プラモのキオク
(プラモとガレキ:前編)
私のnoteらしく、
プラモデルについて自分の経験を中心に、
時々よそ道にもそれながら、
みなさまにとってはためにも参考にもならないかもしれないけれど、
思いつくまま綴ってみたいと思います。
『はじめまして』では
プラモ歴43年 ガレージキット歴20年と自己紹介しましたが、
実際どうだったかな?
もう一度、思い返してみます。
子供のころ
プラモデルのはじめの記憶、遡るとおそらく小学校3年生頃。
頭に思い浮かぶ光景は、新築したばかりの実家で、階段をあがった所の2階の部屋へとつながる空間。
フローリングがクリーム色で、そこに差し込む日差しがすごく明るかったような気がします。
要は窓に面した広めの廊下。無理にサンルームと言えなくもない。
今はフローリングの艶もなくなり、お隣の家が間近に建ったからなのか、
たまに実家に帰っても前のような明るい印象はありません。
そこで父親に作ってもらったモーターでプロペラを回して風の力で進む自動車のプラモデルのテスト走行をしました。
一歩間違えば、階段から真っ逆さまに落下する危険を冒してまで。
のっけから、ちょっと(かなり)プラモの話から逸れますが、
何かの拍子にふと思い出す、子供のころの実家にまつわる光景
というのがこれ以外にもあります。
最近noteを始めて、『文章を書く』という事が、記憶を鮮明に呼び起したり、新しく考えをまとめるのに効果があることに改めて気づきました。
折角なので、思い出したこの機会にこれまで文章には一度もしてこなかった私の心象風景を書き留めておこうと思います。
日曜日の午後、散髪屋に行って、いつものようにグリコのキャラメルをもらい家に帰る。
玄関のドアはいつものように開け放たれている。
夏の間は風通しを良くするためにいつもこうしている。
玄関から直接居間が見える間取りなのにだ。
『ただいま』といって家に入るが、返事はない。誰もいないようだ。
(事件があったわけではありません、ただ父親は2階の自室におり、母親はちょっと外へ出て近所の人と世間話をしていただけ。)
冬の朝、今日は非常に寒い。
でも冬休みなので学校に行く必要はない。
こたつに入ってぬくぬくとし、読書を始める。
『ルパンの大作戦』をしばらく読み進める。
ふと窓から外を見ようとするが、窓ガラスが真っ白に曇っている。
今日はよほど寒いのだなぁと思っていると、水滴がついと一筋流れた。
(『ルパンの大作戦』の中でアルセーヌ・ルパンの活躍があったかどうかも覚えていないほど、特に面白いとは思わなかった読書の記憶)
なぜこのような子供時代のなんの変哲もない一日の、何も起きなかった『出来事』がいつまでたっても記憶に焼き付いているのだろうか?
サンルームの明るい陽射し、居間の昼下がりの少しけだるい光、冬の朝の水滴で白くぼんやり光る窓ガラス。
匂いに関する出来事は記憶に深く残るというのを読んだことがありますが、光に関する記憶もそうなのかもしれません。
ところで先ほどのプロペラ自動車ですが、プラスチックがロッソ・アルファのような色をしており、ただ組み立てただけでとてもかっこよかったのですが、なかなか見事に走ったと思います。
ただしその後、父親が、『黄色の線を入れるともっとカッコいい』
と、筆でいい加減な線を描いたのが、残念で仕方なかったことが
実は一番記憶に残っていることです。
今思えば、濃い赤のうえに黄色の塗料を筆で塗るなど、きれいに塗れるはずもないのですが、転生もの漫画のように、
今の記憶を持って小学三年生に戻ったとしても、
『父上、恐縮ではありますが、隠ぺい力の低い黄色をそのまま筆で塗るのはいかがなものでしょうか…』
などとは言い出さず、やはり豪快に筆で塗るという野趣あふれる楽しみ方をするのが昭和50年代の勢いというものなのだと思います。
ちなみにネットで”プロペラ自動車 プラモデル”で検索すると、タイトル画像のようなものが出てきました。
色、形、それからすっかり忘れていましたが”EAGLE”号という名前も相まって、これがその時のプラモデルであったという確信が湧きました。
(インターネットってすごいですね。単なる通信手段ではなく人類共通の記憶になっている!)
