第7話 社会人時代(佐賀新聞編)

東芝エレベータの初代社長の孫ということで鳴り物入りで入社した私。
そして、ここに自分に居場所は無いと感じ次のステージに選んだのはなんと、将来性が全くない新聞業界であった。

縁あって佐賀新聞唐津東部販売店のオーナーを任せてもらえることになり転職したが、新聞社は別として、新聞販売店なんて貧乏人がする仕事だろうと思われがちだ。

しかし私がした販売店は年収が1600万を超えていたと思う。
そう、新聞屋は儲かる職業だったのだ。

しかし、新聞屋になりたいと言っても簡単にはなれない。
佐賀新聞の場合はまず販売店の権利を新聞社から買わないといけない。
その当時は1部当たりの購読料は2905円だったので、2905円×配達件数分を権利金という形で買わなければいけないのだ。

例えば私がしていた時は1500部くらいだったと思う。
1500部×2905円=4,357,500円がまず必要である。
そして保証金というものも必要であり、こちらも4,000,000円ほどかかる。

運転資金うんぬんの前に上記金額を用意しないとお話にならないのだ。
そしてそこから最低でも運転資金2か月分、そしてマシンなども数百万かかるので、とりあえず私は1800万円ほど調達をした。

いざ新聞屋をすると最初の試練はマシンの扱いである。
新聞屋なんて新聞配達をしてればよいと思われるかもしれないが、昼間に新聞に調合するためのチラシを纏める作業が本当に大変だった。

朝10時過ぎに様々な会社のチラシが届く。
会社ごとのその塊を1枚1枚ミックスしていく必要があるのだが、これが超肉代労働なのだ。
紙は季節や湿度等で全く違うものに変化し、静電気なんかあろうものなら全部がくっついて剥がすのが本当に大変である。

紙に風を送り込むために通称ブルッタ君というブルブル震えてエアーを送る素晴らしいマシンがあるのだが、それを使いこなすのも熟練の技術がいる。

私はこのチラシをマスターするためにひたすら研究を重ね、最終的には紙と対話するという神のレベルまで達した。

紙は生き物である。
風を送り込むために愛情をこめてこねくり回さないといけない。
少しでも愛情不足だとヘナヘナとしなり紙の間に風が入らない。
これが出来るかできないかで同じ作業で数時間変わってくるのである。

そして20段ほど積み込めるマシンに1社ごとのチラシを突っ込みボタンを押すと、チラシが1まとめになるのだ。
このまとまったチラシを夜新聞が届いたときに手で入れて配達に行くのである。

感覚値であるが昼間の仕事が8割、夜配達に使うエネルギーが2割という感じであった。

昼間の作業はただ黙々とチラシとの真剣勝負を強いられる。
そしてそれが終わると、営業に出かける。
新聞を持ってエリア内の各家を突撃訪問し、無料新聞を配っているので読んでくださいという。
エレベーターの時の押し売りを思い出すが、あれに近い修行のような仕事である。

ちなみに新聞を読んでいる人は好みがはっきりしている。
読売が好きなのか朝日が好きなのか、はたまた毎日か西日本か日経か。
そんな好みが決まっている人間に突撃し佐賀新聞のファンに変えようとする試練。
例えるならmacが好きな人にWindowsを売るようなものである。

そして1番困ったのが、新聞屋は本当にあくどい。
90歳を超える老人に10年契約をしたりしているのだ。
普通の家でも5年契約などざらにあり、一生懸命頑張っても5年先の契約しか取れないのである。

ただでなくても衰退するなかで増やすというのは至難の業である。
そんな中私は新聞屋をやっている8年間ずっとNO1の成績を出した。
部数も延ばし、一時期は営業に使う新聞が無くなり新聞社に特別に送ってもらったものだ。

