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#142|「仕事」が「労働」になってないか?

今日は神戸にいる。カフェでブログを書いていたらクソ長い話になった。なんでこんな内容を書き始めたのか、謎すぎる。きっと神様が「仕事しろ」って言ってるんだと思う(だったら長いブログ書いてないで仕事しろ)note365日連続投稿チャレンジ142日目。

「労働」していてはいけない

「労働」していてはいけないぞ、ということを定期的に考える。

労働(ろうどう、英: Labor)とは、人間が自然に働きかけて、生活手段や生産手段などをつくり出す活動のこと(経済学)。 からだを使って働くこと。

Wikipedia

ここで話にあげる労働とは、上のような一般的な意味ではなく私の独自解釈の「労働」について。

それは、①自分の「本意ではない働き」に関するものであり、②あるいはそれを「労働だ」とみなしてしまうような活動に関するものであり、③「省くことができる行動」に関するものだ。

わかりやすいのが、「食っていけないから嫌々働くのだ」という事例。これはマズイことで、自分がしていることを受け入れられない人生は辛い。その場合、違う仕事をするか、受け入れる方向で内面を深ぼるか。

べつの例では、「広いフローリングの家に住んでいて毎日拭き掃除をしている」というような行為。ルンバを使えばその行動はカットできるのに、「昔からやっているから」などの理由でその労働を惰性的に続けてしまっていないか?ということに注意したいと思っている。※吟味した上で「私は拭き掃除が好きだな」と選択的に行うなら、それはここでいう「労働」にはあたらない。


私は「働きたくない」

私はよく「働きたくない」と言っている。しかし、「仕事をするのは大好きだ」。これは独自の感覚だが、私にとっての「働く」とは、「仮にそれが他者貢献になることであっても納得できない or やる事自体が無駄」な行いを指し、「仕事」とは「自分が納得 or 進んで行える、他者貢献になると感じる活動」だ。

大事なことは「自分の納得感」×「世に生み出す価値」で、「働いているかどうか」は問題ではないと思っている。

私が定期的に問う「労働していてはいけない」というテーマは、言い換えると「納得の行く仕方で価値を生み出す構造をどう作るのか」、とも言い換えられる。

これを作り上げることが「仕事」とも言えて、私は「生涯『仕事』をして生きるための構造」を作りたいと思っている。


労働は「買う」ものである

そこで、「労働は買うもの」と捉え直す。そして、「労働を買うための資本を自分の納得の行く活動で得る」ことが理想だ。

わざわざ「捉え直す」と書いたが、一面としてはそもそも当たり前のことだ。意識していなくても、たとえば「野菜を育てるという労働」や「肉をさばく」といった労働は買っている。あらためて考えたいのは、「それを買うための資本の獲得方法を工夫する」ということだ。

たとえば、家事がしたくないならかわりにお手伝いさんに依頼する。そのためのお金は自分がしたいことで稼ぐ。(ここで、お金を嫌々稼ぐのなら家事をしてもいいじゃない?ということになる)

この構造で生活できることは、私にとってとても重要なことの1つで、充実度の高い人生の条件になる。


「好きなことで生きていく」には

「好きなことで生きていく」「やりたいことをやろう」という言葉が流行って、それを「=負荷から逃げていい」と捉えた人はうまく行かなかったハズだ。

それで生活を成り立たせるには、「結果的に死ぬほどがんばる」必要があるためだ。逆にすごい負荷がかかるのが当たり前になる。

ただ、その「好き」の熱量が高ければ「死ぬほどがんばっている」とも感じない。そういうレベルの「好き」「やりたいこと」があるなら安心できる。

「毎日必ずテレビに向かってコントローラーを操作する。500日間、1日16時間」これはゲームに興味がない場合は地獄でしかない生活だが、これが好きな人ならそこが天国になる。※実際にFF14とかプレイしている人でそういう人はたくさんいた。

私の例だと、私は1日中人と対話していてもまったく苦ではない。16時間話し続ける、ということが楽しんでできる。終わったあとに体力的な疲れはあるけれど、気持ちはより燦々としている。※もちろん、「対話」でなく一方的な愚痴聞きとかだと嫌だし、中には疲れる相手はいる。それは、ゲームが好きな人でもクソゲーはつまらん、みたいなもんだ。


これはあくまでハードな方面のたとえ話で、現実ではここまでの「好き度」がなくっても成り立つケースも多い。

実際に「好きなことで生活費を稼ぐ」ことが「成り立つか否か」は
①そのアウトプットをどの市場にどんなポジションで出すのか
②その市場のプレイヤーとのバランス
③そこから上顧客がつくかどうか
④そして最後は運
といった、極めて個別具体性が高く時限性のある話だ。

なので逆に、先に挙げた例のように「500日16時間やれる」レベルの「好き」ではなくても成立するのだ。

ただ、現代は市場の境界線が溶けていっているため、ひたすら「どれだけそれにコミットしてやっているのか」×「どれだけその人(会社)に魅力があるのか」が勝負になってきてもいる。

とはいえ、まだそれだけで突っ走れるほどの環境ではない。

冒頭の発想である「労働は買うものとして、『好き』で価値を生み、生活全体を成立させる」というような視点を持たずに、たとえば「ただ『好き』でやってるだけで稼げている」という仕方だと、終わりは必ず訪れる。

今はまだ、それを継続的に成り立たせるためには戦略が必要だ。よく「『100人に1人』レベルのことを3つかけ合わせてレアカードになれ」などと言われるように、意識的に市場の中での自分の独自性を切り出していかなければならない。

そのため、定期的に立ち止まってチェックする必要がある。これは「経営者視点」的でもある。


なんの「仕事」をするのか?

ぐちゃぐちゃ書いてきたが、よーするに「仕事ができればいい」というだけである。どうやって「労働」ではなく「仕事」をするか。

労働を回避するだけであれば「たくさんのお金があればいい」という答えもできるが、それは私が望む生き方ではない。

たとえ宝くじが当たって、基本的にどんな労働も買える状態になり、働かなくてよくなったとしても。仕事ができない人生は望まない。

自分の好きなこと or やりたいことで→なんらかの他者性を含んだ価値を生み出し→それを届けて→相手(社会)をよくすることができる。そういう意味で生涯現役でいたい。

あるいは、「1つの人生」というスパンでは価値は生めないかもしれないけど、何代かに渡って続けていった先に、大きな価値が生まれると信じられるような仕事もいい。それで生活が成り立つのであればそれも本望だ。


ぱっと見「色んな仕事をしているね」と言われる。あるいは「なんの仕事をしているのかわからない」と言われる。

私にとっては、こういった考えをベースに取り組んでいるので、ここから生まれることは全て「仕事」になる。だから「超ニッチ」な相談業だって、やりがいある楽しい仕事だ。しかし想像・理解しにくい仕事でもある。だから世の中の一般的なフレームに入りづらく、説明しづらい。


最近は「最も自分がラクに、貢献価値を大きくできる事」に集中していこうとしていて、受動的な他者のサポート的な仕事やそのような動き方だけでなく、自分から働きかけるクリエイターやパフォーマー的な仕事や動き方を模索中だ。

▼参考:サポーター以外の生き方に挑戦する

この命の可能性を全開にして、最終的に「自分」という素材でどれだけの価値を産めるのか。その過程をどれだけ楽しめるか or 意義を感じてBURNINGできるか。そして、そうした結果がどうなるのか、ということに興味がある。そのために、必要なだけ変化を繰り返して生きたい。


✑150分|3100文字

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