分野、初めての社会人生活、うまくいかないことなんて当たり前なのだが、
この“ダサいカッコ悪い自分”
受け入れずに現実に蓋をしてしまった。それがもたらしたもの。挫折である。私は心を病んでしまった。うつ病である。
職場にいけず、お布団とお友達になる日々が続いた。誰からの連絡を返すこともできず通知は100件を夕に越えていた。
現実を直視するのが怖くて、かといって弱音を吐いて誰かにSOSを出すことすら出来ず、死にたいというよりも、存在すらなかったことにならないかなって思ったり。その時を一言で表現ですると「絶望」である。

余談ではあるが、竹原ピストルさんが以前結成していた野狐禅というバンドの曲「拝啓絶望殿」がこの当時の自分と非常に重なる。その中の一節の
“どうせ死んでるようなもんだろ、今更死ぬ必要もねぇだろ”という歌詞が好きだ。
心に突き刺さるストレートな歌詞。なのに心に届く暖かいメッセージ。辛い時、絶望した時にこそ聞いてほしい名曲だと私は思う。

話を戻そう。そんな絶望君に憑依されていた私を立ち直らせてくれるきっかけはある先輩がくれたある言葉だ。啓発本をたくさん読んだがそのどんな言葉よりも心に響いた。
その先輩に足を向けて寝れないほど感謝しているのだが、そのエピソードは私の宝物なので一つの記事として大切に書きたいと思っている。

まあなんだかんだ、紆余曲折があり少しずつ立ち直った私は今、全く別畑のフィットネス業界で働いている。その経緯もまた記事したいとおもう。
「おいおいおい!次の記事の引っ張りまくってアニメやドラマのCMみたいなことしてんじゃねーよたこなすび!!」ツッコミが入りそうだが、記事が長くなり過ぎそうなのでご愛嬌ということで。

そんな経験の中で学んだことは、

“本音に蓋をしてしまうと発酵して爆発する”

ということだ。いい子いい子を演じるあまり本音に長いこと蓋をすると、発酵して自分でも何かわからなくなる。

じゃあ本音でいけばいいじゃん!!

それは頭ではわかっているが、長年付き合ってきた私という性分はアンパンマンの頭のようには簡単にすげ替えれない。

今ですらすぐいい奴になろうとするし、嫌われたり拒絶されたりすることが怖い。建前を優先するあまり本音がわからなくなることも多々ある。

だから私に必要なのは

“リハビリ”

である。いきなりプールに入ると心臓がびっくりしちゃうのと同じで、いきなり本音で生き始めたら心臓がびっくりしてしまう。
現実世界では建前で生きて、ノートでは忖度せず本音を書く。このnoteを始めたことは本当に誰にも言ってない。批判が怖いからだ。
ヘタレな私はヘタレなりのやり方でリハビリを進める。

皆さん、巣立つ小鳥を見守る母鳥のような気持ちで見守っていただけると幸いです。

ではまた。

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