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#191C|自分の生き様を全うする

今日も抽象的な話。とある出来事に対して、変化宣言を残しておきたくて。note365日連続投稿チャレンジ191日目。


ちゅ、多様性

世の中には色々な考えの人がいる。自分と同じかなと思っていた人でも、実はまるで違ったり。そんなことは当たり前にある。

自分にはどう考えても理解できない言葉、振る舞い、行動。そういうものはあって当然だ。そして、だからこそ同時に「誰か」は私にそのような思いを抱くことも当たり前だ。

そしてそんな相手には興味も湧く。その詳細を知りたいと思うが、聞いてもそれが理解できることは少ないだろう。そもそも、答えが返ってくることもあやしい。

「質問したら答えてもらえる」ことを当然だと思う感覚は修正した方がいい。答えてもらえるということは、実はとても有り難いことなのだ。人によっては「質問をする」ということ自体が失礼になることもある。

また、いつでも「何かしらを働きかければ、まともに対応してもらえる」という思い込みも捨てたい。声をかけてもフル無視、それどころかガチギレ、場合によっては攻撃を受ける、そんな対象、そんな状況、というものも、世の中には普通にある。

それが最近の社会が「多様性」を叫びつつもなかなか実現することができない理由の1つだとも思う。ようは、かなり根気がいるというか。他者の甘えを許す力がいるし、だから逆に自分に甘える力がいるとも言える。

私はけっこう多様性に寛容だという自己評価を持っているけれど、やっぱりしんどいこともある。


こだわりを手放せ

私には、「スルーできずについ反応してしまって、いちいち首を突っ込み、トラブルを発生させてしまう」ようなタイプの「属性」がある。

「属性」という言葉だけでは今話したいことをうまく表せない気がするので例を出すと、「熱狂的な巨人ファンで、他人が巨人をディスってる会話を聞いたり時は、直接文句を言わなければ気がすまない」という「属性」、という感じ。

そういうような意味合いで、私にはスルーが難しいタイプの属性を持つ人や出来事に遭遇すると、反応してしまう。それは自分の独りよがりな正しさ、許しがたい怒りのポイントだったりする。


誰にでもそういうことはあるだろう。たとえば弱いものいじめは見過せないとか、どうしても周りで喧嘩が起これば仲裁に入ってしまうとか、間違った知識を伝えている人には指摘せざるをえないとか、そういうものだ。

そのことを自分ではどうしようもない性分だと思っていたり、そんなところも自分らしさだと気に入っていたり、自分は正しいことをしていると信じていたりする。そうして人は、その行為を死ぬまで重ねていくのだ。


しかし私は、変化できる人間である。

今日を区切りに(具体的にどんな内容かを書くことは避けるけれど)、 自分の中にある、そういう種類のこだわり意識と、その実際のパターン行動を手放すことを宣言する。

それは、自分が「ほっとけない」と思ってしまう、関わらざるを得ないような「譲れない」部分だった。しかし、それはもういらない。


自分が最高だと思う生き様だけをまっとうする

そうして、いちいちネガティブな物事にエネルギーを使うのはやめて、ひたすら自分が「よい」と思う対象に注ぎ込んでいく。

「私はこうありたい」と思う生き様だけにフォーカスをあててまっとうする。それ以外には目もくれない。しかしやさしく包み込んであげられるように。

そう決めるとなんとスッキリとすることか。濁ったものが浄化されて、清らかになったような感覚が気持ちがいい。

私は「これ」だけでいい。今日も最高だ。



✑36分|1400文字

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