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春の別れ

3月の終わり、父が他界しました。
87歳 年齢からすると“早すぎる別離”とまでは言えませんが
父の死は突然やってきました。

父は私には事細かくあれこれ指導するようなことはありませんでしたが、
自分の姿で生き方を示してくれた師であり、
私の尊敬する人でした。

父が亡くなり、気持ちの中で整理することがいろいろとありましたが、
半月が経ち、少し落ち着きましたので、
父が最後の別れを通じて教えてくれたことを
振り返って書き留めておこうと思い、キーボードに向かっています。

ここで書きたいと思うのは、悲しいという感情とは別のことですので、
できるだけ事実を淡々を書き、そこから学んだと思われる事柄を、
書き始めた今でも未だうまく表現できる自信はないのですが
それでも言葉に表してみたいと思います。

コアラ!でお馴染みの元気者の父は85歳になっても、まだまだ元気で、
『コロナが収束したらまた旅行にでも出かけよう』
などといっていたのですが、
1年半くらい前にふとしたことで脊椎を傷め、
思うように動けなくなってしまいました。

その脊椎の圧迫骨折の治療で通院した時に顔色がひどく悪いということで検査を受け、胃がんが見つかったのです。


回想

ここから回想に入りますが、まずは登場人物を整理しておきます。

ここでの登場人物名と『普段のnoteでの名前』との関係、“補足事項”です。 

 私 『トトム・クルーズ』 
 父 『パパトトム=コアラ!の父親』 父親
 母 『ママトトム』 母親 小さい 
 妻 『銭ファー・コネリー』トトムの奥さん、
 娘 『ポコぞう』トトムの娘 美しく成長した少女
 兄 『初登場』 3つ年上で実家近くに住んでいる。
 義姉 『初登場』兄の奥さん
 姪 『初登場』 兄の長女、甥にとっての姉、娘の姉貴分
 甥 『初登場』 兄の長男、姪にとっての弟
 
  

父は昨年11月にがんの手術を受け、12月には退院して自宅で療養していた。決して快癒しての退院という訳ではない。

胃がんを摘出するする手術であったが、
開腹して初めて胃の周りのリンパ腺や膵臓への転移が見つかり、
すべてのがん細胞は切除しようのない状態となっていた。

それでも貧血の原因となる出血を起こしている胃の病巣は
胃の8割もの摘出部位とともに切除したのである。

術後の余命は3か月と診断されたが、
さすがに手術直後に落胆させることはできないので
父には一旦”手術はうまくいった”と伝えられた。

余命宣告が必ずしも当たるとは限らないが、
いずれにして残された限りある時間を悔いなく過ごすためには、
頃合いを見て事実を伝えなければならない。

これは家族が悩む大きな問題で、何度か兄、母、私とで話をしたが
はっきりと時期を決めることはできなかった。

胃の切除による術後の負担が小さくなり、父が退院した12月、
まさにコロナ第8波に差し掛かったタイミングであったが、
自主PCR検査をして、私は実家に帰り父に会うことができた。

父はもともとの背骨の痛みと、手術による体力の低下で
歩くこともままならない状態だったので、
家には電動式介護用ベッドや、玄関から廊下のあちこちに
手すりが備え付けられている。

父は入院中自分の口からは食べることがほとんどできず、
腸瘻での栄養補給のみであったので、
自宅では母が腸瘻の手順を覚えて施さなければならない。

しかし父は自宅に帰ることが出来、
『ゆっくり療養して必ず健康を取り戻すんだ』
という気持ちが強くなったのだろう、
少しずつ自分の口から食べ始め、
いろいろなことにも意欲が出たようであった。

その後、新年を迎えてもコロナ禍は続いており、
なかなか帰省することは出来なかった。



兄からの電話では、父には既に
がんの病巣が残っており、緩和ケアを行うことが伝えられた
ということだったが、
2月に入ってもバレンタインデーで娘から送ったチョコがおいしかったと
電話で話す父の声には張りがあり、少し安心していた。


前ぶれ

3月24日、母から電話があった。
最近は徐々に体力が落ちてきており、食べることも少なくなっているので
できるだけ早く一度家に戻って父に会ってほしいという話だった。

翌日は土曜日だったので、少しでも元気があるうちに
孫の顔を見せてあげたいと思い、妻と娘と一緒に実家に帰った。

父は声がほとんど出せなくなっていたが、喉から絞り出すような声で
娘が『きれいになった。』と喜んでくれた。

高校の入学祝いもベッドに横たわりながら父自身の手で娘に渡してくれた。

12月に私が帰った時とは全く違って、
体力が落ちているのは明らかだったが、
それでもまだ残された時間はあると思っていた。

3月30日(木)

