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50 息子

ある日、男の前に息子を名乗る人物が現れた。思い当たる節はあった。男は、かつて一度、ある女と情を通じたことがあったのだ。

暑い夏の日の出来事だった。

男がデパートで買い物をしていると、通路の奥の方から何かうめき声のようなものが聞こえてきた。ひょいと覗くと、トイレの手前のところに髪の長い女が苦しそうにうずくまっていた。大丈夫ですかと声をかけた途端、その女は豹変し、男の手を掴んで女子トイレに引きずり込んだ。

そのあとの出来事はまるで嵐のようだった。女とはそれきりで名前も知らないままだった。あのときに子供を授かっていただなんて、男は知りもしなかった。

息子に一緒に住みたいと言われると、男は断ることができなかった。

奇妙な共同生活がはじまった。

生活時間の違いから、二人が顔を合わせることはめったになかった。そうでなくても息子は部屋にこもりがちで、学校に通っているのか働いているのかも不明だった。

男の家で奇怪なことが起こるようになったのは、それからまもなくのことだった。

天井裏から何か大きな生き物が這い回るような音が聞こえてきたり、郵便物がびりびりに千切られて庭に散乱していたり、風呂場に蛇の死骸がぶら下げられていたりするようになったのだ。

男は何か心当たりがあるのではないかと思い、息子がトイレに入った隙を捉えてドアの前で待ち構えた。待てど暮らせど、息子は出てこなかった。諦めかけたそのとき、突然、トイレとは逆方向にある居間の押し入れが開き、そこから息子が何食わぬ顔で出てきたのだ。男は言葉を失って部屋に戻っていく息子の背中を見送った。

数日後のある晩、男は息子と台所で鉢合わせた。息子は練乳のチューブに直接口をつけてちゅうちゅう吸っていた。自分に似たかとも思えるようなその悪癖に、男は胸を締めつけられるような思いがした。その一方で、改めて顔をよく見ると、息子は自分とたいして変わらない年齢のようにも見えるのだった。

男は、ふと気になって母親が今どうしているのか訊ねてみた。息子は風俗に売り飛ばしたきりあの女とは会っていないと答えた。もう日本にはいないだろうということだった。息子は母親を売った金で上等の鰻を食べたと言って笑った。

また別の晩、男は風呂上がりの息子の背中に大きな傷跡があるのに気がついた。それはどうしたのかと訊くと、息子は暗い目になって戦争で受けた傷だと言った。どの戦争か見当がつかずに重ねて訊くと、息子はむっつり黙り込んでそれきり口をきかなくなった。

日ごとに男の家から物が一つ、また一つと消えていった。どうやら息子が持ち出して質に入れるかどうかしているらしかった。男が問いただすと、息子は突如地の底から響くような声で笑い出し、やがてむせ返って息をつまらせた。少し休んで呼吸を落ち着けた息子は、「貴様おれを殺す気か」と言って男を責めた。

男が出張で数日家を空けたあと戻ってくると、家は見ず知らずの大勢の若者たちによって占拠されていた。男は、若者たちの間を分けいるようにして探し、ようやく空の浴槽にうずくまって何事かぶつぶつ呟く息子を見つけ出した。彼らに出ていくように言ってくれと頼むと、息子はこの家は神に捧げられたのだと言って浴室にゲロをぶちまけた。

男はそのまま旅に出て、二度と家に戻らなかった。

旅の途中で、あの女と出会った例のデパートにふらりと立ち寄った。思い出をたどろうとして女子トイレに足を踏み入れると、あっという間に警備員に取り押さえられた。床に組み敷かれながら、男は悔恨の涙を流した。警備員は気持ち悪がって男を滅茶苦茶に殴りつけた。




*一挙掲載版はこちらです。



いただいたサポートは子供の療育費に充てさせていただきます。あとチェス盤も欲しいので、余裕ができたらそれも買いたいです。