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徳川家康と井伊直政|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか? 【戦国三英傑の採用力】

人手不足と人材不足は違う。

“人手”不足は単に働き手が足りない状態をいい、“人材”不足はスキル(能力・技能・資格)が必要な状況にもかかわらず、それらを持つ者がいない状態を指した。前者は量的な問題で、後者は質的な問題だ。

コロナ禍以前は全国的に“人手”不足が注目されていたが、コロナ禍以降、激動する経営環境の中、“人手”は足りているものの、思い切った事業再構築などに挑戦する“人材”不足も深刻な課題となっている。

戦国という激動の時代、武将たちは権謀術数の限りを尽くして覇権を争ったが、この激戦を制するカギは武勇のみならず知略に通じた“有能な武士”たちをいかに確保し、定着させ、起用するかだった。

人材こそがすべて――これは現代ビジネスでも変わらない。

戦国三英傑と呼ばれる織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとに、なぜ“優秀な人材”が集まったのか?
彼らを支えた重臣を中心にみていきたい。


「お前たちこそ、私の宝だ」

戦国の覇王・織田信長(1534~82)の傍らにあって、結果として天下の覇権を手中にした豊臣秀吉(1537~98)と徳川家康(1542~1617)の2人――。

徒手空拳から一国一城の主(北近江の長浜城主)となったとき、秀吉は37歳。彼はここから竹中半兵衛(1544~1579)、黒田官兵衛(1546~1604)など即戦力の人材をスカウト(獲得)する一方、加藤清正(1562~1612)、石田三成(1560~1600)など若い人材の発掘・育成に力を入れた。秀吉の“家”には代々仕える譜代の家臣がいなかったからだ。

一方、三河の小大名・松平広忠の長男に生まれた家康は、剽悍で知られた“三河武士”を擁する宗家で、譜代の家臣には事欠かなかった。

家康が駿府の今川義元(1519~1560)のもとで人質生活を送っていた頃のこと。彼が義元に先祖の法要を願い出て、故郷・岡崎への一時帰国を許されたことがあった。ときに家康15歳。彼にとって7年ぶりの帰国だったが、このとき岡崎城内には大量の軍資金や兵糧米が蓄えられていたという。

無論、いつか正式に帰国する家康のために譜代の家臣たちが苦労して集めたものだ。

家康は、忍従の生活を強いられている家臣一人ひとりに頭を下げて、労いの声をかけた。
「苦労をかけるが、いましばらく辛抱してほしい」

家康の言動に彼らは皆、涙したという。
秀吉に比べれば、家康は人材集めに恵まれていたといってよい。

とはいえ、家康は幼少期以来の苦労人だ。彼は3歳にして生母と生き別れを余儀なくされ、6歳からは人質生活を送り、8歳で父と死別している。
そんな境遇で育った家康は、常日頃、家臣たちを気遣った。
「お前たちこそ、私の宝だ」

家康と三河以来の家臣との絆は深く、その関係は生涯にわたった。
また彼は、信長や秀吉同様に身分や出自を問わず採用。召し抱えた家臣たちを信頼し、長所を見出して大切に扱った。

徳川四天王

雇用流動化の時代、企業にとって優秀な既存社員の離職を防ぐとともに、外部からスカウトした人材をどう活かすかが大きなテーマになっている。

徳川家康の側近として、天下取りに大きく貢献した功臣を〝徳川四天王〟といった。酒井忠次(1527~1596)、本多忠勝(1548~1610)、榊原康政(1548~1606)、井伊直政(1561~1602)の4人を指す。

家康の家臣団といえば、三河武士を中心とした結束力の強さで知られたが、四天王のうち直政1人だけ隣国の遠江出身だった。つまり、直政は徳川家中にあって中途採用の外様、いわゆる新参だ。

現在、雇用の流動化が進んでいるとはいえ、新卒入社の人に比べ、途中入社の人が出世するのは難しい。

下剋上の乱世とはいうものの、戦国時代も中途採用の外様や新参が出世することは容易ではなかった。譜代や古参の家臣たちが黙っていないからだ。

いつの時代も、大なり小なり譜代と外様、古参と新参の壁は存在する。当然、徳川家にもあった。

そんななか、家康はどのようにして新参の直政を育成し、直政は家康の期待に応えたのか。

2人の出会いは天正3年(1575)の冬――5年前に岡崎から遠江の浜松へ居城を移した家康が城下で当時15歳の直政を見出したとされる。もともと井伊家は遠江の井伊谷を本拠とする国人で、今川氏の被官(部下)。桶狭間の戦いで戦死した当主・直盛に男子がなく、一族から直親が迎えられたが、この直親が家康との内通を疑われて今川家に暗殺された。直政は直親の息子で、家康はそのことを知って彼を預かった、とも。

家康の小姓となった直政が、徳川家中で存在感を示したエピソードがある。

ある日、家康に従っていた直政は不運な負け戦に遭う。退却の途中、家臣の1人がとある神社に赤飯が供えられているのを見つけた。空腹だった家康と家臣たちは、それを貪るようにして食べたが、直政1人だけ手を出さない。何度か家康が気遣って促しても、彼は手を出さなかった。