朝、 昨夜兄から届いたLINEに気付く
そこには”父の主治医にこっそりと聞いたところ、
余命1カ月程度といわれたので、
今何ができるわけでもないが、
心積もりをしておいてほしい”と書かれていた。

12時再び兄からLINE。
父の容態が悪化して入院。
残された時間はそれほど多くなさそうなので、
早めに会いに来るようにとのことで、
病院へ面会予約を4月1日土曜日 14:00から15分間しているとのこと。

土曜日ではなく、明日金曜日に休暇を取って帰ると回答し、
病院へ面会の予約変更をお願いする。

23時 兄から電話。
父の容態が急変したと病院から電話があり、
病院へ向かっているところだと。
私も明日始発の新幹線で帰ると連絡。

23時45分 兄からのLINE
父が23時28分に息を引き取った。父の遺体は自宅に連れて帰る。


3月31日(金)

始発ではないが、朝のうちに到着するように新幹線に乗る。
在来線に乗り替え、車窓からつい1週間前にも見た
故郷の風景が目に入る。

まだ4月になっていないのに、今年はもう桜がほぼ満開で、
淡いピンクが明るい陽射しのもと、輝いているように見える。

明るい性格であった父を送るかのような日よりである。

末期のがんであったことから覚悟はしていたが、
あまりに急な死であるという思いが、頭に何度も浮かぶ。

自宅に着くと、菩提寺の住職が到着しており、
父に『ただいま、遅くなりました』とゆっくり声を掛ける間もなく、
枕経をあげてもらう。

もう少し早く家を出ればよかった。

午後から葬祭会館の担当の方がやってきて、
通夜、葬儀の打ち合わせをする。

家族葬 通夜は4月1日、葬儀は4月2日

日程未定と昨日聞いていたのだが、『お日柄』(六曜)の関係なのか、
会館の事情なのか思ったより早い。

礼服を持ってきていてよかったが、
娘の入学式が4月1日なので、妻は娘と入学式に出席してもらい
4月2日の葬儀から参列することにする。

事前に家族で会議していた。
『家族葬であっても、会館に勧められるまま、
オプションなどを決めていくと葬儀代が高くなるだけで、
故人が喜ぶとは限らない』というのが、
やはりがんで昨年亡くなった義姉の父の葬儀準備を経験した兄の話。

しかし話し合って、残された母の気持ちも汲み取りながら
葬儀の内容を決める。

納棺の際に湯灌をするかどうか、
選び、骨壺選び、
祭壇の基本構成や枕花花輪などの追加が
葬儀代に関係する。

あまり風呂が好きではなかった父の事を考え、
湯灌はやめ、納棺の儀だけにする。

棺、骨壺などはできるだけのことをして父を送りたい
という母の気持ちと、
『お金を遣うべき時にはケチらず遣う(お買い物が好き))』
という父の性格も考えて、質素過ぎないものにする。