当時のプラモデルはやたらと箱絵がうまく書かれており、中身のプラモデルはちょっと違うなぁというものが多くありましたが、
少なくともこのカッコいい箱絵を見ると、やはり赤一色ではもの足らず、
ラインの一本も入れてみたくなるのもよくわかります。
ただ箱絵の白いラインでなく黄色が良いというのは父親のセンスなのか?
それとも黄色の塗料がたまたま有っただけなのかは、
おそらく今、父親に聞いても完全に忘れていることでしょう。
家を新築したのが小学校3年生だから、その記憶の年代を覚えていたわけです。当時9歳。
自分でプラモデルを作ったのは、たぶんその1~2年後くらいかな?
このあたりはよく覚えていませんが、だいたいそんなものだろうということで、プラモ歴43年というのを公式記録として履歴書にも書くようにしています。
そのころはイマイのロボダッチ、アオシマの合体カウンタック、合体ヤマトや情景シリーズ水車小屋などを作った覚えがあります。
例の黄色い線のトラウマで塗装をすると汚くなると思っていたので、塗装はなし、部品をランナーからむしり取って、ぱちぱち組んでいくだけです。
イマイのロボダッチシリーズは実はロボダッチを作ったのは兄で、私はカーダッチのほうを作っていた事をたった今思い出しました。
アオシマ合体シリーズもプラモデルの構成自体が楽しい仕掛けでした。
合体カウンタックは、ランボルギーニカウンタックを前、中、後部とエンジンの四つに分割して、それぞれに得体の知れない部品がくっついたオリジナルマシンのシリーズです。
これを全部集め、各マシンのコアパーツであるカウンタックの部分を抜き取り、合体させるとちょっと怪しいカウンタックの出来上がりなのですが、差し込みが緩くてすぐにバラバラになってました。
また合体シリーズの合体ヤマトというのも記憶にあるのですが、
上の写真にある合体巨艦”ヤマト”(名前‼)は合体前が不明ですが、
合体後ですらヤマトとは似ても似つかない姿、しかも艦橋部分がロボット!
なぞの巨艦ですね。
こんなのが子供心にはかっこよく見えていたのかなぁと、不審に思い
再び人類記憶を検索!
出てきました。
これ、これです。
船体全体の金属感と艦首下部の赤いバルバスバウ。まさにこれ!
名前は合体レッドホークヤマト!、巨艦でも戦艦でもないのですね。
当時の記憶通り、今見てもイケてます。
ちなみにバルバスバウというのは旧日本軍の戦艦大和で実際に見られるもの。船舶が宇宙ではなく、水面上を進む時の造波抵抗を低減するための構造で戦艦だけでなく商船や客船などにもよく使われています。
知人の一人に顎がバルバスバウ並みに立派な人がいるのですが、
その人が前を通り過ぎていくたびに
『あれが大和だ、男の船だ!』と敬礼し、見送りたくなるのですが、
当然それを伝えたことはありません。
情景シリーズは今でも店頭でお求め出来る地味且つ癒し系のシリーズですが、こんな昔から販売され続けているとはすごいです。
中には、情景の草の部分を水耕栽培で本物の植物を育てるようになっているものもあります。
ガンプラ革命
ガンプラの発売開始が1980年7月ですので、当時12歳。
中学生になったところです。
デパートにガンプラを求める人の列が出来たというのが、当時ニュースで報じられていましたが、うちの実家は田舎なのでデパートはありませんし、列を作った覚えもありません。
ただ、最初の頃は市内の模型店でなかなかガンプラを目にする機会はありませんでした。
当時、市内各所に行きつけの模型店というのがありまして、
その模型店というのが甲山屋、大浜屋模型店、寿模型店(これはうろおぼえのため仮称です)の三店でした。そうプラモ三国志!(うそ)
そういえば小学生のころはプラモデルは模型店ではなく近所の駄菓子屋さんで買うものでしたので中学生になってすごい進歩です。
甲山屋
売り場の規模が大きかったが、模型店というよりもおもちゃ屋さん。今ならトイザらスでプラモデルを買う感じです。
当時の場所にあった甲山屋はかなり前に閉店し、トレードマークの黄色いボンボリだけが当分の間、建物の上に立ったまま古ぼけていきましたが、今調べると大阪に『おもちゃの甲山屋』がありました。同じ会社なのかはわかりません。
大浜屋模型店
当時ですら、いつ発売されたのか分からないような古いプラモデルが、狭い通路の両側に積みあがっていた。よく見に行ったものですが、ちょっと頑固な店のおじいさんと、アイガー北壁のような高々と積み上げられたプラモの絶壁にいつも圧倒されてあまり買ったという記憶がない。
これもネットで調べるとなんと、もとの店のお隣で今も営業続けられているようです。
個人営業の模型店がどんどんなくなっていく中、貴重な存在ではありませんか?