ちなみに新聞屋は新聞社から新聞を買ってから販売している。
そして毎年上積みノルマが与えられ、契約が減っていようが半ば強制的に無理やり増やして買わされている。
この業界は狂っているようなことが普通にある。
新聞社は一応は主要メディアとして君臨しているから信用できると思っている人がいるかもしれないが、その考えは無くした方が良い。
この業界は完全に終わっている。

まぁそんなことを言いながらそれなりの年収を貰っていたから、その点は感謝をしていたりもする。

ちなみに新聞の思い出をいくつか話すと、私が新聞屋をしたすぐの時にチャンスと察して西日本新聞の販売店から総攻撃を食らった。

西日本新聞に変えてくれたら半年契約で半年無料サービスをつけるということや、ビールも何ケースも付けるというもので解約が続出したのだ。
半年無料?なんだそれ。
そして物で釣り契約を取る馬鹿な人間たちの集まりである。
完全に公取が入るようなアウト案件なのだが、そんなこといくらでもあるのが新聞業界の普通である。

私は売られた喧嘩は買う方なので本気で戦った。
エリアを全件訪問し、どの家にどのような人が住んでどのような家族構成でキーマンは誰かなど細かくデータを取り継続してフォローをした。
そうして地道ではあるが契約を取り続け、最終的にその販売店を廃業に追いこんだ。

勝負の世界は生きるか死ぬかである。
どのようなビジネスでもそうだが、例えばライバル会社から仕事を1件取るとしよう。
契約を取って喜んで達成感を感じて終わり、それが普通だと思う。
その背景まで考える人間は少ないが、例えばその1件があることで爺ちゃんばあちゃんを養っているかもしれない。
小さな子供を育てているかもしれない。
自分が仕事を取り続ければその家、その家族を殺すことになるかもしれない。
だから命がけの反撃もあることを想定しなければいけない。

私は仕事をするときは命がけでやっている。
極端な話、殺すか殺されるかくらいの覚悟でやっている。
今不動産屋をしているが、まさにその思いで取り組んでいたりもする。

時が時なら、刀を抜いて戦いに来たのであれば、戦わないとやられるだろう。

ライバル店が廃業になる少し前、私はその販売店に乗り込みオーナーと直接話をした。
その時は辞めることなど分からなかったが、違反の契約が酷かったので乗り込んで直接対決しようと思ったのである。

佐賀新聞の仲間内でもあいつは危険だから喧嘩するなと言われていた。
新聞屋にはまともじゃない人間がいたりするので、そういう意味で危険ということだった。

直接店舗に乗り込むと、そいつがいた。
名前を名乗ると向こうも私を知っていたので何しに来たのか聞かれた。
要件は向こうも分かっている。
なので、今日来たのは「うちと本気で戦う気なの?やるなら本気でやろうぜ」ということを言ったと思う。
違反しようが何しようが別に構わないけど、やるならこっちも容赦なくやるよということを言ったら、向こうもやろうということを言った。

お互いに戦うという宣言をしたら話は早い。
自分の中でも別に良い悪いはもうなくなり、やるかやられるかに切り替わった。
そして本気でやってやると決め気合を入れて帰った2ヵ月後、その店は廃業した。

私が行ったときはすでに廃業を決めていたようだ。
唐津にある全部の新聞社のなかで1番大きい店。
佐賀新聞の他の販売店仲間にもあそこと戦うのは勝てないから止めろと言われ、新聞社からもやめろと言われていたが、数百の契約を奪ったことで戦いに勝つことが出来た。

私だけの成果でないのは分かっている。
時代の流れで新聞の購読者自体が減ったことが最も大きい要因だ。
それに新聞に入る折込チラシの収入が落ち込んだのも理由の一つだろう。
でも、唐津で1番大きい販売店を倒したときは嬉しいというより、なぜか複雑な気持ちになった。

