007 | 1週間おめでとう

note365日連続投稿チャレンジ7日目。

Q.なぜチャレンジを始めたのか?は初日の記事:目標宣言
Q.ブログを書く目的は?4日目:なぜ書けるようになりたいのか?

もう1週間たったのかーという驚きと、本当に毎日書いていることに自分でびっくりしている。やればできるじゃん、と思えるほどではまだないけど、少しは自分を褒めてもいいような気がしてくる。

今日は1週間書いてみて、感じたことをざっくばらんに残す。これまでで1番日記っぽい記事になりそう。

365日チャレンジ1週間で感じたこと

モーフィングしているような

今までなんで書かなかったのだろうか?と不思議な気分になっている。これまでの「書けなかった人生」と、これからの「書けるようになった人生」の間に立っている「現在」が、なんというか過去と未来の姿に常時モーフィングしているような、奇妙な感覚がある。


悪魔の囁き

このブログを書いている目的は「このブログを書くためではない」私としては(書く目的は4日目の記事に)、「いくらここに投稿していてもそれだけじゃダメだよね?」という、自分を責め追い立てる気持ちが浮かぶことも多かった。

その声にさらに耳を傾けたならどう育つかは知っている。「だからブログなんてやめるべき」「書いている暇ねえよな」「"誰"に"何"を設定せずに書く文章なんて無駄だろ」といった、自分を攻撃する言葉になる。

しかし、今の私にはそれらの声は無力だ。人生を変える、その手前に現れる罠として、こういう現象が起こることはすでに想定済みだからだ。(このことは2日目の記事:変化できる人に書いた)


懐かしい気持ち

10代の頃、はじめてWebに触れた時はテンションが爆上がりした。「これを操ればなんでもできるじゃないか!」そう思った。その衝動のまま自分のサイトを立ち上げて運営し、おままごとのようなものだがサービスも作った。出会い系サイトを作れば儲かる!と考えて、登録してもらうためのプレゼントコンテンツ(「出会い虎の巻」w)作りなどもした。

その後、色々なトラブルがあって心理的なダメージからおおやけに出られなくなった、というのが私の半生で、そのことのさわりは4日目の記事にも書いた。

この1週間で、Webを知った初期の頃の、素朴なワクワクが少しだけだが感じられて、けっこう楽しいということにも驚いている。


思っていた以上に時間がかかる

1記事にだいたい毎日2時間かかって、それでも「こういう記事にしたい」というイメージに全然届かない。もっと時間をかければいいが、2時間以上はさすがに厳しく、メンタル的にも不調をきたすのでここが上限だ。

しかし、それでは主張も論理も事例も全部「曖昧」なまま投稿することになって、これがかなり恥ずかしいし怖い。

このことを話すと「完璧主義」と言われるが、その内実はただ見栄っ張りで臆病なだけだ。書くことで自分を発見する、と言われるのはよくわかる。


個人でコンサル的なる仕事をしている立場からの怖さ

こんな文章を書いていて「仕事人としては」いいのか?という話。

この365日ブログを見てもまだ「この人に仕事を頼もう」と思ってくれるだろうか?ようは、顧客を失う行為をしているのでは?という怖さがある。

小手先の話だが、コンサルの人間というのはなによりもまず「余計なことは言わない」ことを心がけている人種だ(もちろん人による)。「沈黙は金」という格言は、ここでは文字通りお金に直結するからだ。

口数を減らして言葉のミスを避け、逆に余白を増やすことで顧客側がイリュージョンを抱いてくれる、といった(私の嫌いな)鉄板手法があるが、それはしないにしたって、この365日投稿はまったく真逆の行為だ。

どんなにすごそうな人でも、近づきすぎれば「ただの人間」の部分が見える。そこでがっかりされ言葉が届かなくなる、ということは本当によく起こる。

相手が「その人の"すごい部分"だけを見て学ぼう」といった心意気の人であればいいが、多くの人は「"芸能人"ではない相手の言葉を、お金を払ってまで聞こう」とは思わない。

ただ、この挑戦は逆に、自分が「金メッキ」でなく「本物の金」である証明にもなりうる。自分は365日表に出たって、素っ裸になったって、胸を張れる。そして「本物だ」と言ってもらえる、そんな人間になればいいだけの話。ここが勇気の発揮し所だ。


甘えさせてもらっておとなになるのかもしれない

普通、自分の内面をストレートに表には出さないものだ。そんなナマモノは誰も見たくないだろうし("芸能人"のナマは別)、出しても恥を晒すことになる。

どうしても内面を出したい場合、通常はその素材を人にとって価値を伴うものに加工して世に出す。たとえば初恋の人にフラれた衝動を歌にする、自分の痛みを踏まえた失敗防止の体験談にする、などはわかりやすい例だ。

しかし今回他者への配慮なく赤裸々に書き出してみることで、なんだか「自分」なんて良い意味で「どうでもいい」という感覚になった。これまで自分を出すことを避けてきたが、べつに出してもいいし、出さなくてもいい、という感覚を感じられた。

ナマのままを出して見てもらう、というのは読み手への甘えだが、1週間甘えさせてもらったことで、自分の中の何かが多少満たされたのかもしれない。人はこうして人に甘える行為を通して、おとなになっていくのかもしれない。

これは自分にとってめっちゃ重要そうに感じる心理面の作用なので、引き続き甘えていく。


こんなことしたらおもしろそうだな

この365日連続投稿チャレンジ、周りでもけっこう挑戦しようとしている人がいるし、note内でもそういうタグがあったりして、トライしている人が随分多いと感じる。

同時に、一人ではなかなかやり抜けないとも思う。逆に、同じ目標に向かっている人同士で交流することの威力がどれほど高いかも、いろんな企画をやっているためよくわかる。

なので、ブログ365日連続チャレンジをしている人、あるいは何かを365日続けようとチャレンジしている人を、応援するイベントはおもしろそうだ。

みんチャレとかでそういったことも盛んなのかもしれないけど、人数制限がたしかあった。もっと多くの人が参加できるようなものを作れないか?

これ、自分にとっては成長を感じるアイデアで、過去であれば「なるべく少人数で、顔を知っている人同士で、表立たずひっそりやる」というスタイルだったのに、こんなことを思うんだと新鮮な気持ち。

せっかくなので、ちょっと何か企画してみてもいいね。


✑128分|2671文字

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