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長年付き合っていくにはリスペクトが必要なんだなって

どうも、とったんです。
今回は日記的な覚書です。自己啓発するつもりもマルチを行うつもりもございません。マルチ商法は友達なくすぞ!

・あれから僕らにもいろいろあった

2023年になり、高校放送部を引退してからかれこれ10年くらいになる。
早いというか、時の流れは残酷というか、
子どもみたいなマインドでずっと生きてきたが、もうアラサーである。
いつまでも甘えて寄りかかっている場合でなく、
自立して後任の面倒を見るような年齢になってきている。

大人になるということは行動に責任が伴うということでもある。
いまだに責任の取り方がよく分からず、ふらふらおどおど生きているが。
そんな無責任なこどもおじさんだから上の立場に立てないんだろうけど。
社会不適合すぎる…。

昔は大人になると責任に縛られるようなるとに思っていたが、
逆に考えると、責任が取れる範囲であればある程度自由である。
大人になるということは誰かから責任を押し付けられるだけじゃなく、
自分の人生の権限や行動の選択肢が増えることでもあるのだ。

・俺は成長しているか?

社会と折り合いがつけられていないぼくだけど、責任のとれる大人にならないといけない(なろうとしないとそのまま年を重ねるだけだとここ数年分かってきた)と思うようになってきた。
主体性がないと自分の人生は歩めないのだ。
誰かの言いなりになる人生だと後悔の仕方が指示した人への八つ当たりになるからね。

人の意向に合わせることも必要で、周囲がそういうのであれば、と自分の考えを持たないようにしていたけど、それは思考停止でしかなかったわけで。
自分の意見や考えを持つことは悪いことではないし、他の人の意見と自分の意見をはっきりと区別した方がいい。

まあ、自分で考えずに生きるのって楽といえば楽なんだけど。
じゃあ上手くいかなかったときに誰が責任取るの?って。
そのときは誰かに責任をゆだねた自分が取らなきゃいけないんだよね。

そんな、自己啓発本やセミナーにころっと騙されそうなよわよわメンタル人間ですが、今日もなんとか生きています。何年もつか知らんけど。

横道にそれてしまった。話を戻そう。

・いろいろあったけど、生きてればGoodJob

高校放送部を引退してから10年たった。
放送部で過ごした日々はぼくにとってかけがえのないものであり、
大切な出会いの場であった。
出会い、つっても彼女はできてないけど。品性が終わってる。
よほどのアドがない限り、主体性のない人間に恋人は極めて難しい。

高校時代のぼくのコミュニティは放送部のメンツとクラスの数名くらいしかなかった。ぼくはコミュ力が低いので、高校を卒業した後は疎遠になるんだろうな…と思っていた。関係性を維持していくためには自分から能動的に連絡を行う必要がある。

ぼくは出不精というか連絡下手というか、外部で自分から話しかけるというのが苦手で、多くの関係を取りこぼしてきた過去がある。嫌な実績過ぎる。
というかぼくは、一度断絶した関係は修復不可ではないかと思っていて、温故知新を図ろうとする行為を厚かましい、うっとおしい、最上級だと「気持ち悪い」と思われるのではないかとおびえている。

一方で、久々に連絡をくれた人からの声にはできるだけ答えたいと思ってはいる。つまりは嬉しいのである。案外みんなそうなのかもしれない。
気分の浮き沈みが激しいぼくではあるので、ふとしたこと(自分の思い込みなど)で人との間に壁を作ってしまい疎遠になるケースがざらである。

・これから何して遊ぼう?

それでも、放送部の同期である野郎5人組は今でも定期的に連絡を取り合っている。それはひとえに連絡をまめにとってくれる奴がいるおかげではあるのだけど、それにしても10年来の付き合いとなると話は変わる。

長い付き合いともなるとお互いの嫌なところが目に付くものだ。
人付き合いや人間関係全般に言える永遠の課題だろう。
どこまでいっても「他者」は「気持ち悪い」のだ。

ズッ友とか、いつまでもねんごろに仲良しとかは所詮幻想でしかない。
というか、欠点のない、完璧に無害な人間なんてほぼいない。
人間は多面的である。「誰にでも優しい」ことは「自分以外にも優しくする」ことにもなる。「自分だけを大事にしてほしい」という身勝手な、でも人間らしい感情を傷つける面だってある。

それでも、不思議と関係を維持できたのは「お互いにリスペクトがあるから」ではないかと最近思っている。

・時が過ぎてわかりあう ああ あいつらも同じって

ぼくは、放送部の同期に対してそれぞれに別の形の敬意を持っている。
各個人に対して向けるものもあれば、この集団に対するものもある。
この人たちは「ぼくにない考え方や知識、技術、才能を持っている」。
これは現役のときもそうだし今も割と思っている。

同い年なので時には茶化したりジョークで笑い飛ばすこともあるけれど、
基本的には「こいつらはぼくよりすごい。こいつらとならすごいことが出来る」と思っている。自分がしょうもない人間だと自覚しているのもあるし、ある種の幻想な部分はあるけれど、この経緯は本物だと思う。

高三のときのNコン朗読部門の課題図書に「夏草冬濤」(井上靖)という作品があったが、主人公と文学不良少年グループのあの関係に近いかもしれない。

この他者へのリスペクトの精神は人生、というか人付き合いにおいて大事なことだなと思う。それは同い年であるとか年下だとかとは関係なく、人を見下したりないがしろにしないためにも必要なことではある。
どんな人間にも欠点はあるが美点だってある。
完全な白黒なんて存在しなくて、そこにあるのはその人のその時の立場の視点から見えるものでしかない。

ときには絶対評価や相対評価が必要な場面もあるがそれはそれだ。
良好な関係を長く続けるためにも、ラインを越えてしまわないためにも、
リスペクトは必要なんだと、ぼくは思う。

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