おそらくこれで20万円くらいの差がでる。

それ以外にも葬儀費用にはかかわらないところで
いろいろと決めたり、準備することがある。

祭壇の花の色を選ぶ
葬儀の時に流す音楽を父の好きだった曲から決める、
葬儀の最後に映写する父の写真を選んで事前に会館に渡す、
等である。

兄は実家近くに住んでおり、
これまでの父や母の世話、
今回の緊急入院から臨終にまつわる対応、
葬儀では喪主を務めることなどで、精一杯なのだろう。

なかなか細かいところまでは手が回らないようなので、
葬儀の準備で私が自分の出来るだけの事はしようと思う。

祭壇の花
父はいろいろと植物は育てていたようだが、
日曜大工ほどは得意ではなく、好きな花の色と言われても
家族の誰一人わからない。

少しでも明るく送ろうと白を基調に、オレンジや黄色にして欲しい
とお願いした。

写真選び
15枚程度の写真を選ぶということだが、
私が家に到着した時には最近の写真が5枚くらい
アルバムから抜かれていた。

担当の方に聞くと、アルバムに貼り付けられている
古い写真でもアルバムごと渡してもらえれば、
スキャンできるとのこと。

枚数も20枚程度まで増えても問題ないので、
父の子供時代から年代を追って選んでもらえれば一番良いと
いうことであった。

最近の旅行や家族みんなで写した写真のみでなく、
古い父のアルバムを探す。

生誕地、中国青島での子供時代。
父が初めて買った背広を着て、父の母と二人で写っている写真。

若い頃の父は意外にイケメンで、
アイドルっぽいポーズで友人と映っている写真は
私の知っている父からは想像できず、おかしく思う。

その友人とともにサングラスを掛けてバイクに跨る
いなせな父の写真も入れておこう。

それからまだ小さい私を腕に抱きかかえ、兄と3人で写った写真。

家を建て替えて新築にするということで、その間住むために
近所に借りた玄関もない小さな借家、その上り口に座り
満足気に写る父の写真なども選んだ。

選曲
葬儀の合間にエレクトーンで生演奏するということで、
楽譜が見つかればどんな曲でも演奏できると、
父が好きだった曲を聞かれる。

急に言われると母も兄も思いつかないようである。
父が良く歌っていた歌は、子供心に聞き、私も覚えている。
というよりも今でも、食後のお皿洗いの時などに
私はよくそれらの歌を口ずさんでおり
妻からは『あなたはいつの時代の人?』と言われるが、
既にこの歌は一緒にお皿拭きをしている娘にも
耳からしっかり伝承されているのである。

ただ急な事なので、その歌がなかなか思い出せない。
少し考えて、まずは石原裕次郎の『錆びたナイフ』が心当たる。

『葬儀までまだ時間がありますので、もう少し考えてみてください』
とのことであったが、その日は思い浮かばず。

それにしてもエレクトーン奏者の人は、どんな楽譜でも
ほぼ初見で弾けるのであろうか?と妙に感心する。

通夜が終わった後に、祭壇の父の遺影を見ていると
父の好きだった歌をいろいろと思い出す。
星影のワルツ』、
題名は思い出せないが、♪小学校の運動会、君は一等、僕はビリ
という歌。

会館の人にこの歌詞を歌って伝えるが、わからないという。
こんな時はスマホ。

検索すると一発で『おさななじみ』(デューク・エイセス)と
動画がヒットする。

恥ずかしい思いをして下手な歌を歌ったのは何だったのだろうかと
チラと思う。

葬儀は翌日の11:00。
奏者の方にはギリギリで申し訳ないが、この2曲を思い出せてよかった。

その代わりといってはなんだが、
その日の夜は母、兄一家、私で一緒に食事をした筈なのだが、
どのように過ごしたのか、何を食べたのかが一向に思い出せない。

4月1日(土)

10時から納棺師の方がやってきて、父の遺体を整えてくれる。
父は亡くなった時の苦しむように口が開いたままの死に顔であったが、
納棺師の方が丁寧に口を閉じて表情や髪を整えると、
微笑んでいるような顔に変わる。

これで家族みんなが救われたような気持ちになり、
納棺師の方への感謝の気持ちが沸く。

つづいて納棺師の方を手伝い納棺。

お年寄りは死後硬直していなくても、
腰が曲がっていたりするので仰向けに寝かすと肩の位置が高くなり、
首が後ろに反り返らないようにするためには
枕がとても高くなってしまう。

そうなると棺の蓋が閉まらなくなったりするので
腰の下にタオルを敷いて腰をそらしたりと、いろいろと工夫して
自然な仰向けの姿にしてくれるのだ。
棺にご遺体を納めるにも、それほど気を遣わないといけないとは
知らなかった。

姿勢が決まると、柩に父が気に入っていた背広を納める。

私は製造業なので仕事に行くとき基本、背広は着ないのだが、
営業職の父はいつもきちんと背広で会社へ行っていた。

また一緒に行った旅行にもかぶって来てくれたお気に入りの帽子
好きだったカンロ飴昆布茶も入れておく。

故人の尊厳を保持するために、遺体に対して最大限の配慮をする
納棺師の方に対しては“ありがとう“という気持ちに尽きる。


その後、どうしても父へのお別れをしたいとい近所の人が訪ねてくる。
急な事で気落ちしている母も、
心からのお悔やみの気持ちを持って訪ねてくれる近所の人と、
父の亡くなる前日の様子などについて話すと少しは気が紛れるようである。

