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私の論語教室 総論、孔子について。

今日の話は、この先、繰り返し立ち戻るであろう大事な話です。お聞き漏らしのないよう、切にお願い申し上げます。

実際に孔子の言葉に触れる前に持っておくべき、いくつかの前提知識について話します。古代と現代の隔たりは、私たちが想像するより大きいからです。この隔たりを無視して、「同じ人間だから」は通用しません。なかには、「前回序章で述べていたことと違うじゃないか。素直に読むのだったら前提知識など持たずに読もうではないか」という意見もあるかもしれません。

その考えは間違いです。前提知識を持たずに読むことを、素直に読むとは言いません。いかなるイデオロギー、いかなる先入観からも自由だと自称する経営者の言葉は、大抵の場合、一昔前の経済学の知見を無自覚に引き写しているだけだ。・・・これは二十世紀最大の経済学者ケインズの言葉ですが、全くそのとおりでして、前提知識なしに古代の文献を読もうとすると必ず、無自覚に現代の価値観というフィルターを通して古代を読む誤りを犯します。端的に言って誤読であり、素直に読むとは程遠いのです。

とは言え、学術論文の隅っこに書いてあるような、どうでもよい細かな情報まで、知り尽くさなければならない決まりもなく、前提知識の量は初歩的な誤読を避けられるだけの最低限で充分です。

私は以下の項目について知っておけば充分だと考えます。

1.孔子の生涯
2.学問・学者の意味
3.二つの孔子像
4.孔子の学は君子学
5.論語と孔子の関係

それぞれについて、見ていきましょう。

1.孔子の生涯

孔子は紀元前552年、魯国の陬邑(現在の山東省曲阜)という小さな村に生まれました。70才を超える退役軍人の父と、未だ16才に過ぎない巫女の母との間に生まれた子とされ、不適切な関係によって生まれたとも言われています。

孔子が生まれたのは古代中国の春秋時代。中国全土を統治する周王朝の力に翳りが見え始め、諸侯国が皇帝を差し置いて勢力拡大を図ろうとしていた、下剋上の時代でした。魯国国内でも、国王を差し置いて有力貴族たちが権力をほしいままにする結果、政治の混迷に歯止めがかからない状況でした。

孔子は3才で父を、17才で母を亡くして孤児になります。が、めげることなく勉学を続けました。

孔子が学問に没頭した理由の一つに、魯国の歴史的な位置があります。魯国は周王朝の建国に功績があった聖人、周公旦が開いた国です。周公旦は軍人政治家であるだけではなく、学者としての顔も持ち、周王朝の儀礼制度を完成したとされる人です。孔子が学問に惹かれて行ったのには、小国ながら周王朝の理想時代の香りを残していた、魯国の文化的な空気が与えた影響も無視できません。

18才で結婚、19才で息子が誕生。27才で魯国の下級役人になります。少しずつ昇進して行きますが、有力貴族たちが国王に対してクーデーターを起こしたのを機に、国王派の孔子は34才で亡命。36才で帰国を許されますが、仕官することなく塾を開きます。51才で久しぶりに公務に復帰するものの、55才で自ら辞職を願うと、弟子たちを連れて布教の旅に出ます。

この布教の旅は、中国全土の諸侯国王への政策提言、学問に志す若者たちへの指導教育、その両方を含みました。13年間の旅に終止符を打ち、68才で再び帰国。帰国後は残された時間を研究と教育に費やして、紀元前479年、73才で死去。

2.学問・学者の意味

孔子が生きた時代における、学問・学者の意味を、現代の感覚と同じように考えてはなりません。まるっきし別の概念と思ってください。

当時の学問は、現代では政治学に当たるものです。しかも、大学の研究室で行われているような、「特定の政治体制における権力装置の作動様式」といった、客観的で観照的な法則性の探求を指すのではなく、実際に政治の現場に出向いて行って、為政者に具体的な政策を進言するのが学者の役割でした。学者とは直接政治過程に関わる実践的な存在でした。政策の買い手を求めて売り歩く姿は、行商人の姿に重なります。