今年で創業67年とのことで、中学生の頃はとてつもなく古い店に見えたのですが25年目だったのですね。
寿模型店(仮称) おばあちゃん(今思い起こすと、自分より若いおばちゃんだったかもしれない)経営の個人模型店。あまり大きくないが割と品揃えのバランスが良かったような。
細い穴をあける”ピンバイス”という名前の当時私は見たこともなかった工具の注文にも応じてくれるというおばあちゃんにしては柔軟な対応が自慢。
ただし”0.5㎜のピンバイス”という注文をしたのが悪かったのでしょう。
注文の品が届いたよと聞いて行ってみると、ほっそい針のようなドリルの先(サイズ0.5㎜)だけを渡され、あっけにとられた記憶があります。
今でも時々、『このお店があった辺りに、いったい何を売っているのだか皆目わからないお店を見つけて興味津々で中を覗く』という夢を見るのですがこの事件の影響なのだろうか?
ガンプラで最初に買ったのが、なんと最も大型サイズの1/60量産型ザク。
寿模型店でひょっこり見つけ、思い切って購入。
当時の定価2000円は、子供にとっては石舞台古墳から飛び降りるような覚悟が必要でしたので、やはり300円の1/144が人気で、1/60はたまたま売れ残っていたようです。
当時はうちの田舎では転売ヤーはおろか、大人買いなどというものもなく、プラモデルは子供の聖域として残されていたのでしょう。
このザクを買うときに店のおばあさんに、
やっぱりジオン軍のモビルスーツのほうが好きなん?と言われ
まぁそうだというような曖昧な答えをすると、
連邦軍のモビルスーツもなかなかいいのヨ。
とまるでガンダムを操縦したことがあるかのように、お薦めされたので、
ガンダムあるんだったらガンダムもいいかも♡と店の中を見回したのですが
ガンダムは一つも見当たりませんでした。
ガンプラではリアルさ追求( ´∀` )のため塗装もするようになりました。
1/60はプラスチックがもとから色分けされており、塗装せずともほぼアニメ同様になるのに、わざわざガンダム専用カラーを買って、塗ったのですから革命的出来事です。
塗装は筆塗りですが、1/60スケールのでっかいザクをよくぞ、筆で塗り切ったなぁと今思い返してみると関心します。
ただ筆の洗浄が足らずに量産ザクの薄い緑の塗料に少しずつ、つま先などの色が混じり、後から塗った足先にかけて、だんだんと濃い色に変化していったのは心の目で見なくとも明らかでした。
その後、1/100ガンキャノン、ゲルググ、1/144グフやジムを作りました。
1/144グフはランバ・ラルの青ではなくドイツⅤ号戦車なんかに見られたアンブッシュ迷彩に塗った野心作( ´艸`)でした。
世界へ羽ばたく?
