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『いのち、かける、おもい』とかいう作品を作った、経緯とか挫折とか

どうもお久しぶりです、細川トシキです。

毎度毎度、とったん名義の当アカウントでこの名前名乗るのややこしいのでどうにかならないだろうか。

とはいえ、今回の話で大学演劇部の話シリーズも最後になると思う。なぜならこの話は卒業公演の話だからだ。



?????


卒業公演の話をしたら最後って別にそんなことなくないですか?
うるちぇ!

まあ多分もう一本、大学時代の総括みたいな話(人との距離感が分からず苦しんだ話)を書いて〆にすると思うから。多分。(興味を失う可能性もなきにしもあらず)

卒業公演は後輩たちが中心となった本公演の二日目だけ公演された。目撃したのは数名だけだと思う(そもそも、有名な劇団でもなければ大学演劇の公演なんて見に来るのは数名がZARAなのだ。ザラなのだ)。

月が突然無くなったことで滅亡に向かう世界で、二人の男が東京まで走りそこで絶望した男と出会う話。それが「いのち、かける、おもい」である。

我ながらむちゃくちゃな設定だと改めて思う。
ストーリー展開もむちゃくちゃである。
まあ、あの当時のぼくが追い込まれた状態で書いた作品なのだから仕方ない。仕方なくはない。お前の作品はいつもむちゃくちゃで起承転結もあったものではないじゃないか。

そんな感じで数名に看取られた「いのち、かける、おもい」であるが、この作品が成立するまでには「内部でのごだごだ」と「いくつかのお蔵入り作品」がある。
ここからはそんな隠れた歴史にスポットライトを当てていこう。演劇部だけに。余計なこと言うな。
ちなみに、本文は一万文字と二千文字ちょっとあるので覚悟の準備をしといてください(普通にしんどいので無理して読まなくともよい)。

『ちまつり、わっしょい!』の失敗

話は二回生のときの本公演、『ちまつり、わっしょい!』の終わった直後にさかのぼる。

本来、作り手がやりたいことやりたい放題して上演を終えたなら大成功といっても差し支えないのだが、当時のぼくはこの作品、この公演を大失敗と捉えていた。

演出として作品の設計・ビジョンを持たず終始ふわふわした指示ばかり出して役者を困らせ、演技部分は高校演劇経験者による指導に頼り、観客(主に大学内部の身内)からの評判が芳しくないという三重苦が折り重なり、「ぼくはもう演出をやらない方がいい」「もう脚本も書かない方がいい」となるくらい落ち込んでいた。

そうなると照明・音響の技術もないぼくが演劇部としてやれることは役者として参加することしかないと考えるようになっていた。
そんな中で新歓公演でキャストに選ばれたのだが、そこで心が折れる出来事があった。

新歓でも心が折れる

新歓公演では既存の短編劇を二作上演したのだが、その二作のメインキャストに選ばれたのである。
それ自体はいいことだが、問題はぼく自身にあった。

ぼくは台詞覚えが悪く、本番一週間前でも台詞がうろ覚えということが以前から多々あり、今回もそうであった。台詞が入っていることが前提で気持ちを作るわけだが、頭の中では台詞を思い出すことで精一杯でそれどころではなかった。

おまけに、ぼくの演技は素のぼくとして言葉を発してるみたいになってて「その役として」言葉を発せていない、要は「その役になりきれていない」という欠陥があった。

抽象的すぎるのでもう少し具体的な例を挙げる。
例えば、ぼくは台詞を言っているとき以外、無の状態に陥りやすい。普通、人間生きていれば何か考えたり行動するものである。だが、ぼくの演技は台詞を話しているとき以外虚無、もしくは台詞を思い出そうとしているように見える。ぼくの芝居が下手な原因のほとんどがこれである。
これに関して、小さい頃余計なことをすると怒られたり殴られたりした経験から必要以上のことはしない、というぼくの性質もあるのだが、役を演じる上では邪魔だしノイズでしかないしそれは言い訳だ。

指摘すれば直るものでもないため(そもそも演技に対する考え方が間違っててそうなってるかもしれないのもある)、ぼくは指摘されてもパニックになるだけだった。

そんな状態で、たった数十分の短編のキャストを二つこなすことになったぼく。
散々な結果だったのは言うまでもない。

脚本演出もダメ。裏方もダメ。役者としてもダメダメ。もはや演劇部にぼくの居場所はないのではないかと思い詰めた。
新歓公演の後。時期的に大学Nコンの応募期間だったので、演劇部から逃げるように放送研究部に移動した。この逃げる癖がいろいろよくないのかもしれないがそれはさておき。

