タイテイの人には区別できないこと。
「この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。
そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人にはそのふたつを区別することができない。」
海辺のカフカで登場する、大島さんの言葉。
最初、「ん?」となった。
しかし、読めば読むほど引き込まれ、
自分の中で例えを探し出した。
「あれでもない、これでもない。」
嘘はあかん。引き込まれてない。
正直に言おう。それがnote。
“たいていの人”になりたくなかった。笑
けど、とにかくこの文章の意味を理解し、
自分の中で昇華させたかった。
自分の文章に書き換えたかった。
前後の意味合いも多少含むが、
僕の中の解釈はこうだ。
「正解があるとつまらない。心が引かれない。例えば、ふとした休みの日に炒飯を作るとしよう。それは退屈じゃない。そして、炒飯を作るという正解はみたしている。しかし、毎日炒飯を作ると飽きる。食べる事に飽きるんじゃない、作る事に飽きるのだ。じゃあ世界で1番美味しい炒飯を目指している人はどうだろうか。醤油の量,タイミング,火加減などなど、計り知れなく退屈なことを模索し、挑み続けているのだ。しかし、飽きない。そこにその人のオリジナリティが出て、人々はその味に心引かれる。」
「ながっ」
「改行してくれ頼むから」
「あさっ」
「奥ゆかしさの欠片もない」
「うすっ」
「村上春樹に謝れ」
あ、幻聴が聴こえる。
でもね?
2日間
書いては消して
考えては葬られた
80000字
退屈だけど飽きない。
そういうことでしょ?
“たいていの人”になりたくなかったら
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