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革の話。

今夜は「革」について雑談をしてみたくなった。ご興味があれば最後まで聞いてくださると良いし、途中で聞くのをやめてくださっても良い。暇つぶしの選択肢に如何だろうと思って話すので、そのつもりで。

私は赤羽という町にかれこれ5年住んでいる。東京の人間ならみんなたいがい知っているだろうが、都外の人間なら知る人と知らない人に分かれるかもしれぬ。この赤羽、英語で言えば、レッドウィング。アメリカの老舗ワークブーツ(作業靴)ブランドの名前と同じである。

この冬、思いきって、この「赤羽作業靴」とやらを買ってみた。むろん中古品(1万円)で。新品だと5万円近くする。たかだか作業靴に冗談じゃない。買ったのは型番8166。綺麗な赤茶色をしているプレーントゥのブーツで、状態もさほど悪くない。赤茶色というと型番8875のモックトゥのタイプが「アイリッシュセッター(猟犬)」の代名詞と共に有名だ。しかし、私はどうもモックトゥの見た目が好きでない。もともと可愛いのは好きなのだけど、これだと可愛すぎる。

型番8875。公式サイトから拝借。

それはそうと、「革」という漢字が気になり出し、調べてみると面白かった。この漢字を使う熟語を並べてみよう。

改革

革新

沿革

革命

上に挙げた四つともに、「革」の字は「改める」の意味で用いられている。前者二つは近い意味の文字を重ねているわけだ。「改め」て「革(あらた)め」る。「革(あらた)め」て「新にす」る。漢語にはこういった単語の作り方が多い。「清め」て「浄め」る「清浄」とか。

後者二つはとくに面白い。どうして「沿」と「革」で「アノ意味」になるのか。こんな時は辞書に聞いてみるにかぎる。

えん‐かく【沿革】
〘名〙 (「沿」は因る、前に因って変わらないこと。「革」は旧を改めて新たにすること) 物事が移り変わること。移り変わり。変遷。
(出典 精選版 日本国語大辞典)

「沿革」が物事の変遷(歴史)を意味する熟語になったわけは、「沿」の字が「変わらないもの」を、「革」の字が「変わったもの」を意味する漢字だからだという。なるほど、たしかにそうだ。歴史は決してA→Bというように、その総体が無関係な項目へと変身するわけではない。たいていは、多くの定数とわずかな変数を引き連れて、牛のように緩やかに歩むのである。A(x&y)→A´(y&z)というように。

漢字は一文字で意味を持つ「表意文字」だ。それが二文字以上使われて単語を成す場合、「単語としての意味」を「二つ以上の意味」によって表現することになるので、自然、後者は前者の解釈を暗示していることが多くなる。「沿革」の場合、「沿革」の単語としての意味(歴史)を、「沿」と「革」の字義(変わるものと変わらないもの)が解釈しているのである。歴史、それは時間の経過によって変わるものと変わらないものの混合物である、などと。

「革命」の「命」は、「天命」の「命」である。天命は中国人独特の世界観で、ひとくちに説明するのはむつかしい。

天命【てんめい】
中国思想用語。もと天(天帝)から与えられた命令の謂で,〈運命〉と〈使命〉の両義をもつ。
(出典 株式会社平凡社「百科事典マイペディア」)

上に挙げた、いかにもな辞書的説明は、「運命と使命は両立するのか?」という疑問を湧かせずにはおかない。深く考えずに、言葉の印象だけで言えば、運命とは甘んじて受けるものだ。天からの授かり物だ。使命とは天から指令を受けたと信じた者の認識と行動だ。前者は受動的で、後者は主体的である。

「革命」の語順に注目すると、漢文の文法は英文法に似ているので、「動詞+目的語」の語順である以上、これは「天命を革(あらた)める」と読むしかない。革命家の主体的な行動だ。もしも語順が逆に「命革」だったらば、「天命が革(あらた)まる」という解釈になるだろうか?