復帰の転機となった未公開部内公演『白血球は孤独だった』

演劇部の活動に絶望的になっていた(大分盛ってる。ふんわり絶望してる)ぼくだったが転機が訪れた。

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それはテンキーである。

冗談はさておき。

新歓公演の後、2名の新入部員を迎えた劇団洗濯氣は交流を兼ねて部内で発表する劇をつくることになった。
二手に分かれて三つのキーワードからオリジナル短編を作る。我が部では『演劇実験室』と呼ばれるものである。

ぼくはNコンのため参加してなかったのだが、たまたま顔を出したとき片方のチームが脚本作りに行き詰まっていた。
どんな話を作ったらいいか分からないらしい。

与えられたテーマは「白、血、孤独」。

ぼくは参加しないから、と他人事をきめこんでたぼくだったが、そのときの気まぐれでいくつか思い付いた連想ゲーム的な言葉を10個いや8個だったか並べた。
その中の一つが「白血球は孤独だった」である。

無理矢理ひねり出した無責任なキーワードだったが、看護学科所属の新入部員の子から「白血球は5つの成分に分かれている」という情報を聞き、「じゃあ、『元々体内で一人で戦っていた白血球が5つに分かれて孤独じゃなくなる話』とかどうだろう」と提案した。
そしたら、気がつくとぼくが脚本を書くことになっていた。
…あれれ~?

ふたたび、筆を取る(実際はキーボードを打鍵しているけど)

ぼくの考えではログライン(作品を要約した一文。これがしっかりしてると良い作品になる)
だけ考えて、あとは丸投げするつもりだった。

だが、『元々体内で一人で戦っていた白血球が5つに分かれて孤独じゃなくなる話』などという意味不明な一文から物語を作れ、と言われても書けるわけないと思う。

というか、他人から「こういうテーマ(設定)思い付いたから書いて!」って言われて書けるアマチュア脚本家はそうはいないと思う。書けたとしたら、その人はプロ(商業的な意味で)だ。
大体の脚本書けるマンからすれば「そこまで思い付いたんなら自分で書けや!」ってなる。

あと、自分で思い付いた作品の構想中に他者の意見が介入すると、なぜだかできあがった作品に納得がいかなくなる。完成した脚本に変更を加えるのは問題ないあたり、「自分がつくった話じゃなくなる」のが嫌なんだと思う。
『ラヂオの時間』みたいだ。

話を戻そう。

結局、話のアイデアを思い付いた人が書くのが一番!ということになり、再び脚本を書くことになった。
正直、脚本を書くのを渋っていたが、まあ部内の、内輪でやる短編だし、失敗上等、リハビリにもなるだろうと思って書くことにした。

短編脚本のいいところはプロットをしっかり決めなくても書けるところだ。
いや、本当は短編でも起承転結やプロットは決めた方がいいのだが、ぼくは論理的にプロットを書くことが苦手なのである。

ぼくが脚本を書くときはだいたい妄想を軸に台詞を繋いでいく。情景とかは全然浮かばないが、脳内ラジオドラマが頭に流れて場面を作り、それを思い出しながら文字に書き起こす。
時々、想定してなかった台詞が手グセから生み出されることもある。

全く意味の分からない話かもしれないが、書いているぼくにもよく分からない部分がある(なんで分からないんだよ)。とどのつまりは脚本を書くときはだいたい感覚で書いているのである。
逆に、完璧に論理的に台詞を生成できる人は、そのプロセスを教えてほしいくらいである。

とはいっても、妄想(構想?)が降りてくるのをじっと待ってても来ないものは来ないし締切は一週間ほどだ。脚本は台詞を並べてはい完成、ってわけにはいかない。それくらい簡単なら誰でも書けるはずだ。いやむしろみんな書け(?)