直接会ったときも、奴は自分に、俺は今までいくつも販売店をつぶして今があるんだと豪語していた。
それは仲間からも聞いていたので本当のことだろう。
でも、廃業を決めていたであろうその場でもそのようなことを言うのは、かつてイケイケで戦って勝者として君臨していたことを想像すると、最後の強がりは空しく感じた。

書きながら、確かにこんなこともあったなと思い出にふけっている私だが、別に戦いを好んでいるわけではない。
世の中の矛盾に対し変えなければいけないと人より強く思う方なのである。

ちなみに新聞屋をやって良かったなと思うことは、配達後に夜景と朝焼けを見たことだろう。

人間って本当に不思議だ。
例えば夜景の光ってすごくきれいに感じるけど、その一つ一つを見てみたら、ひょっとしたら喧嘩をしていたり、暴力をふるったり、悲しい光もある、でもそれも含め綺麗と感じる。
ある意味、何も見れていないということを表しているが、全て含めて綺麗と感じられる、これって良くも悪くも人間に与えられた才能だと思う。
きっとすべてを直視すると人間は耐えきれないんだろうな。

それと皆が寝静まっている朝の5時に配達が終わり帰る田んぼ道。
誰もいない、空気も凛として自分だけが世界にいるような感じがする中で、50ccのバイクをかっ飛ばし朝日を浴びる。
あんなに綺麗な朝焼けを見れたのは新聞屋をやって本当に良かったと思える一つである。

ちなみに点と点を繋ぐ発想力の話をするが、新聞屋がこれからも生き残るためにはどのような方法を取るのが良いだろうか。
地方紙というところで私が考えた唯一の方法はこれである。

私が佐賀新聞に提言していたのは、佐賀県中の全ての世帯に新聞を無料で配ることしかないということを言っていた。
そうすれば様々な新聞がある中で競争が起らなくなる。
そして佐賀新聞に広告を載せる=100%全世帯に行き渡るということを考えると、無条件で新聞紙面の広告価値も上がり、チラシの量も増大するため、県内の広告業を押さえることに成功する。

ただそれだけでは地盤が弱いため、1店舗1事業をするということを進めていた。
私が佐賀新聞の中で多角経営の承認を得た第1号であるが、例えば自分は保険会社、自分は水道工事会社、自分は電気工事会社、自分はハウスクリーニング会社、自分は不動産など、生活を支える領域を網羅し、佐賀県中の全世帯に無料でチラシを入れられるため、今日は保険、今日は不動産、みたいに日替わりで入れたら、新聞で稼ぐお金よりも大きな利益を生み出せると思う。
ノウハウの共有をすれば、地元に根差した1店舗複数事業も難しくないだろう。
1事業により日銭を稼ぐことも大事だが、そこから得られる全てのデータが本当はとてつもなく重要なのである。

そんなことをずっとやろうと思ったら、テレビCMで流れている暮らしのマーケットに先を越されてしまった。
あちらの操業が2011年だから、私と同じことを考えている人がいたんだと後から知った。

この話はリフォーム業をしていた時の話で詳しく書くが、私は新聞業界を救いたいという考えだったからミクロ的な考えであった。
ただ暮らしのマーケットはどちらかというとマクロ的な考えで市場をとらえ拡大していった。

ただあちらの欠点は、業者のスキルやレベルなど審査しないため、ハウスクリーニングも下手糞が沢山居て、引っ越しなど頼めば素人に毛が生えた人間が来るなどそれはそれはお粗末だった。

不用品回収も普通にさせているが、あれも法律違反だ。
一般家庭から出る不用品は一般廃棄物という扱いなので、産業廃棄物と異なり、役所に登録された業者しか本来回収は出来ないのに普通に募集している。

そして何より1番の問題が、普通に仕事が取れない人間が暮らしのマーケットに登録して安売り合戦をしている。
1番注文が取れるのは1番安い人なので、2番手になれば仕事が来ない。
仕事が来ないからまた下げるという具合で、今なんかエアコンクリーニングは一台5000円である。
暮らしのマーケットが無条件で2割を抜くため、税込み4000円でやっている。
はっきり言って頭おかしいんじゃないかとさえ思う。
こういうのが日本の低賃金化を助長している、だからこのサイトを私は正直好きではない。

