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カクシンがたりない。でも、カクシンはおおすぎないほうがいい。

☆本日の控えめな結論

核心も確信もなくてかまわないが、控えめな革新はあったほうがよい。

  *  *  *

核心が足りない。

足りないのだけど、とにかく書き出してみる。

何を書きたいのか、はっきりもしないのに。

noteでKさんと出会って何かが変わった。

世俗的な話をすれば、ひょっとしてnoteに文章を書くことで食いつなげるかも、という思いが少しばかり濃くなった。

そういう動力がないと書けない人間なんだな、ぼくは。

何かを書こうというからには、書くべきものの核がいる。

核となる塵がなくっちゃ、雪の結晶だって成長が始まらないでしょ。

なのにその核心がないってんだから、しょうがない。

てなわけで、そこらに散らばってる塵の粒を、適当につまみ上げては、気の向くままにためつすがめつして、そこから美しい雪の結晶が成長しないかと、あれこれ試してみるわけです。

この世界というものは、盲目の意志の表象なんだそうで、つまりは豊穣の海という銀幕に映し出される幻の悲喜劇なんですわ。

だから人生なんて結局、暇つぶしにすぎないわけよ、陳腐なものか、高尚なものか、くだらないものか、美しいものか、そいつはあなた次第で、ぼくには分からないことですけども。

そこで核心がないって話に戻ってくる。

核心がないからぼくには分からない。

この世界はばかばかしいものなのか、尊いものなのか、無意味なものなのか、それとも途轍もない価値を持っているものなのか。

あるときは不条理と思い、あるときは神の遍在をこの胸に感じ、そしてまたあるときは、ああ退屈だな、なんかおもしろいことでもないかなと、くだらない夢想で頭を満たしてはふらふらと、路上の砂粒をぼんやり眺めやる日々。

多分ぼくは虹を追い続けているだけなのでしょう。

まったくの空(くう)から生まれた、プラスマイナス・ゼロのこの世界に、初めから備わっている明らかな価値があって、自分はそれを覚知する特権があるのだと、なぜだか勝手にひとり合点をして、そうしてそれがどうにも実現してくれないものだから、自分の殻に閉じこもって、いじいじいじと無為のときを過ごしているだけなのに、斜に構えて、かっこをつけて、自分は何でも知ってるんですよと、誰かの歌みたいに空っぽのポケットを大きく見せかけては、そんなことでいい気になっている、ちっぽけな井の中の蛙(かわず)なのです。

そうです、あの空にかかる雄大でとらえどころのない虹に向かって、ぴょんぴょんぴょこぴょこ、のたのたのたりと、何の核心も持たず、ちっとも確信もないのに、ただただ惰性というものに任せて、進んでいるつもりでいるだけの、ぐるぐる同じところを回っているだけの、憐れなカエルの物語なのです。

  *  *  *

とまあ、そういうわけで、核心もなけりゃ確信もないのが実情ではありますが、還暦もだいぶ近くなってきた身といたしましては、どうにかこうにか亀の甲より年の功、おぼろげながらに分かってきたこともござんして、というのはあなた、確信なんてものは、別になくたって一向にかまいやしません。

多分こっちのほうかなあと思って歩いていって、違ったら戻ってもいいんだし、初めの目的とは違っても、別の何かが見つかるかもしれないんだし、行き当たりばったりで結構じゃないすか。

もくろみ通りに生きる人生なんて、つまらないもんじゃないすか。

どこにたどり着くのか分からなくても、寄り道ばかりで一向に目的地に近づかなくても、それどころか「目的地、どこだったかな? そんなの忘れちまったよ」くらいのいい加減さであっても、とにかく生きてりゃ儲けものってわけでして。

で、犬も歩けば棒に当たるって話もありますわな。

金妻さんという、ネットの片隅の掲示板で出会って、もう20年以上になる古い友だちがおりまして、しばらく前からnoteでも書いてらっしゃるのだけど、その方が父親を主題に小説を書いてらっしゃいましてね。

冒頭にちらと書いたKさんがそれを読んで、お父さんの出てくる不思議な夢を見たというんですな。

Kさんは書くのもうまいが、読む方もかなりの人ですから、いつの間に金妻さんを、と思いましたが、知っていてもまったく不思議なことはないわけでして、世界というのはこうしてあちこちでひょいと意外なつながりを持っているもんですから、何とはなしに楽しくなりますわな。