そこで、構想が浮かぶための抽象的な、暗示のような文章(ポエム?)を書いた。
シンフォギアの公式サイトにある次回予告的な謎ポエムみたいなやつ(誰が分かるねん)。
こうすることで抽象的な情報から想像を膨らませ、物語を広げていこうとしたのである。

そうして浮かんできたのが次のようなプロットである。

ここは人間の体内。白血球(擬人化)は体内の免疫作用として1人で外敵と孤独に戦っていた。
ある日、白血球は激怒した。なんで自分だけが戦わなあかんねん。他にも細胞があるんやからそいつら使えや、と。
白血球は脳に直談判した。1人で戦うの限界です。何とかして!
脳は1つだった白血球を5つ(5人)に分けることで1人じゃなくして負担を減らした。
こうして白血球は孤独ではなくなった…が実際の役割分担はリンパ球の負担がかなりウェイトを占めていた。それにリンパ球はナイーブな性格で孤独を感じていた。
そんな訳でリンパ球が分かれた4つの細胞と交流して孤独を何とかしようとする。

そんな感じの脚本を書いた。
一週間の締切だったが二週間ほど待ってもらい、やっつけ気味に短編を完成させた。

ちなみに、「細胞の擬人化」には先駆者がいて『はたらく細胞』という漫画があり、先行作品として研究がてら読んだのだが、
めちゃくちゃ出来がよすぎた。
所詮wikiに書いてあったことくらいしか知識のないぼくの作品がなんだか恥ずかしく思えてきて、逆に『はたらく細胞』を見ることが出来なくなった、という悲しい過去がある。

脚本完成、そして公演

脚本を完成させ、あとは丸投げしてしまえくらいに考えていた(演出は名前がほぼ数字のやつがやってた)が、一応原作者なので監修という扱いで稽古に立ち会うことになった。結局がっつり関わっとるやないか。

この『白血球は孤独だった』という作品、『ちまつり、わっしょい!』のときのようにパロディやオマージュが多々含まれていたのだが、自分で元ネタを解説するのが恥ずかしいのか、元ネタが何か、オリジナルはこうだとかの説明はしなかった。

一例として、「革命だ!革命だ!革命だったら革命だ!」という台詞が劇中にあるのだが、これはミルキィホームズのアニメ版にあるくだり(キャロたちがプラカード持って抗議するシーン)のパロディだったりする。
なのでプラカードを持って片足だけ足踏みするのが元ネタ通りになるのだが、そんなこと誰も知るよしもない。

そんなこんなで部内での発表が行われた。
唐突なパロディ、勢いで進んでいく無理筋な展開など、演者・演出両方が頭を抱えたくなるような話だったが、演者たちの熱演もあって上手く行ってるようにぼくには見えた。
興奮しているのもあってか「これ部外での発表でもいけるやん!」などと口走ってしまったが、内輪だから許される部分もあるはずである。なんとなく、周りの「ゑ?」って空気は肌で感じることができた気がする。

ともかくこれで気をよくしたぼくは脚本を書くモチベーションを取り戻すことに一応成功した。

あとは卒業公演へと繋がっていく…のだがここでもまだいろいろある。

才気あふるる後輩たち

当時三回生だったぼくたちの同期は忙しいのもあって学祭公演に参加してなかった。
いや、違う。本来、卒業公演は秋ごろに行われるからぼくらはその準備に入ってるんだっけ。
よって学祭公演は後輩たちを中心に作ることになった。

その作品が『ぼくふよう』。
先ほど述べた看護学科の子が脚本を書いた作品である。

学祭前に試写という訳ではないが通しで見せてもらったのだが、
圧巻の出来だった。

繊細な心を持ち自分など不要だと考えている主人公。主人公が落ちた池にいる神様。神様を愛する子。残されてしまって死んだも同然だったから現在他の人と結婚している元カノ。
言葉や気持ちのすれ違い、それによっておきる悲劇。それらを丁寧に紡いで迎えるラスト。

感動した。素直に涙を流した。
劇団洗濯氣は「心を洗う劇を作りたい」という理念があるが、まさにそれだった。
そして、何より役者が生き生きとしていて魅力的だった。仮にも三年演劇部にいたぼくなんかよりはるか先の演技だった。
それに比べて、自分の作る作品の、演じ方の、なんとお粗末なことか。論理も感情も、なんの整合性もない。薄っぺらい。
ぼくの三年間はなんだったのだろうか。
大分、うちひしがれてしまった。

ギャグに振りきろうとしたボツ作品『Fi部』

後輩たちの作品にうちひしがれたぼくは、もはやシリアスな感動路線は無理だと尻尾を巻き、安直なギャグに走ろうとした。
それが『Fi部』である。

『Fi部』とは毎日遊んでばかりで真面目に部活をやってなかった部員たちが自分たちが何部だったのか忘れてしまったのでそれを思い出そうとする話である。

これはぼくが抱えていた放送研究部に対する不満を極端にデフォルメした、当時の現状のパロディでもある。
パロネタとして「答えを知っている後藤さんが来るのを待つ(ゴドーを待ちながら)」「思い出すために突然笑点が始まる(ケロロ軍曹2ndシーズン)」など小ネタも仕込みまくった。

この際だからはっきり言うと、くっそつまらない作品である。逆に聞くけど、ぼくの作品で面白いやつなんてあったか?ないよね?

