生とはどこにあるのだろうか

初めに

 学問的にこの問題に対して取り組むのも一つ面白い視点であると思います。

 ですが今回は学問的な話ではなく、直感的というかもっと生活に近い部分で僕が思ったことをそのまま書き連ねていこうと思います。

視認できない人間の生

 僕は今大学にいます。目の前には窓があって、キャンパス内を歩く人たちがよく見えます。

 この人たちは間違いなく生きています。自分たちの意思か、命令かはわかりませんがたくさんの荷物を彼ら・彼女らの手で運んでいます。

 僕は彼ら・彼女らが生きていると明言できます。

 さて、少し視点を上げてみると線路が見えます。線路があればもちろん電車が来ます。そりゃそうだ笑

 ですが、残念ながら僕の視力では電車の中は視認できません。何人乗っているかもわからなければ本当に人が乗っているのかもわかりません。

 ですが、僕たちは経験則上電車の中には生きている人が少なくとも1人は乗っていそうだとわかります。

 その「経験則上」想像している人たちは僕の視点から生きていると言えるのでしょうか。

 僕は生きているとは言えないと思うのです。なぜなら、僕たちが「経験則上」想像するのは過去の景色であって今の景色じゃないからです。

 仮に今電車に乗っている人をA,B,Cさんとしましょう。ですが、僕が想像上で電車に乗っけているのはDさんだけだとします。

 そうすると、A,B,Cさんはいるはずなのに僕の視点からはいないことになってしまいます。

 いるはずなのに、僕の視点ではいないものとして扱われるわけです。これが生きているって言えるのでしょうか。存在自体が矛盾を含んでいるのに。

 今は身近な例を挙げましたが、世界に目を移せばいくらでもあります。アフリカの子供が、なんて言われますが僕たちには視認できない。

 その結果、「アフリカの子供たちが懸命に生きようとしています」って言われても想像するのは身近な人たちです。

 日本は比較的裕福な国ですから、どれだけ想像をしてもアフリカの景色はわからないでしょう。

 つまり、僕の視点で「生かされている」状況だと思うんです。別に僕が偉いとかじゃなくて、生きている、という能動的行為はできずに僕のイメージで受動的に作られて僕の脳内で勝手に動かして「生かされている」。

最後に

 本当はもう少し突っ込んで色々書きたかったんですが、すごい量になりそうなので今日はここまでで笑

 僕の考え方が合っているとか、合っていない、とかっていう話はどうでもいんです。

 ですが、「生」と言うものに対するさまざまな視点を持たないとそれはいつか怖い結論を生んでしまうと思います。

 視認できたとしても、どれだけ仲良くなったとしても、あくまで他人で合ってその考え方が100%理解できるわけがない。

  「生」とはそう言うもので、だからこそ考え方に正解・不正解はな愛と思うんです。

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