中学後半から高校では戦車のプラモデルを作っていました。
戦車プラモデルでは汚し塗装などの表現の幅が広く、兵士や小物と組み合わせて飾るのに適したサイズだけに、作者による作風に個性を出しやすく、特に神レベルの技術をもつ外国のスターモデラーがいらっしゃいまして、その作風が一世を風靡します。
当時はシェパード・ペイン氏とフランソア・バーリンデン氏が双璧をなした時代。
現在だとミゲル・ヒメネス氏がまだ頂点に君臨しているのかな?(最近の戦車事情はよく知りません。)
シェパード・ペイン氏はダイオラマ(当時はジオラマと言った)のドラマ性を重視する作風でしたが、私はバーリンデン氏のドライブラシ技法による絵画的な塗装表現の影響を大いに受けたものです。
ほぼ真似っこで、ちょっと背伸びして作ったもののうち
タミヤ 1/35 Ⅳ号戦車H型は甲山屋プラモデルコンテストで金賞
エッシー1/72 T34/76はホビーショップパルで銀賞に入賞
甲山屋は中学以来の付き合いですが、ホビーショップパルは高校の近くに見つけた新たな行きつけプラモデル屋さん。この辺りから模型店ではなくプラモ屋と言い始めます。
いずれにしても地方のプラモ屋のコンテストですので、やはりグローバルではなく地方のプラモ小僧だったというわけです。
プラモデル屋といえば、もう一つ身近なお店がありました。
中学校同級生のお父さんがプラモ好きが高じて、脱サラし開店した『みにぼっくす』というお店です。
お父さんの趣味で、なかなかマニア好みの品揃えでしたが、田舎にマニアはそう多くないらしく大繁盛とはいかなかったようで数年で閉店してしまいました。
なおこのお店は完全な個人(の趣味)経営で、”みにぼっくす”という名前も息子さんの中学同級生を中心に募集して決まったものです。
私は『モデルエース』で応募しましたが、当選ならず。
したがって現在存在する、いかなるミニボックスという名前のお店とも関係がありません。
タミヤのⅣ号戦車は甲山屋コンテストから返却された後、暫く みにぼっくすのショーケースに飾っていただきました。
同級生のお父さん、もとい店長さん(そう経理部長は奥さんというパターンです)にはショーケース展示期間中の知らぬ間に、写真を撮って模型雑誌にも応募いただき読者のページにも載っています。
完全他力本願ですが、店長さんのおかげでちょっと世界へ近づいたのかな?
今思い出してnoteに書いてみると、合体カウンタックからガンプラ、戦車といろいろなものを作り、また作り方もずいぶん変わったのですが、
それが小学校3年生から高校卒業までたったの9年間だったとは、
現在の時間の流れと比べて全然違うのでびっくりです。
子供時代というのは変化が早いですが、それに対応できる吸収力もあり、
本当に濃密な時間なのだなぁと感慨にふけりました。
娘ももう中学3年生。
子供時代の残り3年間をどんなことでも好きなことに打ち込んでほしいと思います。
大人になってから
大学になると下宿が狭い、汚い(汚いのは自分のせい)のでプラモは作らずです。
就職して寮に入ったのですが、最初は二人部屋。
相部屋で塗装などはもってのほか、少しの我慢。
約半年で寮の改装が終わり、やっと一人部屋に住むことになりました。
そして久しぶりにプラモを作ろうと思いたち、姫路のツバメ模型でタミヤ1/24のミニクーパー(イギリスの自動車)のプラモを買ったのですが、
その頃には新入社員研修などもすっかり終わり、
なかなか仕事が忙しくて作り進める暇もなく今もってミニは“製作中“。
まぁかつては『若いうちの苦労は買ってでもしろ』という風潮でしたので、ほんと忙しかったですね。
確かのび太もパパから言われていたなぁ。
一方でガレージキット歴ですが、会社で忙しい年月が続くなか、2001年のエンロンショックの余波で、2002年に未だかつて無かったほど仕事がヒマに!
入社9年にして少し時間ができたので、プラモ雑誌で偶然見かけたファイブスターストーリーズ、バッシュ・ザ・ブラックナイトのレジンキャストモデルを通販で買ったのがウレシハズカシ初体験です。
ちなみにネット通販などといったハイテクは当時なく、苦手な電話をかけて注文し、代引きでした。
私のそれまでの感覚では通販というと届くまで1,2週間くらいかかるとのんびり構えていたのですが、電話してから2~3日後にいきなり
お届け物でーす。代引きなんですけど。
油断して現金が家になかったので、運送屋さんに待ってもらって銀行にお金をおろしに行きました。
20年前のガレージキットスタートは
You'er rollin thunder.
突然すぎた!
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