そんな、元の話のつまらなさ、そしてなにより高品質な後輩の劇を見せられたことが焦りを生んだのか、演出を担当していた数字男、3110の心は蝕まれていった。…いや、他にも問題はあったっぽいけどぼくはそういう人間関係への深入りを避けてきたので詳細はつかみ損ねている。よくそれで暴露っぽい話かけるね?

3110、いっぱーつ!(爆破)

さて、卒業公演(仮)として立ち上がった『Fi部』。登場人物が東、西、南、北、それと後藤さんの5人でファイブ、部活の最終日→ファイナル(final)部活動→Fi部の一応ダブルミーニングになっている(どうでもいい)。

そんな些末なことにばかりこだわって本筋はぐらぐらな話、前半に述べたぼくの役者としての致命的な性質、そして私生活(学科の試験、資格、就活)等、様々な要因が折り重なったのか、
3110は爆発した。

もちろん、物理的にではなくストレスで。

すべてに対して投げやりになり、演出、卒業公演を放り出し演劇部を辞めると言い出したのだ。

当然、揉めた。どうせ揉むならおっぱい揉みたい。
ここで3110が匙を投げると卒業公演は白紙になってしまう。
今考えればじゃあ3110なしで卒業公演すればいいのでは?と思うのだが、確か当時卒業公演やるかやらないか半々くらいで、ぎりぎりやるで通していた。

卒業公演が実施されない場合、三回生は自然消滅の形で演劇部を去ることになる。
当時のぼくはなんとしてもそれを避けたかった。

煽り全一31103

ぼくたちは3110の退部を止めようとした。
しかし、自治会、学科等で運営する側(口で説得)に慣れているこの男は揺らぎはしない。

その癖なぜ辞めたいかという理由は「すべてが面倒になったから」の一点張りで通していた。
多分練習期間の前後にある女子部員にアプローチをかけてから避けられるようになって気まずくなったからでは?という説は後ほど判明した。

こっちはなんとしても残ってもらおうとしたのだが、3110は
「どういう言い方すれば納得するかな…」
とぼやいた。
さすがに腹がたった。ぼくにしては珍しく声を荒らげた。なんで自分勝手な理由で辞めようとしてるやつが諭す側みたいな態度してんだ。

交渉決裂、これにて終幕

それから地獄のような時間が数時間に渡り、「みんなと離れ離れになりたくない」とこの状況と関係ないことで泣き出す者まで現れた(本当によく分からなかったし3110が別に離れ離れになるわけやないやでと諭したら収まった。収まるんかい!)。
ついに3110を説得することに

失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した失敗した私は失敗した

STEINS;GATEの三大トラウマシーンをパロるな。

3110の説得に失敗した我々は話し合った。腹を割って話し合った。本当に、卒業公演をやりたいのか?
ぼくはやりたい側だったがやらんでもいい側が優勢だった。というかやらなくていい側の意見にぼくを筆頭とした役者の本気度の問題が指摘された。

本番直前まで台詞は頭に入っていない、役づくりは不完全、おまけに客が入ってるときだけ練習にないことを突発的に行う。
演出として嫌すぎるという意見が出た。
そんなんで「卒業公演」をやっていいのか?
お客にお見せできるのか?
…反論できなかった。

学生演劇、もといアマチュア演劇の抱える問題だった。ちょっと話をひとまとめにしすぎではあるが。
我々はプロではない。故に取り組みの本気度は個人の裁量に任される。
とはいえ、演劇は集団で作る作品。本気度のバラつきは作品のムラでしかない。
共同で一枚の絵を描くとして例え色塗りが上手くても線画がむちゃくちゃだと完成度は下がるようなもので(逆もしかり)(それがアマチュアの味と好む人もいるけどそれは一部の好事家だ)、ノイズにしかならない。