しかし、ふとした拍子にハッとして
『(火葬まで終わる日曜日の次の日である)月曜日にはお父さん、いないんや…』とつぶやく母が少し心配である。

15時には柩が一足先に葬祭会館へと向かう。

家の前でクラクションを鳴らして車が出発する。
ご近所迷惑にならないように軽く鳴らすということであったが、
結構長く鳴っているように感じた。

通夜
17時 通夜の1時間前に全員葬祭会館へ到着。

祭壇は、お願いした通り明るい色の花で一面覆われている。
子一同からの枕花、孫一同からの花輪も並び、花に囲まれた印象
その前に置かれた柩も華美ではないが、
花に見劣りしないものにしてよかったと思える。

祭壇に飾られた遺影は、
10年前の金婚式に写真館で写した記念写真を加工して使用。

父の生前、母が片付けをしていて押し入れから出てきた記念写真。
お堅い記念写真を撮る時には笑顔にならない父にしては、
口元が緩んでいる写真で、
母はこれを見つけて、『これが遺影に良いのでは?』と
父に正面切って訪ねたというので少しびっくり。
父は『おう、それでええな』と穏やかに答えたらしい。

遺影の背景は満開の桜としてくれており、
昨日電車から眺めた風景を思い出し、
桜が父を送ってくれているという気持ちが再び湧き上がる。

通夜は母、兄一家4人、私の6名だけで、
式場の広さ(同日の葬儀が多くこじんまりとした部屋が
使えなかったらしい)や
花でいっぱいの祭壇の明るさと比べると、参列の人数が少し少なく感じる

葬儀は家族葬であるが、どうしても参列したいという
親戚近所の方が数名来訪される予定なので、
家族葬にもかかわらず、参列くださる方がいて有り難いと思う。

明日は私の妻と娘もかけつける。

通夜は滞りなく終わるが、どうしてもお焼香の手順など
しきたり的なことに気を遣ってしまう。

私は今まで知らなかったのだが、通夜の後、棺は”家族控室”に戻り、
故人は次の日の葬儀まで、控室に泊まる家族と一緒に過ごすものらしい。

いや家族が故人に寄り添うために、葬祭会館に泊まるというべきか。

会館の控室は思っていたよりずっと広くて居心地の良い部屋であり、
心身ともに疲れている遺族にとって、負担が少しでも軽減されるよう
心配りされている。

母と私の二人が控室に泊まるが、通夜の後、家族全員が控室に戻り
しばらく話をする。

会館からは父に向けた色紙手紙が書けるように台紙や便箋、封筒を
用意してくれているので、
まず姪が色紙にお別れの言葉を書く。

22年間ありがとう。おじいちゃんにもらったデジカメで
いっぱい写真を撮るね。”

実家の近くに住んでいるので、生まれた直後から頻繁に実家に来てくれているのだ。

続いて甥が、お姉ちゃんに倣って、その横に書き始め、“2…”『あっ!』

それを見て姪が『お前、20年も生きとらんじゃろう!17歳なんじゃけぇ』
と突っ込む。

つい書き出しまで、お姉ちゃんの真似をしてしまったのだ。

銀行の口座開設申し込みを書く時に見本を見て書いていると、
自分の名前を見本の“広銀太郎”と書いてしまうミスと同じである。

甥は『“20”まで書いとったら終わっとった!』といいながら、
2を良い塩梅に7に書き換え、その前に1を書き足す

私も色紙に書く。明日朝到着する娘にも書く場所を開けておくこととする。

金曜日から母とずっと一緒にいてくれた義姉、姪、甥が先に帰宅し、
兄が控室に残ってくれている間に、
私は母を連れてコンビニでおにぎりやお弁当を買ってから、
一旦実家に戻って食事を摂る。

実家で風呂に入ってから会館へ引き返す予定であったが、
控室の浴室のほうが広くて快適そうだったので方針を変更、
食事が終わると宿泊に必要なものを持ってすぐに会館へとトンボ返り。

会館と実家は車で10分くらいの距離であるが、
ちょうどその中間あたりで、母が化粧品を忘れたというので、
一旦引き返す。

再び会館へ向かう途中で、今度は父が好きだったコンピュータの本も家から取って来ればよかったと母が思いつく。

明日最後のお別れで柩にいれてあげたいということである。

『ではもう一度家に戻れば良い』と言うが、
会館にいる兄をあまり待たせたくないと兄にも気を遣うので、
そっちの気持ちを優先して会館へ戻る。

控室で待っている間に、兄も父を送る言葉を色紙に書いていた。
兄が自宅に帰った後に母はそれを読み、涙ぐむ。

あれっ?さっき、私の、父との思い出を書いたさよならの言葉を読んでも、
へーこんなことがあったの
とか言って全然泣かなかったんだけど。

母は色紙ではなく手紙を書くことにして、
母と私、二人だけで静かになった控室で机に向かう。

私も色紙の小さなスペースでは父への思いを書ききれないので
手紙も書くことにする。

しかし控室に電動マッサージ椅子があるのも気になる。
母が寝た後に、マッサージ椅子を使うと作動音が気になるだろうから
母がまだ起きて手紙を書いている間に、まずマッサージ椅子を使う。

