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恋と学問 第15夜、光源氏の後半生。

前回の続きになります。

朧月夜密通事件をきっかけにして、右大臣家による排除の動きが活発になります。しまいには天皇に謀反する意図があると言いがかりを付けられ、光源氏は身の潔白を表すために須磨に身を退くのでした。


8.約束なき土地(明石の上)


須磨と明石という、田舎の片隅に身を置いて寂寥の日々を送ったのは、25才から27才にかけての3年間です。この間の恋愛は、明石の上という女性が中心になります。

光源氏退去後の京都には、不吉なことが次々と見舞います。先の天皇が朱雀の夢枕に現れて睨みつけ、それを直視できなかった朱雀は眼病を患います。朱雀の祖父である右大臣は逝去し、右大臣の長女(朱雀の母)も体調を著しく崩します。記録的な暴風雨は京の人々をして、光源氏追放の祟りではないかと怯えさせるのでした。

暴風雨は須磨も襲います。怯えるのは光源氏も同じです。もうこれ以上須磨に居るのはよくない。そう思った矢先に、「渡りに船」とばかり、誘いの手が伸びます。これが明石の上の父、かつて都の政治家だったのが播磨の地方行政官となり、今はそれも辞めて出家していた明石の入道でした。彼のすすめにしたがって、光源氏は須磨よりもさらに都を離れて、明石の地に腰を落ち着けます。

明石の入道は一人娘の明石の上を光源氏に差し出そうと躍起になります。それを受けての二人の思惑が、心理戦の様相を呈していて面白い。

光源氏は、明日のゆくえも知れぬ追放の身とは言いながら、京都に残してきた愛する人々(とくに紫の上)のことが気にかかる。明石の上は、申し分のない貴公子に愛されることを嬉しく思わないでもないが、そんな男だからこそ、大勢いる女性たちに紛れて、田舎者の己なんぞ物の数にも入らないだろうと思う。この場合、愛の成就をさまたげているのは「未来への気遣い」です。恋がお互いの未来に及ぼす影響です。

となれば、心理戦を終えてついに二人が結ばれたということは、「未来への気遣い」を超えた地点で恋が成立した、ということに他なりません。明石の巻を読んでいると、自然にテレサ・テンの歌が連想されます。

約束なんか/要らないけれど/思い出だけじゃ/生きてゆけない
(テレサ・テン「時の流れに身を任せ」1986年)

約束(未来)なんて無くても構わない。でも、美しい思い出(過去)に浸って生きてゆく、そんな生き方はイヤだ。ここに男女の思惑は合致し、現在における恋が成立します。注意しなければならないのは、これはいわゆる「刹那的な恋」とは似て非なるものだ、ということです。ここには各人に自覚された選択と行動があります。「時の流れに身を任せ」という題名とは裏腹に、この恋は力強い、主体的な覚悟の上に成り立つのです。


9.誰も捨てがたい(花散里)


須磨に旅立つ時、それぞれに別れがあったように、京都に戻ってきた時にも、それぞれの再会がありました。

花散里もその一人です。光源氏の父である先帝の側室だった麗景殿女御の妹で、容貌が美しいわけでもないのに、後年には紫の上に次ぐ地位を占めた珍しい女性です。

光源氏は京都に帰って一年も経ってから、思い出したように花散里を訪ねます。朝からの五月雨が降り続いていた、28才のある日のことでした。

雨が小休止して、月がおぼろに差し込む、良い頃合いを見て部屋に入ります。光源氏は花散里と過ごす時間のことを「気楽」で「ゆったりとしている」と感じます。数々の女性を知り尽くした光源氏です。これは比較考量可能な特徴ではなくて、花散里の本質を表したものと見るべきでしょう。

しんみりとした語らいの最中、突然、水鶏(くいな)が近い所で鳴きました。水鶏はその鳴き声が戸を叩く音に似るところから、古来から「訪問」の比喩表現に用いられて来た鳥です。

水鶏だに/驚かさずば/いかにして/あれたるやどに/月を入れまし
(谷崎訳:あの水鶏でも啼いてくれなかったら、どうしてこんなあばら屋に美しい月影を迎え入れることができましょう)

花散里の歌です。私のことを思い出したのは偶然なのでしょう?この優しく卑下した歌に、光源氏は心を動かされます。他の女性たちからは決して聞かれなかった言葉だからです。彼女らが歌にしたのは不在時の「寂しさ」であり、再会時の「喜び」であり、要するに「自己主張」でした。花散里はむしろ自己を主張しないことによって光源氏に愛された。そして、こんな決定的な感想まで引き出します。

ああほんとうに、誰も捨てがたいところがあるのだな、さればこそ自分もかえって苦労するのだ
(潤一郎訳「源氏物語/巻の二」中公文庫、1991年改版、136頁)

私はこれを、作品中で最も重要なセリフだと考えます。光源氏は現世での最高の栄華を誇る一方で、常に出家の願望に囚われている奇妙な人物として描かれていますが、彼の出家を思い止まらせているのは「人間の魅力」です。「誰も捨てがたいこと」です。だから世を捨てられない。かえって苦労をする。光源氏はこのように述懐していますが、少しちがいます。実際は作者によって苦労させられているのです。

