【小説】ホーボーズ・ブルース2

「よし、しばらくここに居させてくれ」
 おれは最も使用頻度が低いという個人練向けのD室のドア口で言った。余ったスペースを無理やり防音仕立てにしたような印象だが、ちょっと狭いくらいで文句は言えない。
 室内には古い型のギターアンプが一つと、ガムテープがべたべた貼りつけられたドラムセットがあった。壁際に鍵盤が二つ三つ欠けたアップライトのピアノもあったが、それは貸し出し用というより他に置き場がなくて押し込んであるようにも見える。
「ちょ、え? なんスかそれ」
 久保木は眠そうな目をぱちくりさせて言う。
 音楽スタジオ「ルル」はすでに営業時間を終えていたが、近所に住んでいるこいつに頼み込んで開けてもらったのだ。久保木はおれの音楽学校の後輩で、バンド活動をしながらここで週六で働いているのだ。
 ネットカフェは猫を理由に断られてしまった。ペットの入店禁止というのは言われてみれば当たり前のことだった。そういうことならと今度は猫をギターケースに隠してサウナ付きカプセルホテルに入ったが、そこはそこで別の客に動物を連れ込んでいるやつがいるとチクられて追い出されてしまった。
 それで、ない頭を振りしぼって思いついたのが久保木のことだ。おれは久保木自身もこのスタジオをこっそりホテル代わりに使ったり、自分のバンドで無料で練習したりしていることを知っていた。それならおれと猫が泊まらせてもらって何が悪いというわけだ。
「夜の間だけ借してくれ。タダで。朝はじまる前に出てくから」
「無理無理、無理っスよ。スタジオ使いたいってそういう意味スか?」
「頼む。他に行くところないんだ」
「いや、そんな――」
「おれだけならいいけど、こいつがいるから」
 おれは一足先に部屋に足を踏み入れていた猫をあごで指した。今日久しぶりに久保木に会った瞬間から、こいつが相当な猫好きであることは分かっていた。ならば、情に訴えない手はない。
「でも、タイジさんの猫じゃないでしょ」
 久保木はあてずっぽうに言って抵抗する。確かにその通りだが、それでも猫は猫だ。
「他の猫にイジメられたらどうするんだ」
 こいつが野良猫どもに太刀打ちできるとは思えなかった。ケンカになればひどい怪我を負わされるだろう。久保木は困ったような顔でしばらく猫を見やる。
「この子、名前なんて言うんです?」
 名前。出会ってまだほんの二、三時間だったが、名前のことなんて考えもしなかった。飼い猫なら名前があるはずだが、飼い主が誰か分からないのと同じようにそれもまた分かりようがない。
「名前は、まだない」
 おれは読んだことはないが有名な小説のフレーズを借りて言った。
 久保木は何かいいことを思いついたかのようににんまりした。
「じゃ、つけましょうよ、名前」
 それは名付け親になる権利をくれてやる代わりに、ここに泊まらせてもらえるという交換条件みたいなものだった。おれとしてはむしろ歓迎だ。名前をつけて愛情がわけば、やすやすと追い出すこともできなくなるだろう。
「あ!」
 久保木が驚いたように言うその視線の先を追うと、猫がバスドラムに開いた穴からひょっこり顔を覗かせていた。バスドラムには音作りやミュートのためにフロントヘッドに穴が開いているのだ。中の空洞にはミュート効果を高めるために毛布が詰め込まれているが、猫のやつはそれがお気に召したらしい。
「かわいいー!」久保木は女みたいにはしゃいだ。
 何がかわいいだよと思ったが、これで今夜の寝床は決まったも同然だった。
「ホントはまずいんスからね。オーナーにバレたらクビなんで、マジで」
久保木はミルク皿を持ってきたり、トイレ用の段ボールを持ってきたり、事務所とスタジオの間をいそいそ行き来しながら何度か念を押したが、内心うきうきしているのが見え見えだった。おれは言われるたびに「分かってるって」と軽く受け流した。
 猫の名前はひろしになった。
 一昔前にちょっと名前が売れた芸人からとったのだ。
「ホントの猫ひろしだ。あは、ウケる。ウケますよ絶対。逆にかわいいし」
 久保木はそう言い残して機嫌よさげに帰っていった。控え目に言っても最低のセンスだと思ったし、逆にかわいいというのも意味不明だったが、好きにさせるしかなかった。
 猫と二人きりになると室内の無音が際立った。疲れているのに眠気は訪れず、おれは待ち合いから持ってきたクッションを枕にしてぼんやり天井を眺めた。
 考えるのはリサのことばかりだ。
 忘れられないというのとはちょっと違う。否応なく思い出されてしまうのだ。リサ。リサ。リサ。おれとあいつは一度はうまくいきかけた。それなのになぜ――。
 猫のひろしが穴蔵からのっそりと出てきた。
「お前も眠れないのか」
 ひろしは足音も立てずにギターケースに歩み寄ると、おでこで蓋を押し開けようとする。しばらく放っておいたが、やがて何か聴きたがっているのかと気がついた。おれは気分転換のつもりでギターを取り出した。
「お前、ホントに音楽が分かるのか?」
 ひろしはチューニングをするおれの手元をじっと見つめる。お喋りはいいから早くやれというところか。
「そんなわけないよな」
 曲を決めあぐね、適当にコードを鳴らしては昔コピーしたロックの名曲のリフをいくつか思いつきで弾く。気が乗らず、やがて手が止まる。
「明日からどうする?」
 ひろしは床に伏せたまま黙ってこちらを見返す。
 宿の心配はひとまずいらなくなったものの、今のままではどうにもならなかった。おれはどん詰まりにいるのだ。どうしてこうなったのか、ギターをつま弾きながらぼんやり考える。何度考え直してみても、たどり着くのはリサだった。

