見出し画像

私の論語教室 2.有教無類。

衛霊公第十五、第三十八章、「有教無類」を読み解きます。

【原文】
子曰、
有教無類。

【書き下し文】
子曰わく、
教え有りて類無し、と。

【現代語訳】
ある時、孔子がおっしゃった。
人間には教育による差が有るだけだ。
人間の種類による差はない。

ずいぶんと短い言葉ですが、ともあれ教育をめぐるお話ということなので、教育の「教」の字の成り立ちから、考えてみましょう。

左側の「孝」の字は、上半分が「老人」を表し、下半分は「子ども」を表します。旧世代と新世代の交わりを表すのが、「孝」という字の元々の意味です。右側の「攵」は、上半分が「打撃音」(!)を表し、下半分は「右手」を表す象形文字です。つまり、「旧世代が新世代を右手で殴る」が「教」の字の由来です。

https://okjiten.jp/kanji359.html

体罰を容認しているのか?野蛮な!

うーん。そのように解釈しても何も生まれないので無益です。たしかに「教」の字は、旧世代から新世代への「暴力」を暗示していますが、ここでいう暴力の意味を、「他者の精神に対して、他者本来の傾向性に反して、特定の方向に強制すること」と広く取れば、つまるところそれは、19世紀フランスの社会学者デュルケームがいう「組織的な社会化」と同じです。

今や、わたしたちは、次のような公式に、ようやくたどり着いたわけである。すなわち、教育とは、いまだ社会的な生活を遂行しうるほどに成熟してはいない世代に対して、成人世代の側からはたらきかけられる、人間形成的な作用である。この作用の目的は、子ども自身がおのずと求めるようになり、総体社会としての政治的社会、また、子どもがそれぞれに運命づけられる特殊な社会的環境が要求する、いくつかの肉体的・知的および道徳的な状態を、彼らの内部に出現せしめ、発達させゆくことにある。
この操作的な定義から鑑みれば、つまるところ、教育は、新しい世代の組織的な社会化にほかならない、と約言することが可能である
(エミール・デュルケム「教育と社会学」丸善出版、2022年、61頁)

言わずもがな、幼児は生まれながらに社会的な存在ではありません。それぞれの時代と地域で、独自な社会が独自に定義した社会性に適合するように、社会的な存在へと仕立て上げられます。二十歳になると成人式を執り行うのは、「ようやく人に成った」と社会が認めるからですし、その昔は元服と共に幼名を改めて新しい名前を名のることで、その人が社会的な存在に生まれ変わったことを内外に宣言しました。

しかし、「教育とは旧世代から新世代に向けて施す組織的な社会化である」というデュルケーム流の考え方を徹底させると、一つの疑問が生じます。それは、社会によって成員に求める社会性の意味合いが異なる以上、「普遍的な教育」なる概念はあり得ないのでないか?・・・これです。

教育内容は時代と地域により様々で、相対的であるのは当たり前のことである。そんな風に割りきれるならば幸せなのでしょうけど、残念ながら私はそう考えたくない人間です。源氏物語もシェークスピアも、マルクスもケインズも、聖書も論語も必要とされない社会という物を、想像したくないからです。

国際共通語としての英語、ExcelやPowerPointの使い方、プログラミング言語などを解することさえ出来れば、充分に社会の要請を満たしている。だから、その外のことは教育内容に含める必要はない。むろんこれは極論ですが、「教育・社会相関説」を採用するならば、そう主張して一向にかまわないのです。教育と社会の相関性(教育内容は社会が求める社会性の反映である)という考えを突き詰めた先には、「心が貧しい社会における教育は人々の心を貧しくする」という、不愉快な結論が待っています。

そうそう。話は変わりますが、ついこの間、6月9日に、栃木県を旅行して、「足利学校」を見て来ました。

足利学校の孔子廟

足利学校は、少なくとも室町時代には存在した、日本最古の学校です。室町時代から戦国時代にかけて最盛期になり、学生は3000人を数えたそうです。

しかし江戸時代を迎えると、足利学校は急激に衰えて行きます。なぜか?官学(国家が容認し推奨する唯一の学問)に選ばれた朱子学の勢いによって、足利学校で教えられていた学問が時代遅れになったからです。