世を捨てる人がいることは平凡な事実に属します。出家と意味合いは異なりますが、たとえば「自殺」などは有りふれた日常です。近しい者が自殺した時に残された人々の心に湧く感情は、単純な悲しみでは済まされません。彼/彼女の自殺は、私の存在が彼/彼女にとって自殺を思い止まらせるだけの重みを持たなかったことを、はしなくも露呈しているからです。

今の例に引き寄せて光源氏の人物像を考えるならば、彼が世を捨てられないのは、誰にも捨てがたい魅力がある、という「事実の次元」ではなくて、誰の内にも捨てがたい魅力を発見できてしまう、という「認識の次元」にこそ理由があるのだと分かります。彼は作者によって、人と世の魅力を味わい尽くす天才を授けられました。そのことによって、世を捨てたくても捨てられず、苦労させられました。それが人の志すべき最も高貴な使命であるかのように、人と世の運命の味わい(物の哀れ)を知り続ける生涯を送らされたのでした。


10.光源氏教育を語る(夕霧)


帰京後の慌ただしさが落ち着くと、栄華を極めた全盛の時代がやって来るとともに、世代交代が進みます。40才までに起こった出来事をかんたんにまとめると次の通りです。

・28才:明石の上が明石の姫君を出産

・30才:秋好中宮(※1)が入内

・31才:左大臣(※2)が逝去
     藤壺女御が逝去

・34才:六条院(※3)が完成、移住

・35才:玉鬘(※4)が出現、養女にする

・37才:玉鬘、鬚黒大将と結婚(※5)

・39才:夕霧、雲居雁と結婚(※6)

※1:故六条御息所の娘(父は前東宮)で、御息所の遺言に従い、逝去後は光源氏が後見役(親代わり)だった

※2:光源氏の義父、頭中将・葵の上の実父

※3:敷地面積4町(約2万坪)の大邸宅にゆかりの女性たちを配置したもの
          春の御殿:紫の上
          夏の御殿:花散里
          秋の御殿:秋好中宮
          冬の御殿:明石の上

※4:故夕顔(父は頭中将)の娘で、母の死を知らずに乳母の故郷・九州に育つ。上京の折に奇跡的に発見され、光源氏の六条院に引き取られる

※5:玉鬘を宮中出仕させようと決心し、光源氏は頭中将に真実を打ち明ける。出仕の直前、鬚黒大将に「既成事実」を作られて急遽結婚となる

※6:夕霧は光源氏・葵の上の子、雲居の雁は頭中将・側室の子

さて、光源氏の30代を箇条書きで済ませたのは、恋愛が後景に退いて代わりに「親としての活動」が前面にせり出してくるからです。付け加えるなら、生涯における絶頂期ですから、この10年は悲劇が特に起こらず、筋として退屈だからということもあります。

退屈な中にまだしも面白い挿話があるとすれば、息子の大学進学について語る場面でしょうか。夕霧は光源氏と葵の上の間に生まれた一人息子です。天皇の息子と左大臣の娘という、けちの付けようがない家柄でありながら、光源氏の教育方針で官位もなかなか進ませず、大学進学という「まわり道」をさせられます。大体、この時代は高貴な家に生まれれば、能力の如何に関わらず自動的に昇進するものです。(今日の学歴社会と同じに見てはなりません)夕霧は父の理不尽な命令を不満に思いますし、周囲の人々も等しく同情しています。

なぜ夕霧に学問をさせるのです?そう問われて光源氏は、「やはり学問を本としてこそ、大和魂も一層重く世に用いられるのでございましょう」(同330頁)と答えます。これだけでは何のことだか分かりません。そこで「補助線」を引いてみましょう。学問とは言語化する力のこと。大和魂は言葉にならない思いを味わうこと。そのように考えれば、いくぶんか分かりやすくなります。

実生活の上では、誰もが言葉にならない思いを様々に経験する。それを経験しない(物の哀れを知らない)で成長すると、生きる上で欠かすことのできない、「人間的な部分」が欠落したまま大人になってしまう。これは精神の発育上、問題であることは言うまでもない。その意味で、まだ若い息子が恋愛に悩んだり、歌や音曲などの趣味に没頭することを、私は一概に否定しない。しかし一方で、人間は言葉にならない思いを胸一杯にため込んでばかりはいられない。言葉にならない思いを、不完全な仕方であれ、言語化する能力もまた必要だ。というのも、人は誰かに思いを伝えなければ生きてゆけないし、なおかつ、人に最も伝えたいことは大抵の場合、最も言葉にならないことだからだ。そこにこそ学問を学ぶ意味がある。いつか息子は、私と同じく政治家になるだろうが、政治家に求められる資質の有無は、民衆が抱いている言葉にならない思いを言語化して、いかにしてそれを「政策の実行」という具体的な形に落とし込めるかに掛かっている。だから私は息子を大学に入れるのだ。

以上、光源氏の教育論を私なりに補ってみました。むろんこれは、光源氏の口を借りて語らせた、作者紫式部自身の学問観に他なりません。




【以下、蛇足】




今夜は光源氏40才までの道のりをたどりました。案の定と言うべきか、書き始めると書きたいことが溢れてきて、今回で終わらせることは出来なかった、というわけです。

残すところはあと、光源氏最後の恋、紫の上の死、出家、そして逝去という、源氏物語全篇中で最も寂寥の空気に包まれたくだりです。これらを「晩年」という括りにして、次回、光源氏の生涯をたどるシリーズは完結となります。

お楽しみに。


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