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孤児・寡婦・異邦人

人は誰しも決定的な影響を受けた人がいる。私の場合、20世紀フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナス(1907-1996)が、それにあたる。

影響を受けた範囲が広すぎて、その全容は語ろうにも語れない。それはあたかも、恋する人の好きな所を言い表せないことに似ている。どんなに言葉を尽くしたとしても、あの人の魅力を語り漏らしている気がして、上手い具合にまとまらないのだ。

このような対象について語るには、ほんの一言の解釈に留めておくのが妥当である。今日は、次の印象的なフレーズについて。

他者の顔は孤児・寡婦・異邦人として現れる

フレーズの解釈の前に、レヴィナスの生涯と思想を、かんたんに紹介しておこう。

1907年、リトアニアのカウナスに、古書店を営むユダヤ人家族の下で生まれた。10代の頃、ロシアによる迫害から逃れて、ウクライナに亡命するなど、決して安穏とした少年時代ではなかったが、勉学に励んでドイツのフライブルク大学へ進学。そこでエトムント・フッサールとマルティン・ハイデガーに出会い、大いに影響を受けた。

時代は第二次世界大戦に向けて混迷を深めていた。レヴィナスは勉学を続けるためにフランスに移って、ストラスブール大学に通ったが、戦争が勉学の継続を許さなかった。多国語話者である所が買われて、フランスの従軍翻訳官として戦場に赴き、ナチスの捕虜となって収容所に送られた。これがレヴィナスの幸運であり不幸だった。戦場で捕虜として囚われた彼は生き延び、故郷ではユダヤ人として囚われた彼の親類の多くが殺された。

戦後、レヴィナスは中断していた学者のキャリアに戻らなかった。彼は在仏ユダヤ人青年学校の校長になって、若者の教育を使命にした。その傍らで研究を続け、折に触れて発表していたのを、1961年に一冊の本としてまとめた。主著の「全体性と無限」である。

パリ大学から、この「全体性と無限」を教授資格試験に提出するよう求められた。審査の場で、審査員の一人が「私たちは本来ならば逆の席に座ってなければならないのに」と漏らしたという。この時レヴィナスは54歳。異例に遅咲きのキャリア・スタートになった。

その後、「存在の彼方へ」や「観念に到来する神について」といった、哲学上の重要作品と、ユダヤ教をめぐるいくつかの著作を残して、1996年にパリで90年の生涯を閉じた。

こうして生涯を見れば、レヴィナスの思想的自立に、戦争体験が寄与していることは明らかだろう。戦争がなければ、フッサールとハイデガーが強力に推し進めたドイツ現象学の、フランスにおける第一人者で終わったにちがいない。

戦場でレヴィナスが編み出した哲学は、「他者の倫理学」と呼ばれる。きっかけは、無惨に殺された無数の死者に対する鎮魂の祈りだった。だが、難儀なことに、彼は宗教家ではなく哲学者だった。宗教家でないからには、他者を愛せと命ずることは禁止されており、哲学者であるからには、他者を愛するとはどういう事態を言うのか、論理の言葉で語らねばならなかった。

ここで、例のフレーズに立ち戻ろう。

他者の顔は孤児・寡婦・異邦人として現れる

孤児には、支えるべき両親がいない。だから、孤児の顔は目の前にいる私に、親に代わって支えとなるように懇願している。私は、孤児の不安を解消できない負い目を感じて焦燥する。

寡婦(未亡人)は、癒えることなき過去の傷を抱えながら、私の前に現れる。夫は死んだのか、失踪したのか、愛し合っていたのか、憎しみ合っていたのか、私には知る由もないし、それを彼女が語ってくれたにしても、私が「決定的な現場」に居合わせなかったという事実に変わりはない。彼女の胸の痛みの深さを私は知らない。彼女に対して私は出遅れて現れたのであり、癒えない傷の痕跡を、彼女の顔の皺に認める以上に、彼女を知的に了解することはできない。

異邦人(外国人)と私の間には、共通の言語がない。この人の要求が何であるのかを私は知る術がないが、しかし、何かを要求しているのは分かる。そもそも、要求があるから、この人は私の前に立っているのであり、私は選ばれて召喚されたのである。私は共通言語の不在という悪条件の中、この人の要求に応えなければならない。

さて、「孤児・寡婦・異邦人」の比喩は、他者の顔の現れ方についての比喩だった。この比喩を聞いて、「なるほど、たしかにそうだよね」と思う人はいないはずである。なぜかと言えば、誰もこのように他者の顔と対面していないからだ。

我々の日常において、ごく普通に他者と対面する時、この人を支える人が全くいないとは考えないし(非孤児)、他者が抱えている癒えない過去の傷について顧慮する余裕はないし(非寡婦)、他者と私の間にはすでに共通の言語が存在している(非異邦人)。