どうして古代中国の春秋時代に、このような現象が発生したのか?時代は常に時代の肖像を描く絵筆を待っています。新時代の到来に呼応して思想が育つのか、思想が時代に先駆けて新時代の相を予告するのか、前後関係はよく分かりませんが、中国全土を掌握していた周王朝の力が弱まり、いくつもの小国に分裂した戦乱の世は、諸子百家の出現(老子、墨子、管子、孫子など思想家の同時発生)を必要としたのです。その中の一人に孔子がいました。

3.二つの孔子像

江戸時代日本の最大の学者と言えばよく、荻生徂徠の名が挙げられます。私たちが序章で取り上げた伊藤仁斎より四十年ほど遅れて生まれ、仁斎の学説を厳しく批判したことでも知られる人です。

徂徠の仁斎批判の要点は、仁斎が孔子の学問を「あまりにも人間学的」に解釈している点に集中しています。徂徠に言わせれば、当時の学問は、「人間、いかにあるべきか」(倫理思想)ではなく、「為政者、いかにあるべきか」(政治思想)を問題にしていたのだ、ということなのです。論語における孔子の発言を、全人類に普遍的に妥当する道徳論と見る仁斎は、孔子が生きた時代の学問のあり方を根本的に見誤っている。なるほど、厳しくも正しい批判です。

仁斎と徂徠、それぞれ異なる孔子像が生まれてしまいました。しかし私は、「それぞれに言い分がある」とだけ言って、この問題を済ましてしまいたい。というのも、「二人の孔子」は実際にいて、その結果、このような解釈の違いが生まれているとしか、思えないからです。

まず、一人目の孔子とは、自ら考案した政策をぶら下げて、買い手を求めて中国全土をさまよい歩いた孔子です。彼は結局どこにも買い手が付かなくて、己が生きているうちには理想の政治が実現しないことを悟ると、静かに旅の歩みを止めました。徂徠は、この孔子に大きな愛情を感じていました。文芸批評家の小林秀雄は、徂徠の孔子観を一言で、「孔子は道を行おうとして失敗した人だ」と、まとめています。たしかに、古代中国の学者のあり方を理想としていた徂徠にとって、その道における遥かな先輩であり、偉大な失敗者でもあった孔子は、無限の哀愁を催させる人物だったでしょう。

もう一人の孔子とは、「道を行おうとして失敗した」、そのあとの孔子のことです。彼は為政者に直接政策を売ることはしません。そんなことは、もうやめました。それよりも、彼のそばには彼を熱烈に信奉する弟子たちがいた。だったら彼らに期待したほうがよい。彼らに己の信念と思想を伝えて、彼らが未来の為政者の元に出向いて、理想の政治を実現するよう働きかけることを。この期待に晩年の孔子は賭けました。

一人目の孔子を「政治学者・孔子」、二人目の孔子を「教育者・孔子」と整理することもできます。どちらも一人の孔子という大きな人物の一側面ですが、前者に焦点を当てると徂徠的、後者に注目すると仁斎的な孔子像が出来上がります。一人目の孔子は、為政者に具体的な政策を進言するのですから、当然「政治思想」に傾きますし、二人目の孔子は教育者として、弟子たちに「人の上に立つ為政者はいかにあるべきか」を語るほか、「学者、いかにあるべきか」も語りますので、対象が広くなった分、当然そのおもむきは、人間全般を扱う「倫理思想」へと傾くことになります。

4.孔子の学は君子学

二つの孔子像を一つにまとめようとして、両者に共通する言葉を探ると、【君子】という概念にたどり着きます。

あるとき、岩波文庫版の「論語」の索引を何気なく眺めていると、奇妙なことに気づきました。孔子の言葉遣いにおいて、最上の人物とされるのは「聖人」です。次は「仁者」、その次が「君子」となります。しかし、この中で最も頻出するのは「君子」なのです。

この事実自体が、教育者としての孔子の比重の大きさを物語っています。聖人も仁者も得がたいものだ。しかし、君子ならいる。現在は君子でない者も、教育によって君子にすることができる。君子とはこういう人物だ。あなた方もこういう努力をすれば君子になれる云々。・・・論語には、孔子の教育への熱意にあふれる言葉が、至るところに散りばめられています。

