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68 鼻

草むらに人間の鼻が落ちていた。

拾い上げようとして膝を折り曲げた次の瞬間、男はその鼻の穴の中に入り込んでしまった。体が縮むかどうかしてしまったようだった。振り返ると遠くに外の世界が見えたが、引き返す気にはなれなかった。男は暗くじめじめとしたでこぼこ道を奥へ進んだ。

途中で何者かが苦しげにうずくまっていた。男が声をかけると、その人物は鼻が詰まって息ができない、助けてくれと言った。見てやると、確かに鼻の奥に何かが詰まっていた。

「頼む。取ってくれ」

相手はあえぐように言った。

道具などなかった。仕方なく直接指を突っ込んで引っこ抜こうとした次の瞬間、男はその鼻の穴の中に入り込んでしまった。

さっきよりも狭く、あちこちにヘドロのような小さな沼のある洞穴だった。どちらを向いても出口は見えなかった。ふと誰かに呼ばれたような気がして、男は声のする方向に歩いていった。

やがて、壁に寄りかかって何事か不平不満をつぶやいている、見るからに薄汚い男が現れた。そいつは饐えたような悪臭を放っていた。

「なんだてめぇは」

薄汚い男はこちらを見るなり言った。男が自分を呼びはしなかったかと問うと、相手はちっと舌打ちした。

「おれは誰もこっちへ来るんじゃねぇと言ったんだ」

とりつく島もなかった。男は話を変えて、この先に何があるのか訊いてみた。洞穴はまだ奥へと続いていた。

「バカめ。何にもありゃしねぇ。この世にはもうおれとお前のたった二人きりしかいねぇんだ。うへぇーへっへっ。嬉しいか」

薄汚い男は狂気じみた笑い声をあげると、両方の鼻の穴から飛び出したたわしように太い鼻毛をぶちぶちと引っこ抜き、ふっと空中に吹いた。鼻毛はくるくると宙を舞ったかと思うと、その一本一本が人の形に変身した。

十体ほども現れた鼻毛人間たちは、驚いたことにいずれも男にそっくりな姿形をしていた。どこかその薄汚い男に似てなくもないようだった。男にはまるでわけが分からなかった。それが何を意味するのかなど知りたくもなかった。

「忘れたのかよ。おめぇはおれの鼻毛から生まれた鼻毛人間よ。真実が分かって嬉しいか。うへぇーへっへっー!真実がよ!しんじ、っつ、うがっ、んげっ!」

薄汚い男は、喉奥で蛇口が詰まったような濁った音を立てると道端に痰を吐いた。

「あーくそ。鼻毛野郎が調子に乗るんじゃねぇぜ」

薄汚い男は、新たに生まれた十体あまりの鼻毛人間を引き連れて洞穴の奥へと去っていった。

一人取り残された男は、途方に暮れて立ち尽くした。自分が実は鼻毛人間なのだと分かった今では何の望みもなかった。おもむろに自らの鼻毛を引っこ抜き、綿毛を飛ばすようにふーっと吹いてみた。鼻毛はひらひらと宙を舞い、地面に落っこちた。何も生まれたりしなかった。

男は前を向いた。後ろを向いた。ここがどこなのかも分からなかった。男は鼻がむずむずしはじめたかと思うとくしゃみを連発した。くしゃみは洞穴によく響いた。




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