手紙は母が寝た後に、和室とは障子で仕切られた間取りにあるテーブルで
落ち着いて書くこととしよう。


手紙には『プラモのキオク』でも書いた子供の頃の思い出や
父から掛けられた言葉、父の姿から学んだことなどを書く。

便箋2枚では少し書きたりないが、もう用紙がないので2枚にまとめる。

小一時間ほどかかって手紙を書き終え、風呂に入って休む。


4月2日(日)

朝、母は5時に目を覚まし、
線香の切らさないようにしながらも、柩の父に話しかけている。
自宅にいる時から、父の物言わぬ顔に自然と話しかけてしまうようである。

私は寝ている(が、声は聞こえている)ので、
これが父と母二人だけで過ごす最後の時間である。

『お父さん、なんで勝手に逝ったん。』
『ちょっと笑ってみなさいよ』

60年間一緒に過ごし、特に手術後の4か月間は
1日中父の世話をしてきた母にとっては、
急な死は受け入れがたいし、実感がないのであろう。

話かけ終わったタイミングを見計らって、私も布団から出る。
母が昨日書いた自分の手紙を読むか?と言うので読む。

そして私の手紙を読んでも良いかと言われると、
ダメとも言えないので、『どうぞご自由に』と答える。

普通ならば恥ずかしくて読ませることは無いだろうが、
亡き父を思う気持ちは共有したいとも思う。

昨日コンピュータの本を持って来なかったことを気にしていた母が
急に元気になる。

父の好きであったその『PC21』というコンピュータの月刊誌は月末刊行で、今月号がもう発売されているので、すぐ近くにある本屋に買いに行けば良いと思いついたのである。

父は体調がすぐれず食欲もない時でも、
母がそのコンピュータの本を買って帰ると、
ベッドで体を起こして熱心に読むくらいその本が好きだったらしく、
確かに読み終わった本を柩に入れるよりも、
新刊のほうが喜ぶに違いないので、それは名案だと同意する。

『本屋は10時には開くだろうから、11時からの葬儀には間に合うだろう』という母に、スマホでその本屋を検索して、
開店時間は9時であることを確認し、
21世紀の文明の力を見せつける。

母を連れて本屋へ行き、開店と同時にPC21を買うが、
表紙を見ると今月の特集は
ストレージはなぜ壊れるのか
エクスプローラーを極める
21世紀の文明の力を誇っていた私であるが、
意味はなんとなく分かるが全く関心はない。

87歳にしてこの本の内容に興味をもって愛読していたとは父には恐れ入る。

葬儀
妻、娘も合流、家族全員で弔う。
親戚、近所の方も来てくださり、お悔やみの言葉が行き交う。

流れているBGMは気にも留めていなかったが、
『間もなく開始です』のアナウンスと同時に『おさななじみ』の曲が流れ、
これまでのBGMも生演奏であったことに気付く。

母がとても良いという司会の女性の声で父が紹介される。

導師による読経に続いて焼香。

焼香は事前に作法の説明を受けているだけに、
どうしても動作を気にしてしまい少し気がそがれる。

兄の喪主挨拶
音楽は『星影のワルツ

最後にお別れ。
参列者全員により花、昨日書いた色紙や手紙、
今朝買って来たパソコンの本を柩に納める。

音楽は『錆びたナイフ

出棺。霊柩車まで母が法名、兄が遺影、私が骨壺(まだ中は空)を
持って霊柩車まで進む。
再び『錆びたナイフ』が流れる。

今や、知る人は少なく、そして自分自身も初めてであろう
古い曲を弾いてくれるエレクトーン奏者にも感謝の気持ちを
伝えたかったのだが、その暇は無かった。

私が最初に思い出した、父が好きだったこの
『錆びたナイフ』の演奏が特によかったと、母は後から言ってくれた。

火葬場へ移動。
いよいよお別れ。

導師による読経の後に、柩の中の父に別れを告げ、火葬炉に柩が入る。

火葬の間に火葬場の控室で食事をしながら語らう。

娘と娘の姉貴分の姪とは久しぶりの再会で話が弾む。
少し明るい雰囲気になる。

そんな中、兄が口にした言葉はなぜか
『あの柩に入れたパソコンの本は俺も読みたかった』である。
どうぞ買って読んでほしい。

さらに兄は案内をしてくれた火葬場の係の若い女性が
火葬炉の火力の調整までするのかどうかを気にしつつ、
妙に詳しい火葬に関する知識を披露する。

この火葬場は新しい設備で、
火力も自動調整する機能があるのかもしれないが、
古い火葬炉はバーナー一本で、ベテランの担当者が経験に基づき
火力やバーナーの位置を調整するのだそうである。