大学から演劇を始めて演技論を習ったわけでもない(演技は教えてもらえるものだと思って入部したが実態は独学だった。ちなみに役のプロフィール履歴書を作る作業は「なんの意味があるんだろう?あんまり役に反映されないし」くらいにしか思ってない。役者に向いてなさすぎる。それと、大体の人は我流か上手い人に教えを乞うのだが生憎ぼくはガチコミュ障だった)ので、それを言われても…とはなるが気持ちは分かる。
ぼくも放送研究部で似たような歯がゆい思いをしていたからだ(勝手にぼくが見下していたり、単にぼくが怠惰なだけだったりはする)。

反論できなかったぼくは卒業公演の中止を受け入れ、ぼくたちの代は卒業公演なしで自然消滅することになった。

て…それで終わったらじゃああの公演は何なんだってなるのでいよいよ本題。

アンコール・卒業公演

卒業公演の中止が決まりぼくは無気力になっていた。人生どれだけ頑張っても結局声の大きい(声量でなく発言力)やつの意見がとおるのだ。

そんなとき、同期からLINEが来た。
「卒業公演ができるかもしれんぞ!」
その知らせを受け、ぼくの感情はバグった。半分中止を受け入れていたから。
嬉しさのあまりよく分からない自分語り長文をその子に送りつけてしまった。ほんとごめん。

どういうことかというと3110が退部を撤回するらしい。どういう風の吹きまわしだ?あんだけ言っても無駄だったのに。
あのときの説得が生きた、と思うのはさすがに感傷的過ぎである。
どうやらあの後後輩たちが3110を説得したらしい。後輩に言われちゃさすがの3110も揺らいだみたいだ。というか後輩の前で卒業公演の取り止めを発表したとき「やりましょうよ」と言われていたが、そのとき明らかに揺らいでいたしな。こ、この、メンヘラがぁ~(おまゆう)

ということで後輩たちが行う本公演の最終日にお邪魔させていただく形で卒業公演をすることになった。
ぼくは本気度問題のことを引きずっていたので部内公演とかでいいのでは?と考えていたが、3110の「最後の公演は客に見てもらいたい」という意見が通る形になった。
3110のわがままで中止になり、3110の気まぐれで公演を打つ。あまりにもな3110劇場を見せつけられているような気がして何だか釈然としない思いがどこかにあった。

演劇部としての終わりとメメントモリ

改めて卒業公演をすることになったぼくらの代。3110が部員にアプローチをかけるという男女トラブルもあってか、当初のプランでは
男子のみの短編、女子のみの短編をやって最後に両方が合流する。
という予定だった。

そんな訳で脚本の男子パートはぼくが、女子パートは部長が書くことになった。
演出は元々高校演劇をやってた、曹ちん(仮名。一騎当千の波が来てたからそう呼ぶことにした。いいのかそれで…?まあでもあの子曹操好きそうだしいいか)

が、女子のメンバーのふみいか氏が参加しなかったので結局男子パートのみとなった。演技の上手い子だなぁと思っていたので残念ではあるがいろいろ思うところがあったようだ。

さて、今回卒業公演の作品を作るに当たってテーマが与えられた。
メメント・モリ。「死を思う」である。

演出担当の曹ちんの中でトレンドで、かつ「演劇部の終わり」にふさわしいということで選ばれた。
このテーマから『いのち、かける、おもい』が生まれたのだが、これがまた(いつもそう、それはそう)難産だった。

全力の芝居のために舞台上で走らせたい、という願望

ぼくの台詞の発し方はアナウンサーみたいだ。
これは元放送部だからそういう発声法になってしまうというのもあるが、普段のぼくの話し方が平坦なせいでもある。
抑揚があまりないのである。

特にこの時期のぼくは「変に抑揚をつける(大げさな言い方をする)とうねりが発生する」とか「大げさな演技の仕方だと小学生の学芸会を想起してしまう」といった誤解をしていた。なので気持ちを作って(るつもりで)演技をしているつもりでも上手く表現できない。

さらに、ぼくの演技は「役の気持ち」ではなく「感情の状態」、つまり怒ったり笑ったり泣いたりという状態になってるだけで、その役に見えない、役者の素を見せられたみたいになっているらしい。

これらの欠点を解決するために当時のぼくが考えたのは「必死にならざるを得ない場面状況を作る」ことだった。
具体的には「ステージ上で常に走り続ける劇」であれば体力的に追い込まれ、その必死さから迫真の演技が引き出せるのではないか?とかんがえたのである。