しかしながら、「革」という漢字の由来から言って、この字を自動詞的に、「革(あらた)まる」として使うのはちがう気がする。由来については後に述べることにして、そもそもの話、なぜ古代の中国人は、「革」の字に「改める」の意味を持たせたのか?そのわけは「革」という物体の製造過程にある。

インターネットで「革ができるまで」と調べると、先頭に次のような記事があった。

牛の皮膚断面はこうなっているらしい。

肉眼では見えない皮膚の構造についてご説明します。
動物の皮の断面は構造の違う3つの層ーー「表皮層」「真皮層」「皮下層」で成り立っていることが分かります。
皮膚の最も外側(毛があった側)に「表皮層」があり、その下にコラーゲン繊維が複雑に絡み合った「真皮層」、さらにその下に肉と結合している「皮下層」があります。
革として利用されるのは、じつは真ん中の「真皮層」のみ。必要のない表皮層と皮下層は、製革工程中で除去されます。
(出典 https://alt81.com/contents/336/

革を作るために最初にすることは、動物の皮を剥ぎ取り、毛のついた部分(表皮層)を取り除き、革にするのにふさわしい部分(真皮層)に到達することだ。なるほど、これをふまえて今度は漢字事典で「革」の項目を引くと、いっそう理解が深まる気がする。

かく〖革〗 カク・かわ あらたまる
1.
獣の皮から毛をとり除いたもの。つくりがわ。なめしがわ。
 「皮革・牛革・擬革・革帯・革質」
かわで作った武具。
 「甲革」
かわで作った楽器。太鼓の類。
2.
前のものをとりはらって、様子を変える。改める。改まる。
 「革命・革新・革正・改革・沿革・変革」
(出典 Oxford Languages)

要するに、漢字を創造した古代中国人は、優れた観察者だったということだ。革が作られるプロセスを、彼等は何百年、何千年とかけて、じっくりと見たはずである。そして、ただ見るだけでなく、そこに「ある観念」を発見したはずである。不要なもの(表皮層)を取り除いて、必要なもの(真皮層)を露出させるプロセスの内に、天命を失った支配者に立ち向かう、新たな天命を得たと信ずる革命家の行動を発見したのだ。漢字が持つ、他の言語に見られない高い観念性は、この「優れた観察者」の存在を想像できなければ、とうてい説明がつくまい。私にはそれが面白かった。

雑談もそろそろしまいにするが、最後に「革」の残虐性について、ひとこと言いたい。皮革に関わる業者が口を揃えて言うのは、それを作るために殺す「ファー」などと「革」は違う、ということだ。特に牛や豚について言えば、食肉用に殺された牛や豚以外は、原則、使われていない。これを関係者は「畜産副産物」と呼ぶ。副産物という言い方には、「食肉の正当性はさておき」というニュアンスが透けている。

19世紀ドイツの哲学者ニーチェは、馬車屋の前を通りがかって、鞭打たれる馬を見るや突如、馬の首を抱きしめ、号泣し、発狂して、治癒することなくそのまま死んだ。これは天才の精神に起こった「天才的な失調」で、もちろん極端な例なのだが、全部は無理でも一部ならば、私のような凡人にも分かる気がする。ニーチェの胸に去来したもの、それは畜産物の歴史の総体にちがいない。

肉を食べ、不可食部分として残った皮を「革」にすること。それは命を奪うことへの「恐れ」から生まれた人類の文化なのだろう。これは単純に「もったいないから全部使う」という意味にとどまらない。かつて人類は、祝祭空間において、人間の生け贄を差し出していたことすらある。恐れの感情が「革」の文化の親である。

ひるがえって、現代を考える。何の感想もなしに肉を食べ、革靴を履くのは如何なものかと思うが、ではその対極にあるヴィーガンはどうか?ヴィーガンも一枚岩ではなく、様々な立場があるものと思うけれど、古代人が抱いていた根本的な感情、あの「恐れ」は共有されているか?かなり怪しいのではないか?「殺される動物がかわいそう」はまぎれもなく真理だが、彼等が仮に、そのように感じる自分自身を特権化し、免罪符とみなし、あの「恐れ」から逃避しているのだとすれば、明らかに不当な思想である。

なぜならば、人は誰しも、生きていることで、知らず知らずの内に、誰かを加害しているからである。これはカミュの「ペスト」の思想だ。だから、私たちは常に、慎み深く話さねばならないのである。ペストを他人に移さぬように。

話が収拾不可能な所に行き着いてしまったが、無理やり終わりにする。雑談なのだからと開き直りつつ。「革」の製品を買ったことをきっかけにして、現代人の物の感じ方の「革命」は可能か否か、ちょっと考えてみたというだけの話である。

終わり

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