火力が弱いと火葬にかかる時間がとても長くなり、
火力が強すぎると骨があまり残らないので重要な役割なのだそうだ。

特に老人は骨の密度が粗くなっており、
火葬後に骨がほとんど残らないこともあるらしく、
おそらくがんの影響だろうか、骨がもろくなり
脊椎を痛めていた父は遺骨がどれだけ残るのか心配である。

1時間30分後、火葬炉の蓋が開く。

思ったより大腿骨や上腕骨はしっかりした太い骨が残っており、
こんなところにも父の存在感を感じつつ骨壺に父の遺骨を納めていった。


時系列の回想はここまでですが、
ここからは葬儀後も含め実家で過ごした4日間で
感じ、考えて、学んだことを書いてみます。

別れの形、気持ちにつく値段

通夜、葬儀はいろいろと気を遣うこともあり、儀礼的な面があります。
その代表的なものはご香典をいただいた時の会葬お礼や香典返しです。

このような日本の葬儀は、形骸化した古い風習だと考えれば、
現代ではできるだけ式の内容を簡素にしたり、
亡くなった病院から火葬場へ直接向かう直葬
というやり方もあるわけです。

父の通夜と葬儀の経験を通して感じたことは
故人を送るということは通夜や葬儀を執り行うことだけではない、
ということでした。

納棺の時の故人を思いやる一挙一動や
通夜が終わり葬儀前夜の静かな部屋で故人に思いを馳せることも
遺族が気持ちを整理して、その後の生活で
故人の思い出とともに健やかに暮らせるようにするために
とても大切なことです。

葬儀を行うのにどのくらいの費用が適当なのか?

それは遺族が故人をどのように送ってあげたいと思うのか?
むしろどのくらいのことをすれば自分が納得できるのか
それによって”別れの形“が違い、それに応じて費用も変わってくるのです。

故人がお金を遣って儀礼的なことをするのを本当に好まなければ、
葬儀をする必要もないのかもしれませんが、
すぐに火葬場へ送ってお別れするというのでは、
気持ちを整理する時間があまりにも短いように思います。

故人に対する気持ちこそが大切で、葬儀にお金を掛ける必要がない
と考えるにとっては、CMに謳われる“通夜、葬儀の2日プラン36万9千円”
でも高いと感じるかもしれません。

でも見た目に過ぎないかもしれませんが、花に囲まれた祭壇で送ることを
故人への気持ちと考えれば、
もっとお金を掛けても高いとは感じない人もいるのです。

今回は葬祭会館の方も皆さんが、遺族に対して
出来るだけのことをしようとしてくださっており、
それも救いになっていると感じました。


無くすもの、残るもの

父の闘病中から母はずっと父に話しかけていました。

振り返れば、

まだ父の声に張りがあった頃
思い出話やなんでもない世間話をしたり、
父がまだ健康だったずっと昔からの日常風景であった
些細な口喧嘩をしていた。

声を出す力が無くなった時、それでも母は色々なことを話しかけ、
父も意見が合えば、オッケーサインで答えてくれたらしい。

亡くなった後、母は父の遺体に向かい、ずっと話かけていた。

そこに父の姿があるかぎり自然と話しかけてしまうのだろう。

火葬炉に父の柩が入り、扉が閉じる時、
こりゃぁ、だめじゃあ
隣にいた私だけに聞こえた母の声である

火葬の手筈に手違いがあったわけではない

父の姿形が永遠にこの世から消えてしまうことに対して、
思わずあげた声である。

『さようなら、ありがとう』でも『安らかに』でもなく。

これが父の遺体に掛けられた母の最後の言葉。
喉の奥から絞り出された母の心の声。


一連の葬儀が終わり、実家には父の遺骨遺影が帰ってきました。
母は相変わらず祭壇の遺影に話しかけています。

父の姿形はこの世からなくなり、遺影に変わってしまったのですが、
父が私たちに遺してくれたものは思い出です。

母にとっては、今思い出すには辛いものともいえます。

私が書いた手紙を読み、
『こんな事があったの?あんたはよく覚えているね。』
と私に言いつつ母は涙を流していました。

思い出は暖かいものばかりではありません。
端から見ていると、父と母の口喧嘩はトムとジェリーのけんかのように
たわいもなく微笑ましいのですが、
母には割ときつい口調で話すこともあったようです。


