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日本人としての教養 ~七夕はなぜ7日なのか~

おはようございます。
今日から1週間の始まりですね。
先週、帝国データバンクからの情報で飲食店の倒産が過去最高のペースで推移しているという話がありました。
5月までのペースは308件で、昨年度比較では14件ほど多いのみに収まっていますが、徐々に経済活動が再開されてくる中で、事業継続に対して見切りをつける経営者はこれから増え、これから倒産が増加するとみられています。
実際に、在宅勤務下での家飲みなどで今後は外食回数の減少とコストパフォーマンスを意識された店選びが増える傾向になるだろうという予測です。
私自身も、いけばなとは別の仕事として事業者様向けの経営指導をしているため、こういった情報を活用しながら、できる対策を取っていくことを提案していこうと思っています。
それでは今日も七夕に関してのことを中心に書いていきたいと思います。
自己紹介が入りますので、ご存じの方は飛ばしていただけると幸いです。

簡単に自己紹介

初めまして!
ご覧いただきありがとうございます。
田中俊行と申します。
私は金融業界出身で現在日本文化に携わる仕事をしています。
元々、実家がいけばなに携わる仕事をしていたのと、大学時代の専攻が美学だったこともあり、回りまわって現在は仕事の6割くらいを日本文化に関係する仕事をしています。
残りの4割は公益社団法人の運営とその1事業として補助金申請や経営計画立案など中小企業者様向けの経営に関するコンサルティング業務を行っています。
金融業界時代は証券業界に所属していました。
主には資産規模で5億以上の地域の富裕層をターゲットとして、金融だけでなく不動産などの金融以外の資産管理の助言を行っていました。
そのあと、自分自身が所属する日本では会員数最大、歴史は最古の流派である池坊華道会に所属し、2年間中で会員管理や、全国のいけばな教室のサポートを行っていました。
noteをやり始めようと思ったのは、以下の理由からです。
①日本の生活文化についてもっと多くの方に知識として知ってもらいたいということ、②日本は経済活動を中心に戦後復興を成し遂げてきたために、現在あまりにも文化的な教養の無い人が多いと感じるために多くの方々へメッセージとして届けたい、この2点です。
私自身、SDGsをEducate、いわゆるSDGsを教育するESD(ESDはこちらへ)ということに関心を持っていてそれに個人や公益社団法人の理事として取り組んでいます。
古くから日本の生活文化の中には、SDGsの持続可能性という言葉が無意識ながらに取り込まれていることを1つの研究材料として私自身がとらえる中で、日本の文化の独自性についてより知ってもらいたいと思ったのが日本文化の発信活動をはじめたきっかけです。
グローバルな舞台でも、AI化が進む中でも、より国民性や個性といったそれぞれが持つ多様性が大切にされる時代になっていくことと感じています。
それぞれが持つ独自の個性やその集まりであるその国の持つ文化が、世界平和の礎となるようにと思っています。
いけばなの先生をしている手前、いけばなに関することが中心になるかと思いますが、皆様の生活の中での参考になれば幸いです。

前回のおさらい

七夕は奈良時代に中国からその伝説が伝わりました。
起源は中国の漢水のほとりにあった牽牛・織女の物語でした。
中国では七夕(しちせき)と呼ばれる行事が、日本には奈良時代に中国から伝わりました。
一方、日本には奈良時代以前から、乙女が水辺のほとりにある高床の棚とよばれる小屋で機を織って神を待つ行事である”棚機(たなばた)”と呼ばれる行事がありました。
この行事が、中国から渡来した七夕(しちせき)と合流し、結果、七夕(たなばた)と呼ばれるようになったようだ、という話でした。
そして、七夕の花はナデシコから始まっているということも触れました。
今回はもう少し突っ込んで話をしたいと思います。

誰が七夕の行事を日本に持ち込んだのか

中国の七夕伝説を日本にもたらしたのは、遣唐使たちと言われています。
また飛鳥時代後半の平城遷都(710年)までの日本美術史上で白鳳時代と呼ばれる時代に伝わったのではないかといわれています。

相撲と七夕の関係

当時、養老律令において7月7日は節日に定められていました。
734年の7月7日に、聖武天皇が相撲をご覧になり、という記録が残っているようで、7月7日は「相撲の節会」とされていたようです。
この「相撲の節会」は、現在だと8月上旬過ぎるくらいで、これから収穫の季節を迎えるための豊凶を占う行事だったといわれています。
「相撲の節会」は824年7月7日に平城上皇が崩御したこともあり、7月7日が国忌日 になってからは7月の下旬に行なうことになったようです。
このようなことから7月7日に現在のような七夕の行事がすり替わったのではないかといわれています。

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天の川について

中国においては天の川を渡るのは織女ですが、日本においては『万葉集』の七夕の歌が百数十首詠まれている中で、船を漕いで天の川を渡るのは牽牛であることが圧倒的に多いのです。
一方で、日本の漢詩の中では織女が渡るのも見かけれます。
こういった内容のわずかな変化は、中国の文化を受け入れることにおいて、もともと中国の詩である漢詩はそのままの形で受け入れられ表現されていますが、日本の歌がそれを受け入れるには日本化する必要があったのではないかと想像されます。
日本では当時、妻問婚の時代であるから、牽牛が通って行くと読みかえたのではないかとかんがえられています。

妻方に婚舎をおき,夫がその家に通う婚姻の形式。
訪妻婚ともいう。昼間は夫婦別々で,居住を異にするのが普通である。
日本では飛騨の白川村の例が有名であるが,世界各地で広くみられる婚姻形式である。
インドのナヤール族のような母系社会でよくみられ,子女は母の氏族に属し,夫は毎晩妻のところに通い,翌朝自分の家に帰って労働を行う。
このほか妻問婚を一定期間,たとえば初子が生れるまでとし,それ以後は夫方の家で夫婦生活をおくる例もしばしばみられる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

日本にも天の川が存在する!?