そんなことは分かりきっている。日常的に他者と付き合う時に、他者は孤児でも寡婦でも異邦人でもない。レヴィナスだって、こんな分かりきったことに異論を唱えるつもりはないはずで、だとすれば、彼が他者の顔の現れ方について、このように述べたということは、要するに「我々は他者に顔を背けて日々をやり過ごしている」と、言いたいのだ。

我々の日常は、他者を対等なコミュニケーションの相手とみなすのに慣れている。言語が仲介すれば、全ては真偽によって測られるから、固有名が消えてお互いに「替えが利く存在」になれる。他者の要求を私は聞き取ることができ、聞かないこともできる。私の要求と交換することも、しないこともできる。ここに対等かつ「他の誰でも良かった」関係が成立する。真理は普遍的であるから非人称的でもあるのだ。

それの何が問題か。そうして日常は問題なく回っているではないか。たしかにそのとおりだ。問題なく世の中は回ってしまっている。

レヴィナスは戦場で、捕虜収容所で、この問題ない状況に異を唱えた。自己と他者が対等にコミュニケーションしながら、終わりの見えない殺し合いをする場所で。他者の顔が命乞いする場所で。癒えない傷を抱えて沈黙する場所で。言葉にできない経験を何とか語ろうとして、結局口ごもるしかなかった人々。彼等の顔にレヴィナスは直面し、何かを開眼した。

他者と自己が結ぶ、始原のコミュニケーションは、言葉を交わすことではない。他者の顔から顔を背けないことだ。その場から逃げ出さず、他者による召喚に応じることだ。あらゆる対等な言語によるコミュニケーションは、この始原のコミュニケーションを起点にしなければ、倫理性を担保されない。それは相手の顔を見た時に、快く迎え入れることに他ならない。これがなければ、言語によるコミュニケーションは皆「詐術」である。

言語は対象を了解するための道具と思われがちだが、対象の了解とは対象の了解の中断に他ならない。「あの人は豪胆なようでいて、実は繊細で気配りの行き届いた人だ」とか、「この人は神経質な所もあるが、楽天家で良い加減な所もある人だ」とか、「その人は自身のことを複雑な人間だと思っているが、行動原理は意外と単純かつ純粋で、心根の優しい人だ」とか。これらは他者を了解したのではない。コミュニケーションを円滑に遂行する手段として、他者に対する了解を中断して固定しただけだ。これを俗に「レッテル」と言う。

レッテルを貼られても文句が言えないのは、こちらの方でも貼っているからであり、そのレッテルがよっぽど社会的な評価を落としでもしない限り、コミュニケーションの円滑化という、レッテルが貼られる目的の方が優先されるのである。

レヴィナスは、このような他者了解のあり方が、果たして倫理的に正当化されるのか、という問いを立てた。ユダヤ人に対するヨーロッパ人の偏見(レッテル)の犠牲になったホロコーストの悲惨を前にして。彼にとって、それが問われるのは当然のことだった。しかし、ひるがえって、我々はどうか?レヴィナスが血と涙から絞り出したこの思想を、現代に引き継ぐことは可能か?

可能だと思う。戦争は時として日常が孕む非日常の事態である。異常な日常であり、日常化した異常である。その時、他者の顔が突如として文字通り「顔を出し」、私たちは始原のコミュニケーションに差し戻される。レヴィナスにとっての敵国兵士の顔がそうだったように。

これは誰しも見覚えがある景色ではないか?平和で安穏とした我々の日常にも、異常な日常が顔を覗かせる瞬間は少なくない。

たとえば、子を持つこと。赤子が生まれた時、親が最初に取るコミュニケーションは、どういう種類のものだろうか?共通言語のない、泣き叫ぶ相手に、我々は戸惑い、この人の要求に応えられない己の不能に、焦燥する他はないのではないか?

手を差しのべてみる。強く握り返す。その動作に、意味を付与することなどできない。レヴィナスの言葉を借りて敢えて言うならば、「私はここにいます」と告げた私を、赤子は握り返すことで承認しただけのことだ。それ以外の意味などない。召喚した赤子と、召喚された私。指名された以上は、それに応答する責任(Responsibility)を負った、私が絶対的に遅れている関係。背けることができない他者の顔が、そこにある。

我々の日常は、なるほど、他者と真理の場で出会うことに慣れていて、顔を背けてもコミュニケーションが成り立つ言語の使用に頼っているかもしれない。コミュニケーションを円滑化するために、他者にあらかじめ意味を付与して(レッテル)、それに基づく言葉の戯れによって、慰めを感じることも少なくないかもしれない。しかし、どんな平穏無事な日常にも異常が潜んでいて、異常な日常が全てを呑み込む瞬間がある。その瞬間、始原に差し戻されたコミュニケーションが始まる。そこでは、他者の顔は孤児・寡婦・異邦人として現れる。

この場面から始めよう。この場面を起点にした人間関係を倫理の根源と呼んだ人、それがレヴィナスであった。



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