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月輪観のすヽめ

 瞑想にはニ種類あります。思念を停止する「止」、それから想念を構築する「観」。停止と促進。「止」→「観」の順に修することで、意識設定をクリーン・インストールすることができます。

「止」といえば坐禅ですが、「観」の代表例として、主に真言密教で行われている「月輪観(がちりんかん)」が挙げられます。密教的な瞑想法、儀式は複雑で多数ありますが、月輪観に始まり月輪観に終わると言っても過言ではありません。
 やり方は至ってシンプルです。満月をイメージし、それが自分自身と一体化、主客の分別が無くなるまで集中する。これだけ。厳密には呼吸法などもありますが、主客一体化を促進するためのテクニックであり本質ではありません。全てが満月の光に没入し切ると、強烈な変性意識が生じ、自我が拡散、霧消します。

 私は12年ほど瞑想を日課にしていますが、普段は「止」です。坐禅です。ところがある日の夜、久々に月輪観をやってみようと思いつき、30分ほど観想してから就寝しました。

 夢、というかヴィジョンを観ました。全人類の五感を、同時に体験したのです。正確には「起きて活動している」人間全ての五感です。視界は万華鏡のようでしたが、それぞれが融合することなく、別々にはっきりと、しかし全て同時に識別できました。他の感覚も同様です。他人の脳内世界を全て同時並列で体験していました。
 体感時間で5秒ほどでした。やがて脳の後部、脳幹辺りに鈍い電圧のような感覚が生じ、「私」という意識が立ち上がりました。その瞬間、私はとてつもない恐怖に慄きました。無限とも言える意識空間と、この「私」という個人意識との圧倒的なギャップ、しかし相互につながり連続している連帯感。無限と有限との境界は曖昧で、深海に似た恐ろしさに絶叫しそうになりました。
 その瞬間、万華鏡のような視界が隅の方から「パタパタパタパタ」と畳み込まれ、どんどん小さく圧縮されていき、最終的に胡麻つぶ程の大きさのルービック・キューブ状に折り畳まれた刹那、私は跳ね起きました。

 次元というものを理解しました。それは意識の大きさ、認識力のキャパシティ、精神の高みなのです。我々一人一人の精神は、高次元意識の部分なのです。根源的意識が我々を奥底から「観測」しているからこそ、私たちは、そしてこの宇宙は存在し、存続しているのです。山に登れば遠くまで見渡せるように、至高の意識は全宇宙を見渡しています。言い換えれば、一切は一つの意識の想念です。
 一つの意識が多に分かれて流動し交流することで、現象世界、マーヤーは現出しています。全ては一者の自己対話、自己認識なのです。
 西田幾多郎博士は、この「ヴィジョン」を観た、そして体験したに違いありません。でなければ「絶対矛盾的自己同一」などという言葉は出てこないでしょう。理屈を組み立てただけでは、こうも簡潔に断言できない。真理の表現は演繹です。だから言い切るのです。
 曼荼羅図も、あの「ヴィジョン」をトレースしたに違いありません。
 よく思想や哲学は、「そう考えられた」とか、「時代の要請に応えた」と説明されます。西田哲学も田辺元によって大政翼賛イデオロギーの正当化に用いられました。しかし、真実は真実です。理屈ではない。

 全体意識にアクセスするには、個の意識、脳の自我を停止する必要があります。トレード・オフ関係です。個人意識は脳が作り出す仮構にすぎません。意識エネルギーが脳にアクセスすることで、自我は起動します。脳はヘッドマウント・システム、自我は脳AIアルゴリズムみたいなものです。あくまで主体は意識、というより「意志そのもの」です。それは遍在しています。
 万物の根源である全体意識の「意志」は、強迫的直感としてもたらされます。心の声を無視してはならないのです。我々は道具にすぎないからです。肉体はデバイスです。自我に自由意思などありません。我々は自我の錯乱を自由意思だと勘違いしています。
 自我が自由だとすれば、それは宇宙の意志を遂行する限りにおいてです。

 まともに訓練せずに、誤って「あのヴィジョン」を観てしまった場合、ほぼ確実に狂うでしょう。しかし必然に導かれた上で、一瞬でも目の当たりにすれば、全ての不安と疑問は消え去ります。なんだそういうことだったのか、と。

 この記事にアクセスしたあなたは、既にある程度準備が出来ているはずです。一日5分、寝る前に月輪観。試されてはいかがでしょうか。

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