イメージとしては舞台版弱虫ペダル。ちゃんと本編見たことないけど。ニコニコの切り抜きで見たくらいだし。

いろいろ間違ってるし、一番直すべきは演技に対する考え方なのだが、当時のぼくは気づく由もなかった。

走り続けるのにも、理由がいる

そんな訳で、「舞台上で終始走り続ける劇」の構想が始まった。
部活の時間は脚本のプロット、進捗の確認に当てられ、演出担当の曹ちんに批評、ダメ出しをもらう時間となった。
このときぼくは漫画家と担当編集の関係みたいだなと思いました。

ちなみにこのとき部長も女子パートの脚本を書いていた。そちらは順調そうだったがこちらはあまり進まなかった。

何せやりたいこと・描きたいテーマを漠然としか決めてなかったので「ある男がどこかに向かって走ってる(それは人生の終点かもしれない)、それにつきそう男。二人は道中動けなくなった男に出会う」くらいの、めっちゃ抽象的な(アバウトな)物語になっていた。
だが、特に意味を定めてないし、抽象的なものだと演出がつけにくいので、もっと具体的にする必要があった。

苦悩の中で捻り出したのが「月が欠けた世界」である。

月が欠けた、なんちゃってポストアポカリプスワールド

「月が欠けた世界」という発想は、ぼくの好きな作品である「戦姫絶唱シンフォギア」シリーズ二期の世界観から持ってきた。
月が無くなると天変地異がおこる、というネットから得た情報で「危機的状況下で生きるために走る」という設定にしたのだ(そのわりには食料は朽ちた店のものを漁ったりしている。そんなに持つか?と突っ込みどころは多い。案外北斗の拳的な世紀末ワールドなのかもしれない)。

ともかく、雑に危機的状況を作り、その場でじっとしてると死ぬ可能性があるから走って移動しているということにした。

状況は間違いなくヤバいのに話してることは世界の状況を他人事みたいに話したり、目標がないからとにかく東京に行ってみようぜ!(天変地異で地形が変動してて近くなった、とかいう裏設定)と言い出したり、とにかくフワッとしている。

この作中世界の人はもうすぐ終わる世界から現実逃避してるかいっそ開き直ってるのかもしれない。
ちなみにラストで「これからも生きていく、終わるその時まで…」みたいな感じで締めている。希望的な雰囲気を出してるが、結局終わるのである。破滅に向かう世界を守るヒーローにはならないししたくなかった。

絶望した人を救うために自殺まがいのことをするポジティブキャラis何?

さて、この作品では「目の前で家族が死んだことに絶望して自暴自棄になった男を、ポリシー的に見過ごせない主人公が生きさせようとする」というシーンがある。
与えられたテーマの「死を思う」要素である。

初期の初期(抽象的なときのやつ)だと「共に走り続けるうちに一人、また一人と倒れ、それぞれが人生のゴール=死を迎える」ラストを考えていたが、この展開ではそうはならなそうである。違うラストを考えることになった。

今考えても謎だが「主人公が自殺まがいの行動を起こし、その男に止めさせることで、死のうとしている人を他の人から見たらどう映るか分からせる」という方法を選んだ。
それで説得できるの?って感じがするが、当時のぼくの実感として、「論理的に相手を説得なんてできやしないし、結局感情論がまかり通る」と考えていた。劇中に漂う楽観視に対して諦観のこもった解法を用いることにした。

自殺まがいの行動として飛び降りを考えていた(手を掴んで落ちないようにする場面が絵的によいなと思ったので)が、舞台上で高所からの飛び降りは表現しにくくないか?と思い、「バカだから「壁を壊す」を真に受け、壁に激突を繰り返す」にした。すべてがめちゃくちゃでは?

わりとぼくも自傷癖があって、死にたくなって壁に頭を打ち付けることはままあった。
そんなんだから自己投影タイプと言われるのだ。

演技の壁にぶち当たる日々

そんなこんなで(大分巻き気味で話したがこの時点で10000字越えてるのである)、脚本は完成した。差し迫る締切から妥協してもらった形だけど。

そこから稽古に入っていくことになった。
最後にやる、しかも一回蹴ってる公演である。
稽古の際は初回時点で台詞を頭に入れた状態で来てほしい、と指示された。
が、ダメだった。
全然台詞が入らない。自分で考えた台詞なのに。