それが今月の初めのことで、そんなこともきっかけで、このところあちらこちらとnoteを探索して、見知らぬ方の書く物を拝見しておったのですが、垂直居士さんというおもしろい名前の方をお見かけしまして、つい最近知り合うことになりました。

垂直氏の文章には、わたしが書いてる調子とも少し似たものを感じて、親近感が湧く方なのですが、この方が今度は、Kさんの書いたお母さんの話……

……が、自分の母親との関係ととてもよく似ていると書かれておりまして。

これはKさんの書いた文章がとても味わい深かったので、わたしが紹介したところ、それがたまたま垂直居士さんのお目に止まったとのことで、ああ、こうして偶然に偶然が重なって、一つの必然が生み出されていくのかなあと、ちょいと感慨深い想いをいだいたのでありました。

  *  *  *

核心もなければ、確信もない。

けれども、そんなものはないならないでいいのだ。

そういうはなしをしてきましたが、さてそれでは革新についてはどうでしょうか。

なんだていいちさんというへんしゅうしゃのかたが、『ぶんがくしょうをじゅしょうするためには「あたらしさ」がひつようだ』というきじをかいてらして、それはそうだろうなとおもいました。

そして、とはいってもひらがなだけでさくひんをかいて、あたらしいでしょ、といってもそういうこてさきのことではいっぱつやでおわるだけだ、ということがかいてあって、ひらがなずきのぼくは、あははとわらいました。

にほんごは、「かんご」という、ちゅうごくからかりてきたことばをたくさんつかうために、どうおんいぎごがおおくなってしまい、とてもふしぜんできみょうなげんごになっている。

そんなことをかんがえていたときがあります。

それでぼくは、なるべくかんごはつかわないようにしているので、こうやってぜんぶひらがなでかいても、それほどよみにくくはないぶんしょうになってるはずだとおもうのです。

とはいっても、きれめがわかりにくくなるので、やっぱりよみづらいですよね。

でも、革新についてのはなしなので、あえてこのままひらがなでかきます。

にんげんは、なじんだものをみると、あんしんします。

けれども、おなじものばかりみていると、つまらないとかんじます。

そして、めあたらしいものをもとめます。

このなじみとめあたしさのばらんすを、どうとるかがもんだいってことですよね。

ひらがなばかりのぶんしょうからは、なんだかこどもっぽいいんしょうをうけるな。

そんなことをかんじたりして、はじめのうちはおもしろくもおもうのですが、ながくよんでいると「なじまない」ので、もういいよ、おなかいっぱい、というきもしてきます。

なので、漢語だけは漢字をつかうことにして、日本語の変態性についてもう少しかたることにしましょう。

空(くう)ということばがあります。もともと仏教のことばですが、「なんにもない」という程度の意味です。

一方で、空(そら)というよみもあります。

さらには、空(から)というよみまであります。

しかも、殻(から)ということばもあります。

「空から生まれた」では「そらから」なのか「くうから」なのかわからない。

殻ということばは、なかみが空(からっぽ)になるのと意味的に関係があるのに、漢字を見ると「殻と空」で、全然別のことばにしかみえない。

そして「かくしん」と、みみからきいただけでは、核心か、確信か、それとも革新なのか、さっぱりわかりません。

けれども、だからといってほかの言語にくらべて日本語がおとっているというわけではありません。

日本語には、やっかいではあるけれど、そういう特徴があるというだけのはなしで、むしろこのことが、日本語に特有の、かきことばとしての表現の豊かさをもたらしているのです。

そして漢字とひらがなのほかに、カタカナまであります。

この三つの表記法をどういう塩梅で使っていくかで、一つの文体が生まれるわけですし、そこに哲学を表し、何かを主張し、人生を写し出すことだってできるのです。

というわけで、かくめいてきにあたらしい、ひらがなだけのぶんしょうはちょっとつらいので、ヒカエメにカクシンを盛り込むことにすると、人生ケッコウ楽しくなるかもしれないよ? というようなお話でした。

いつものごとく、もう一つまとまりはつきませんが、それではみなさん、ナマステジーっ♬

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