単価が安くなれば質が落ちる可能性は高くなる。
質が落ちないように出来るところが一人勝ちできるが、これは相当な覚悟と仕組みを作らないといけない。
だからこそ中抜きなどされずに自社ネットワークで全てを保管できる1店舗1事業をしたかった。

ただ、私は多角経営にチャレンジしたが他の店舗は誰一人続かなかった。
正確に言うとしたくても資金的に限界が来ており、もうすでに手遅れだった。

私が携わった業界が衰退していくのは見ていて本当に忍びない。
自分たちのエゴで出す記事ではなく、読者と双方向で繋がる紙面にしてほしかった。

意外と知られていないが、新聞紙面に載っている写真は購入することが出来る。
特にスポーツ大会で記者が写真を撮り本人の同意も得ずその写真を掲載し販売したりしているが、どうせやるなら一般のカメラ好きの人に撮影させて販売の窓口を作ってあげたら、記者が撮影するより凄い量で質の良い物が沢山集まったろうに。

参加した人も小遣い稼ぎが出来、またやる気になるからより質の良い写真がたくさん生まれる。
買いたい人も自分の子供の写った最高の写真が沢山あれば買うだろうし、皆が参加できる場所が出来る。

どの業界も変わるというのは難しい。
人間の本能的に変わるというのは出来ない構造である。
動物の世界で言えば、今までと違うことをすると死ぬリスクが高まる。
だからそんなことを脳はさせようとしない。
だから転職も出来ない、構造改革が出来ない、新しいことが出来ないのである。

まぁもう新聞業界は手遅れなのかもしれないが、不動産業界もチャットgptでは消えるランキングに入っているし私も消えるのは時間の問題と思っているので、手遅れになる前に生き残れるように頑張らなければいけない。

ちなみに余談だが、佐賀新聞は夕刊がない。
そのため生活リズムは非常にやりやすかった。
深夜1時に起きて新聞が到着するのを待つ。
1時30分に新聞が到着すると同時に新聞にチラシを入れる。
2時くらいから配達員がちらほら来るから、ひたすらチラシを入れる。
3時には入れ終わり自分も配達に出かける。

私はコンビニ廻りと鏡山と言う所に毎日登った。
深夜3時の鏡山。
2箇所に入れるためだけに往復1時間、赤字である。
そうしてやはり、誰もいないから怖い。
たまに何故か懐中電灯も付けずに徘徊している人がいたりする。
最初は怖かったが、いつからか顔馴染みになり多少ではあるが会話するまでになった。

トラブルが無ければ全てが終わるのが4時。
ここから朝ごはんを食べて寝る。
そして10時に起き、チラシの枚数にもよるが15時くらいまでマシンでチラシの調合。
そこから営業や集金に行く。
完全に落ち着けるのが20時。
ご飯を食べて風呂に入って寝るのが22時。
それを355日繰り返す。だから1600万もらっても当然と言えば当然かもしれない。

電話も24時間かかって来るので眠りながら電話を取り会話をするテクニックを覚えた。
聞いたことは頭にはうっすらとしか覚えていないが、なぜか無意識にちゃんと紙に書いている私。
そして寝ていたのに、さも起きていたような元気な声で電話に出る特技まで習得した。
こんな感じになれたから、今も昼夜問わず仕事を休まずやれている。

エレベーターもそうだが、新聞は実は不動産屋とめちゃくちゃ凄い親和性を持っている。
この知識を持っているのはきっと私しか日本に居ないだろうが、不動産屋が生き残るためにはこの2つの業種はとんでもないくらい大事だったりする。

その話はまた後日お伝えするとして、新聞屋は過酷だと言うことを話しました。

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