「腹が減っては戦ができぬ。皆の足を引っ張らぬように食えと言っておるのがわからぬのか!」

家康の怒号に対し、直政は毅然と答える。

「殿、いま敵に急襲されれば私が殿軍を務めます。ここで敵に敗れ、腹を裂かれたとき、胃の中に盗んだ供物の赤飯が入っていては末代の恥。そして何より、殿に恥をかかせることになります。どうかお許しを――」

直政の言葉に家康は大いに喜び、やがて彼を重用するようになったという。

家康流人材育成

直政の戦闘スタイルは、初陣の頃から命賭けの捨て身のもので、生疵が絶えなかった。彼は新参が認められるには武功、つまり結果を残すしかないとわかっていたのだろう。

天正10年(1582)3月、長年、家康を苦しめてきた甲州の武田家が滅亡する。家康は武田家の遺臣たちを召し抱え、戦国最強と謳われた武田家にあって常に先陣を任された部隊――山県昌景の“赤備え”を直政に受け継がせた。ときに直政23歳。

このとき、家康は直臣の木俣守勝(1555~1610)を若い直政の補佐役に据え、歴戦の猛者が集まる〝赤備え〟――武田家の遺臣たちに直政の育成を依頼したようだ。

やがて武田の遺臣たちは直政を一軍の将になるよう教育を始める。彼らはまず、それまでただがむしゃらに戦ってきた直政に対して、彼が目指すべき目標を定めた。

「本多忠勝殿は、数十の戦に赴きながらかすり傷ひとつないと聞く。殿は本多殿を好敵手とされるがよい」

さらにかつての主君・武田信玄や家康を例にあげながら、戦場で血気に逸る直政の心を諫める。
「自らの戦功を焦って数多の家臣を見捨てるなど、われら旧主(信玄)も大殿(家康)もなさりませぬぞ」

優秀な家臣たちに恵まれた直政は幸運だった。以後、彼は一軍の将として立ち居振る舞いを心掛けつつ、彼らとともに徳川家の先鋒として数々の戦に臨んだ。このとき、大将として指揮をとったのは木俣だったという。

やがて〝井伊の赤備え〟は、家康と秀吉の直接対決――小牧・長久手の戦いで天下に武名を轟かせ、秀吉の小田原征伐でも活躍。戦後、直政は並いる譜代・直臣を押さえ、徳川家中最高となる上野国箕輪12万石を与えられる。

「これは、われらの戦である」

慶長五年(1600)9月、直政は本多忠勝とともに家康本隊の一員として関ヶ原へ向かった。

決戦当日――朝から小雨が降り、深い霧がかかっていた。午前8時、ようやく薄れゆく朝霧の中、直政は家康の四男・松平忠吉とともに30騎を連れて持ち場を離れた。

この日の東軍の先鋒は直政ではない。事前の軍議では福島正則(1561~1624)率いる軍勢が先鋒をつとめることが決められていた。正則は秀吉子飼いの武将で、豊臣恩顧の代表格だ。

古来、大戦の火蓋を誰が切るか、大きな問題だった。

このまま正則に先鋒をつとめさせたとすれば、徳川家は大いに面目を失うことになる。
(ここはなんとしても私が――)

直政は忠吉とともに〝物見〟と偽って、先鋒の福島正則の軍勢の側をすり抜ける。
(すべては徳川家のために――)

そして東軍の最前線――西軍の宇喜多秀家隊の前に出た彼は、一発の銃声を轟かせた。

「これは、われらの戦である」

そこに直政の自己顕示欲はない。だからこそ〝抜け駆け〟という汚れ役を買って出たのだ。

一度、始まってしまえば、それを咎める者などどこにもない。直政と忠吉は西軍の中に分け入り、幾つもの首級をあげる。さらに戦の大勢が決したあと、敵中突破を企てた島津勢の前に立ちはだかり、主将・島津義弘の甥である豊久を討ち取った。

戦いが終わり、負傷した忠吉に付き従って、直政は満身創痍で家康の本陣に戻った。
「逸物の鷹(家康)の子(忠吉)は、さすがに逸物でございました」

家康は直政と忠吉の活躍に満足しつつ、笑いながら答えた。
「それは鷹匠(直政)の腕がよかったからであろう」

戦後、直政は敵の総大将・石田三成の居城・佐和山において18万石を与えられる。

家康は言う。

「直政は口が重いが、一度事が決したなら決して躊躇せず、すぐに実行に移す。わしが考え違いをしたら、他の者のおらぬところでこっそりと意見してくれる。それゆえわしは何事であれ、直政に内談するのじゃ」

関ヶ原における〝世紀の抜け駆け〟について、両者の間に〝内談〟があったかどうかは謎だ。

家康は新参の直政を育てるために距離を置いた。徳川家中で直政の能力を最大限に引き出すためには、そうすることがベストだと考えたからだ。

一方の直政は、常に新参として立場をわきまえ、スキルアップしながら一歩退いたところで徳川家中を見ていた。そして徳川家の命運を賭けた一戦で、彼は家康の思いを汲み取って大仕事をやってのけた。

外部からスカウトした優秀な人材との、節度ある距離感――。

雇用の流動化が進むいまこそ、家康が直政におこなったように、なるべく早く個々の能力を把握し、相性の良い組み合わせで仕事をさせる配慮が必要だ。 (了)

※この記事は2018年12月に【日経ビジネスオンラインSpecial】に寄稿したものを【note】用に加筆・修正したものです。

【イラスト】:月岡エイタ

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