足利学校で教えられていた書物は次の書籍に限定されていました。

三註:以下三冊の注釈書
 ・蒙求(唐の時代の説話集)
 ・胡曽詩抄(晩唐の詩人胡曽の詩集)
 ・千字文(南北朝時代の漢字学習用の詩)
四書:孔子とその弟子の著作
 ・大学
 ・中庸
 ・論語
 ・孟子
六経:儒教の根本教典
 ・易経
 ・書経
 ・詩経
 ・礼記
 ・孝経
 ・春秋
列子
荘子
史記
文選

その中でも、「易経」(占い)が最上位に置かれていたそうです。加えて、兵学も重視されていました。占い(スピリチュアル)と兵学(実践的な知識)が同時に重んじられたことを奇妙に思うかもしれませんが、合理的な選択の連続の「どんづまり」に、究極の非合理が求められるのは、むしろ普通のことでしょう。それは、かつての日本で大企業の経営者が、社の命運を揺るがすような重い経営判断を、伊勢神宮の宮司に委ねたりしていたことを、想い起こすとよく分かります。

足利学校こそ、先ほど掲げたテーゼ、「教育内容はそれぞれの地域と時代に特有の社会の要請によって相対的である」の好例です。室町時代から戦国時代にかけての日本社会が求めていたものは、敵対する諸国を打ち負かすための「戦術」と、合理的な思考が行き詰まった先に唯一信頼が置けた「占い」の知識でした。両方とも、泰平の世に求められる知識ではありませんから、江戸時代に廃れて行ったのは当然です。安定した社会に求められる知識は、安定した社会関係を持続し固定する、身分制社会と現状維持を肯定できる、理論的根拠(イデオロギー)でした。すなわちそれが、官学に選ばれた朱子学だった、というわけです。

長い前置きを終えて、そろそろ孔子の言葉に帰りたいのですが、孔子は政治学者であるのと同じ比重で教育者でもありました。彼は無数の弟子を作り、いまだに弟子は増え続けています。彼の言葉から彼の教育思想を引き出すことは、当然に必要な作業と思われます。

そこで今回とりあげた「有教無類」を見ますと、ここで孔子は、わずか四文字で、教育の必要性を高らかに叫んでおります。人間の差は先天的な差ではなく教育の差に過ぎない!と。しかし、肝心の教育内容については、触れられておりません。論語全体を隅々まで見渡しても、端的に述べた箇所はありません。孔子はおそらく、教育内容が相対的なものか、あるいは絶対的なものかという、この議論自体に関心がない。ただ淡々と、己が教えるべきと信ずる内容を弟子に伝え続けただけのように見えます。

思うに、孔子が生きた時代においても、教育内容が地域相関的・時代相関的だということは、自明のことでした。確かな知識に基づく絶対的な教育がある、などということは信じられていません。「科学の登場が信仰を揺るがした」というストーリーを刷り込まれ過ぎたあまり、近代人はともすれば、前近代を生きた人々は(迷信を含む)確信の中で安住していたとでも、思い込んでいる節すらあります。

それは思い込みに過ぎません。孔子は明らかに「確信喪失の時代」の人です。策略と暴力と否定に充ち満ちた春秋戦国時代は、古代中国の秩序を転覆しつつありました。それは諸国の王だけでなく、学者の世界でも同じです。「諸子百家」は新しい学問を引っ提げて、古代中国人の精神秩序を刷新しようと躍起になっていました。孔子はこの状況に異を唱えた稀有の人でした。

孔子の学問は、教育内容は、一言で言うならば、「歴史に学べ」です。歴史学です。古代の聖代(理想時代)の儀式儀礼・政治制度に学び、それを今に蘇らせることです。新しい学問が百花繚乱する中で、孔子は「待て」と言った。そんなことで、人心の乱れがどうして収まろうか?どうしてかつて安定した秩序があったのに、今こうして非道が横行しているのか?それを知るためには歴史を知る以外にないではないか?

ですから、孔子は、「誰もが学ぶべき普遍的な教育内容は果たして有るのか無いのか」という、ノンキな問題には首を突っ込みません。彼にとっての問題はもっと切実でした。秩序の安定に貢献できる、成熟した人間を生み出す真の教育というものが、なんとしても存在しなければならない。いまだかつて存在しなかったのならば、新たに存在させなければならない。樹立しなければならない。さもなくば、この非道の時代が収束する日は永遠に来ないであろう。

実践家である孔子にとって、普遍的な教育内容は、他人事のように「有るのか無いのか」で語られる問題でなく、端的に「有るべき」ものでした。そして、相対主義の時代風潮に逆らって、彼が自覚的に選び取った普遍的な教育内容こそが、歴史だったのです。


終わり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?