「いい加減にして! 話があるならメッセージでもくれればいいでしょ!」
 リサは彼女が勤める古着屋の前の路上で声を荒げた。
 ちょうどウィンドウのマネキンに着せる服を替えていたところに出くわして声をかけたのだ。おれだって怒らせようとしたわけじゃない。朝スタジオを出たら行くところがなくて、足が向くのに任せていたらここに来てしまったのだ。
「連絡したって返さないだろ」
「返すわけないし」
「だからこうやって――」
「迷惑!」
「リサ、警察呼ぶ?」リサの同僚がおっかなびっくり顔を覗かせる。
「あっち行ってて!」リサはぴしゃりと言って追い払う。
 ストーカーじゃあるまいし。おれがぶつぶつ言うと、リサは「みたいなもんでしょ」とすぐさま矛先をこちらに戻した。お前までなんだよと口の中でもごもご反抗すると、リサは苦虫を噛み潰したような顔になっておれを路地にひっぱり込む。
 路地にもまた別の小さな古着屋があった。路地ばかりで古着屋ばかりある街だ。
 両手で顔を覆うようにしてその中に「サイアク」と漏らすリサは、服飾系の専門学校を出たインディーズバンド好きの二十四歳。おれよりもだいぶ若い。
 ライブハウスで知り合ったおれたちは、他のバンドメンバーやなんかも含めたグループで遊んだりフェスに行ったりしているうちに親しくなった。最初は妹のように思っていたが、三ヶ月前のライブの打ち上げのときに一線を越えた。そういう関係になってはじめて、おれは自分がどうしようもないくらいこいつに惚れていることに気がついたのだ。
 それなのにこいつは佑太郎とくっついた。よりによってうちのバンドのキーボードとだ。バンドが解散になるのも当然だった。
「やり直したい」おれはまどろっこしい話は抜きにして言った。
「やめて」リサは手で壁を作るようにして言うと、いったん横を向いて間を置いた。
「タイジとしたのは間違いだった」
「今更そんなこと言うな」
 おれたちがそういうことをしたのは一度きりのことだった。だが、お互いの気持ちは確かに通じ合ったのだ。なかったことになんてできない。
「もう過ぎたことなの。忘れて。だいたい二人とも酔ってたでしょ」
「おれは酔ってなかった」
「そういうことじゃない」
「そういうことだろ」
 こいつだっておれのことが好きだと言ったのだ。おれたちは何度も名前を呼び合いながら一緒に果てた。酒は少しは入っていたが、最初から最後まですべて覚えている。リサだって同じはずだ。
「おれたち――」
「やめてってば」
 きつい語気に口をつぐむと、それきりリサも黙った。
 路地一帯に重い空気が立ち込めるようだった。眉間にシワを寄せて思い悩むリサを見ていると、こいつの心にはもうおれはいないのだというイヤな考えが次第に頭をもたげてきた。なぜだ。いつの間にこんなことになった? おれが何かサインを読み違えたのか。
「気持ちが変わったの」
 おれは黙ってリサの目を見た。リサはこちらを向いていたが、本当にはおれのことを見ていなかった。ただこの状況に対処しようとしているだけだった。
「わたしにどうしてほしいの?」
 そんなこと、おれにも分からなかった。
「なんであいつなんだ。おれじゃなくて」
「なんでって――」
 リサはしばらく考え込んだが、うまい言葉が見つけられないようだった。それとも、もう答えは言っていたのかもしれない。
「大人になってよ」彼女はただそう言った。
 おれは返事もできなかった。ふいに足元にまといついてくるものがあって、視線を下に落とす。ひろしだ。
「さっきから何、その猫?」
 リサは屈み込んでひろしの背中とあごの下をいっぺんに撫でる。慣れた手つきだ。
「アビシニアンブルーだね」
「分かるのか?」
「知らないの?」
 アビシニアンブルーなんて聞いたこともなかった。リサが「おいで」と言ってひろしを抱き上げると、彼女の表情がはじめて少し和らいだ。
「名前は?」
「……さぁ」
 何となく、ひろしと言うのは憚られた。
「ねぇ」
「え?」
「バンドのこと、もう一回考え直して」
 おれはむぐと黙り込んだ。
「ひどいこと言ってるのは分かってるけど、みんな他に行き場がないんだよ。佑太郎だけじゃなくて、タクちゃんとゼンちゃんも」
 ベースのタクヤとパーカッションのゼンちゃんのことだ。二人とも、おれが解散を宣言した理由を分かっていて中立の立場を取っていた。おれを責めたっておかしくないのに、ムカつくやつらだ。だが、バンドのことを考え直せと言われても無理だった。今はとても気持ちが整理できない。だいたい、おれの行き場はどうなる。それも大人になれか?
「もう行くよ」
 リサは黙ってひろしを返す。
「悪かった、迷惑かけて」
 リサはただ小さく首を横に振った。



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