葬儀から1週間後は母の誕生日
『お父さんは”今年はお前の誕生日は盛大に祝おう”と言ってくれていたのに、とうとうできなかったね。』と寂しそうに言う母の言葉を聞いたから
というわけではないが、

母の誕生日には、また家族が集まり、ささやかにお祝いした。

お祝いの後、私と二人になった時
『孫が来た時はお父さんは特別優しい口調だったね。』とつぶやき、
私にとってはいつもと変わらなく思える父の様子を思い出した母は、
『お父さんが、死んでしもうた』とまた涙を浮かべていました。

それだけ強く母の心の中には父の姿が残っており、
楽しいこと、辛いことの全てを含めて
一緒にすごせたことが幸せだったのでしょう。

父に向けた母の手紙にもそう書かれていました。


私にとっての思い出は、手術後に退院するのに合わせて、
実家に帰って父と話しをしたことです。

これまでは照れくさくて話せなかった、仕事のこと、人生のこと

父は家族のために一生懸命働いた。
それでも特に高い地位を得たわけでもなく、
また多くの財産を残したのでもない。

『それでも、息子二人を大学へ行かせ、家も建てた。
自分の人生に悔いは無い』と言った力強い父の言葉が
ずっと心に残っている。

自分が懸命に働いて育てた息子だから、
招待されて一緒に海外旅行に行く時は特別気分も良く、
家にいる時にも増して元気が出たのでしょう。
行きの機内から食欲があり、
いろいろな所を見て、美味しいものを食べ
たくさんの事を話しました。

思い出とともに、私の手には一緒に行ったフランス旅行で
父が買った万年筆が形見として残りました。


死に方と生き方

葬儀の次の日は月曜日でした。
甥は学校。姪はその日が社会人1日目で新入社員研修の開始です。

兄は水曜日まで忌引き休暇ですが、さすがに喪主を務めて疲れたのでしょう、その日実家には私一人が残っていました。

母も疲れているでしょうが、急にやることがなくなっても気落ちするだろうと考え、私は母を連れていろいろな手続きに出かけました。

父のつかっていたスマホを母名義にする手続き
市役所へ届ける各種手続き
遺族年金手続きの確認と予約
銀行での葬儀代の振り込み等を行いました。

思ったより手続きがはかどり、二人ともなんとなく達成感が感じられたため
その日の夜は母と食事をしながら、久しぶりにビールを飲みました。

母は少しだけビールを飲みながら、また父のことを話し始めました。
今までは聞いたことのなかった話を。

父の手術後、退院直前に母がめまいで転び、肩の腱を切る怪我をした。
腱をつなぐ手術をすると母も入院となり、1週間や2週間では済まない。

胃のほとんどを摘出した父が退院しても、
面倒を1日中見れる人がいないので、
母が退院できるまでは父も退院を延ばすことになるのだが、
結局母は手術をせず、予定通り父は退院した。

母の右腕は今も上がらないままなのである。

このことは事前に聞いていて、
私は父の退院を少し延ばしてもらってでも
先に母の腕の治療をすべきだと言ったのだが、
(というか在宅介護は介護をする家族も、
専門的な医療体制を受けられない患者もお互い大変なので、
病院で最期まで緩和ケアをする人も多いと職場で同様の境遇の人から聞いており、私は父が元気がもどらない状態での退院自体を
あまり良いとは考えていなかった。)

母によると
『同じような怪我をした人から聞いたら、
老化した腱はとても脆くなっており、
手術をしてもつなげることができない場合があると。
その人は手術で傷ついた腱を治すためにまた手術をすることになり、
切る範囲ばかりが大きくなってどうにもならなかったらしい。
私もそれは嫌である』
とのことなので、それならば、と納得していた。

ただその日の話では、
父は手術後の入院生活は、夜間に苦しそうにうめく人と同室だったりして、
それが非常に苦痛だったらしいので、退院を心から待ち望んでおり
そんな時に腕を怪我した母に対して
『お前の不注意で退院が延びるじゃないか』
と責めるような言葉が口をついて出たのだそうだ。