天野川(あまのがわ)は、大阪府四條畷市と奈良県生駒市との境に発し、大阪府枚方市で淀川に合流する一級河川。
出典 Wikipedia

奈良県生駒市の田原地区を源流とする河川で、私市を抜けて枚方で淀川に流れ出る川です。
『伊勢物語』に、惟喬親王が交野の渚の院での桜狩の帰途、この「天の河」のほとりで酒宴をはった話が伝わっているそうです。
その酒宴の歌詠みの中で、棚機津女を登場させ、天野川と”天の漢水”である天の川を掛けて歌を詠んだといわれています。

なぜ7日なのか?

旧暦は月の満ち欠けで日にちを数える仕組みです。
当時、人が把握できて確実に変化が一定だったのが月の満ち欠けだったことから、このような暦の仕組みができたのだと思います。
旧暦における7日や8日はどういう意味あいがあったのでしょうか。
7日や8日というのは旧暦において結構重要な意味を持つことが多かったようです。
例をいくつか出します。
まず、五節句の最初「7日正月=七草の節供」があります。
正月の一連の行事の締めにあたるもので、いわゆるエンディングや閉会式にあたる行事です。
そして、「7日盆」があげられます。
お盆の準備を始めると云われる日で、お墓の掃除など仏様や先祖様を迎えるための準備を始める日です。
他には「事8日」という行事もあります。
農業においては2月は事始め、12月は事納めになります。
また、4月8日は「お山始め」「花見八日」などとも呼ばれ、山の神が田へ降りてくるのを迎える祭日です。
この日には農事をしてはならないとされており、「卯月八日に種まかず」と言われます。
お釈迦様の誕生日である灌仏会も4月8日におこなわれます。

北伝仏教が伝来した地方では、一般に釈迦の誕生日は中国暦4月8日とされているが、その典拠は必ずしも明らかではない。インドと基本的に同系統の暦を用いる南伝仏教圏では、釈迦の誕生日はインド系太陽太陰暦第2月15日としてウェーサーカ祭で祝う。インド暦2月は中国暦で4月から5月に相当するため、中国暦4月に翻訳されたと考えられている。
出典 Wikipedia 

典拠が定かでないので、おそらく中国暦で4月になるということから、日本に入ってきたときに4月8日になったんだと思います。

月の満ち欠けとの関係性

7日、8日という上弦半月の日は、下弦の22日、23日とともに、望月を中心とした神事の日であったのではないかと考えられます。
7日正月は満月の15日に豊作の祈願や家内の安全の祈願をする行事である”小正月”前の半月の日であり、7日盆は15日の盆前の半月の日であるということなんだろうと思います。
満月が最も重要視されていて、そこに向けてその前の区切りである半月の7日や8日に色々と行事を行っていたというように考えられます。

本日のまとめ

遣唐使が日本に持ち帰った中に、七夕の行事や物語があり、もともとは相撲の節会だった7月7日が、現在の七夕行事にとってかわられるようになりました。
7日に行うのは、旧暦における15日満月の前の区切りである半月が行事として古くは重要視されていたということです。

最後に余談ですが、、

中国では織女が川を渡るのに対して、日本では牽牛が川を渡るという形に物語の小さな変更があったということもお話しました。
この話を聞いていて、文化的背景が違うところに何かを伝えてそこに馴染ませるということは、ある程度の形態の変化もやむを得ないということを私は感じました。
いけばなにおいても同じことがいえます。
宗教などの文化的背景が近い台湾や中国といった地域では一定数拡大と浸透に成功しています。
一方で、文化的背景の遠いアメリカでは、生まれと育ちが日本で現地の方と結婚、もしくはご主人の赴任でついていった奥様方がいけばなの先生として活動していらっしゃるケースが多いだけで、本当の意味でアメリカという国土にいけばなが浸透しているかというと疑問に感じるところがあります。
最近、SDGsが万博テーマになったこともあり関西を中心に盛り上がりを見せています。
ここでよく考えておきたいのは、SDGsはあくまでユネスコが掲げた17の目標であるということです。
ユネスコは設立はイギリスで、本部は現在パリにあります。
過去の事務局長も日本人は1度だけあるものの、大半が欧米の方で、総会開催もほぼ8割がたがパリで行われています。
ユネスコの決めた17の目標であるSDGs自体、ヨーロッパ的な考えに基づくものだということなのです。
日本人とヨーロッパ人はそもそも、17世紀ころまで城壁に囲まれた暮らしをしていたヨーロッパ人に対して、日本人は開かれた自然の中に町を作っていたわけで、自然観一つとっても全く違うと思います。
そういう意味でも、SDGsの17の目標のようなものをそのまま鵜呑みにして取り組むというのも分かり易くていいのですが、日本という国の実態には即さないのではないかと感じています。
その辺りの是正をこれからもっと訴えていかないといけないのだろうなと感じています。

今日もご高覧ありがとうございました。
引き続きよろしくお願いします。

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