そもそも、君子とはどんな意味の言葉でしょうか?小人(しょうじん)の対義語で、「立派な人物」という程度の意味です。立派な人物とはいかなる人物か?どうすれば立派な人物になれるのか?これこそが、論語の最大の主題とも言っていい、重要な問題設定です。

なぜ孔子は、仁者と聖人のことを語ること少なく、君子のことばかりを語ったのでしょうか?孔子の言葉に「ずば抜けた知性と底抜けの馬鹿は移らない」というのがあります。毒味は強いですが、孔子らしいチャーミングな言葉です。ならば、移る人間が中間にいるはずです。それが小人と君子です。小人(くだらない人物)を君子(立派な人物)に移すのが教育です。

疑問が湧きます。なぜ「聖人の到来を待つ」方法では駄目なのか?孔子は学者として、「こういう性質を持つ人間が聖人である」という定義をあまり残すことなく、君子の定義と目指しかたを語るのを好みました。そこには「ある価値判断」があります。

聖人(キリスト教でいうメサイア)の到来によって実現される善よりも、社会に一人でも多く君子が増えることによって、もたらされる善のほうが尊い。・・・これです。

道を行うのに失敗した孔子はきっと、すぐ次世代の直弟子たちが道を行えるとも思っていなかったでしょう。とてつもなく長い目で、己の道が行われることを期待しました。その作戦は、二千年後の現代を生きる私たちすら射程に入れています。君子になること、君子を増殖することは、後世に課せられた永遠の宿題なのです。

5.論語と孔子の関係

孔子を知るには論語しかありません。その他の書籍にも孔子は顔を出しますが、論語ほど詳しく知られないですし、著者の立場も反映されていたりしますから(敵対する法家から見た孔子など)、信頼すべき書物は論語だけと言えます。

もちろん、論語にも問題がないとは言えません。なにせ、弟子の記憶の中にあった師匠の姿に過ぎないからです。ただ、序章で述べたように、「雑然とした論語」の強味はあります。孔子の言葉を雑然と思い出せるかぎり並べることは、弟子たちの総意だったと思われ、そういう姿で残されたことが、論語に描かれた孔子像の客観性を、ある程度は保証してくれます。孔子という人間の全体像をつかみやすいものにすることにも、大きく貢献しています。

論語には直弟子の言葉も多く収録されています。このこともまた、孔子を理解するのに役立ちます。孔子の言葉は基本的に「世間話風」のもので、抽象度が非常に低いものです。たとえば、いきなり「美貌と口達者は良くないな」と言われても、どう解釈したらよいのか分かりません。「なんだい、ただのひがみかいな?」とすら思います。

そんな時、直弟子の言葉が理解を助けてくれます。直弟子の言葉は、「あのとき先生が本当に伝えたかったことは何だったのか?」をめぐる思考です。つまり、最初の解釈です。私たちのような末席の弟子は、孔子と間近に接した直弟子たちの解釈を参考に、解釈を進めることができます。直弟子たちの言葉は言ってみれば、孔子の思想の「第一次抽象」です。このラインに従えば大きく解釈を間違えることはないという、道しるべの役割を直弟子たちの言葉が担っています。

さて、あれやこれやと論語を読むための前提知識を並べてみました。最低限に絞ったので、いささか味気ないと思われたかもしれません。しかし、私たちが本当に味わうべきなのは、孔子の肉声であって、孔子に関する知識ではありません。孔子の味わい深い肉声を、誤解することなく聴き取るには、前提知識の習得という味気ない訓練を、どうしても必要とするのです。

訓練はこのくらいで充分だと思います。お疲れ様でした。次回からは直接、孔子の声に耳を傾けましょう。

そうそう、今日(2024年2月11日)は、東京は御茶ノ水にある湯島聖堂の孔子像と、何年ぶりかに再会しました。いつ見ても、やたらと大きい。

世界最大の孔子像、高さ4.5メートル

銅像は何も語りません。私たちが論語を通じて孔子に語りかけないかぎり。


終わり

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