母は”これでは自分は手術などできない、幸い痛みはないので
自分の腕が上がらないくらいで済むのなら” と考えたらしい。

母の腕の怪我を気遣ったり、そうでなくても介護の負担をかけるから
ということで、父が入院での治療を続けるほうが、
周りから見ると立派な選択だったのかもしれません。

それでも、病院では食欲も出ず気持ち的にも弱っていたので、
あの時に自宅に帰ってこなければ、
もう家に帰ることは出来なかったかもしれません。

コロナで病院での面会も厳しい制限がありました。

結果論ですが、亡くなる前の貴重な時間を二人は一緒にすごす事が出来ました。

最後は、ベッドの縁に座って自分で腰を浮かせることも難しくなり、
母が手伝っても、下着を替えることすら難しくなってきたのですが、
母はそれを負担に思うどころか、どうすればうまく介護できるかを考えて、
1日でも長く父と一緒にいたいと思っていたということでした。

急に意識が朦朧として緊急入院し、会話が出来るようになることもなく、
そのまま父は亡くなったので、
最期の時になっても父から『世話になった、ありがとう』という言葉を
聞くことが出来なかった母は“自分の世話が足りなかったのではないか?
という悔いが残っていました。

ただ父が亡くなる何週間か前に、父が母を指さして
大変だろうから入院しようか』と短く言ったのだそうです。

母はその話を私にして、
『あのとき、お父さんはもうだいぶ具合が悪くて入院するほうが安心、
という気持ちもあったのだろうが、
世話をするのも大変だろうと私に気遣いもしてくれたのかな?』
と私に問いました。

それに対して“手術後に大変だったときでも退院をしたがった父なのだから、
母を指して『大変だろうから』と言ったのは、
母に対する気遣いに違いない“と私は自分の考えを話しました。

実際そうなのでしょうが、
母にははっきりと言葉でそう言ってあげる人が必要なのです。


特に後期高齢者となってから、がんのような重い病気になると、
手術をするにしても合併症のリスクがあり、
手術後は以前のような生活が出来なくなることもあります。

手術以外の抗ガン剤や放射線による治療も体への負担は軽くはありません。

80歳を超えると人生に残された年数も数えられるようになることから、
緩和ケアをしながら出来るだけ病気になる前に近い生活を続けるか、
いろいろなことを我慢しながら治療をして少しでも長く生きようとするのか
という選択を迫られるのです。

どちらが良いのかは医師ですら決めることが難しく、
ある意味どのような死に方を選ぶのかという選択にも思えます。

末期がんの緩和ケアをするにしても、父のように自宅で過ごすのか、
あるいは入院をするのかという選択も同様です。

ただ、母の話を聞いて思うのは、このような選択に対して
結果として
“こちらのほうが長生きできた”
“こちらのほうがより良い最期を迎えらえた”
という神のみぞ知る正解があったのだとしても、
選択そのものに正解はなく、まして死に方を選ぶことはできない
ということです。

出来るのは
残された日々で何をしたいのか?
自分の選択に対してどのように向き合って過ごしていくのか
という“生き方の選択”だけです。

そして、その選択をしてよかったと思えるかどうかは、
家族、特に人生の伴侶であり最後を見届ける配偶者との関係が大きいでしょう。

それは、これまでどのようにいっしょに暮らして来たのかという過去も含めて、最期の時までをどう過ごしていくかというお互いの関わり合いなのです。

“生き方”、“死に方”などこれまで考えたこともありませんでしたが、
今敢えてそれを目に見えるものに例えるのなら、
螺旋階段のある塔を石で積み上げながら登っていくようなものではないかと思います。


石を積むことそのものが“生き方”であり、
持てるすべての石を積み上げ、
最終的な形となった塔の最上階の窓から見渡す景色が“死に方“です。

人が選べるのは“石をどのように積むのか”ということだけなのですが、
その石は80数年分は持っているだろうと思っていても、
思いがけず早く尽きてしまったり、
最後のほうに出てくるものはきれいなブロック状ではなく、
大きさが小さくなったり、欠片になったりして
計画通りには積み上げられなくなるものなのです。

そのため、その螺旋の塔はどの高さになるか、
最後の窓がどの方角に向かっているのかは
確実に計画通りになるとは言えないのです。

この高さからこの方角を眺められる塔と建てたいと願っても、
人は石を一つずつ積み上げるしかない、これが人生なのでしょう。


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