そして、演技面もダメだった。
台詞は相も変わらず感情が乗らない。動きが全然ない(勝手なことしちゃいけない癖)し、動きが小さくて、手を上に広げる動きなんかが牽かれたカエルみたいになっていた。

おまけに対立するシーンの稽古の際は3110に「全然ぶつかってこないじゃん」と指摘される始末である。ちょっとムッとなったが、3110の演技は上手い方だとされている(ぼくには他人の演技をジャッジする資格がないので)からなにも言えなかった。

やりたいやりたい言ってても結局お前の本気度はその程度なの?
そう言われているような気持ちになった。

本番直前にかかるエンジン(遅い)

切り替わったのは本番直前のスタジオ入りしてからのリハーサルからだった。

後輩たちの公演のリハーサルを見せてもらったのだが、やはり圧巻だった。
台詞覚えに右往左往しているぼくなんかとは桁違いだった。

そこから刺激を受けたから火が着いたのか演技が乗ってきた(元より芝居を見た後だと演技がのりやすい、気がする)。
今まで稽古してきたのがここで花開いた、といえば聞こえはいいが、多分違うと思う。

これには演出の曹ちんも「もうお前らはそういう(本番で間に合わせる)やつなんだよ」と呆れられたりした。ほんとごめん。

閉幕。老害(ぼく)は去るべし

そんなこんなで二日目にひっそりと卒業公演が行われ、ぼくらの時代は終わった。
公演の後、後輩たちからサプライズ公演(今まで関わった劇のダイジェストてきなやつ)をしてもらい、閉幕した。

結局、どれだけやっても自分を変えられず、演技も下手なぼくはただただ老害でしかないので、後輩たちの邪魔にならないよう、極力演劇部に関わらないようにしようとした。

引退した先輩が現役の後輩たちの部活を訪問する「老害活動」は個人的に害悪だと思っている。引退した亡霊がいつまでも跳梁跋扈すべきではない(無論、すべての老害活動がダメな訳ではないし、本当に歓迎される場合もあるが、ぼくの場合はそのような関係性を構築できてないので…)。

ちなみに余談だが、ぼくらの代の部長と3110は4回生でも関わってたらしい。引退とは?
しかもそれぞれ後輩と付き合ってたとか。
3110に至って新しく入ってきた1回生の子である。

完全に某所で見た「新入生に手を出す4回生」ムーヴだった。

演劇部、なんやかんやでほとんどの女子が3110に好意の矢印が向いていたっぽいし、やはり3110劇場を間近で見せつけられてただけなのでは?と蚊帳の外おじさんは思った。まあ、ぼくは何事にも踏み込まずおろおろしたりニチャニチャしてたから自業自得なんだけどね。

幕引き、カーテンコールに代えて

さて、長々と書き連ねたが、これにて卒業公演の話を終えようと思う。
もう数年前のことだし、記憶違いや勘違いも大分あると思う。

そもそも、ぼくがもたらしているかもしれない被害は少なからずあると思う。意志をはっきり示さなかったこと怠惰だったこと、これらのことは廃されている。嫌われないようにしてたムーブも人によってはキモいかもしれないし。
現にこうして保険をかけようとしている。
こすずるいやつだぜ、こいつ!

「大学演劇部時代、嫌だった先輩の話」と称してぼくをこきおろしても許されると思う。
もし書いたら送りつけてほしい。いや送りつけないでほしい。どっちだよ。送りつけたら厄介な絡み方するから。

ぼくなんかに関わらない方がいい。
ぼくの存在なんかなかったことにしてくれ。
といいつつこの投稿をして記憶に残ろうとしてる。やはりこすずるいしあざとい。そういうとこやぞ。

あの日、細川トシキは旅立ったのだ。
今はお盆だから帰ってきてただけだ。
過去を懐かしんでた亡霊なのだ。
えっ、てか死んでたの?

映画「木更津キャッツアイワールドシリーズ」のぶっさんみたいにみんなに構ってほしがったけどみんなぶっさんの死を受け入れてて大人になってて、でもバイバイを言ってもらえる、そんな感じなの?(そんな話だっけ?)

それか堂本光一主演の舞台「エンドレスショック」みたいに自分がすでに死んでいることにきづいていない幽霊なのかもしれない。

なんの話だよ。

それじゃ。

バイバイ。

細川トシキでした。

ありがとう…(成仏)




最後までパロディなんかい!

(終わり)

更新頻度は低いですが、サポートしていただけると生活が少しばかり潤いますので、更新頻度も上がるでしょう。